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雨の夜に

玉普。長い時間を経てはじめての夜を迎える。
「雨のせいにしては、いけないだろうか」

かすかな物音が聞こえて目を覚ました。まだ夜明け前、うっすらあかるくなりかけた部屋を、横になったまま見回して、その人の姿がないことにすこしだけ安心感を覚えた。寝台の上で身を起こし、肩からずり落ちる夜着を引き上げる。ふと視線を落とした二の腕の内側に朱い痕があるのに気づいたのは、その時だった。眠気が覚める。頬が熱くなる。

昨夜のことは夢ではなかった。そう思うだけで息が止まりそうだった。長いこと、本当に長い間、互いの気持ちに気づいていながら、その先を選ぶことをためらっていた。どちらも大切なものがあるのだから、踏み込むのはよしましょうと提案すると、一瞬考えたのちに「わかった」と頷いた。そのときの、やや淋しそうな横顔に、胸が痛んだけれど、きっとこれでいいのだ、これ以上この優しい人を困らせてはいけないと、心の中で言い聞かせた。

昨夜、業務連絡だと訪ねてきたときも、だからほんとうにただの業務連絡のつもりだったし、最初はそうやって事務的に話が進んでいた。互いの弟子のこと、導くことの大切さ、難しさ。出したお茶が冷めるほど、話に夢中にはなったが、その内容は高位にある仙人として正しいものだったと思う。
ふと会話が途切れたのは、窓の外から聞こえる音に気づいたからだった。
……雨?」
「そのようだ」
彼は席を立ち、窓の傍に歩み寄る。その横で、普賢もすっかり暗くなった窓の外を見上げた。
「昼間はあんなに晴れていたのに」
「急に崩れるものだな」
この人が帰るときにはやめばいいけれど。そんなことを思いながら、席に戻りかけた、ときだった。
腕を引かれて抱きすくめられたとわかったのは、一瞬後だった。状況を把握できず、息をするのも忘れた。雨音が強くなっているはずなのに、ただ耳には互いの鼓動だけが響く。
「普賢」
低く呼ばれて身をかたくする。
「すまない、本当はこういうことはいけないとわかっているのだが」
遠慮がちな腕の力で、彼がどれほど躊躇っているかが伝わった。なんと答えようかと言葉を探し、探しあぐねて黙り込んだ普賢に、ほんのわずか腕に力を込めて、彼は耳に囁いた。
「雨のせいにしては、いけないだろうか」

それは、ずっと聞きたかったひとことだった。以前のように拒まず、頷いたのは(本当にいいのだろうか、本当に?)そんな自問自答よりも、嬉しさが上回ったからだった。

抱擁の強さに眩暈がした。

初恋ではなかったし、もちろんこんな夜もはじめてではなかったのに、まるでお互いがはじめて他人にふれるみたいだった。おずおずと伸ばされる手も、ふれられるたびにいちいち息を飲むのも、いかにも滑稽で、それなのに、どれもが心が震えるようだった。
だれかと熱を、呼吸をわかちあう時間が、こんなにも愛おしいなんて、はじめて知った。

いつの間に彼は帰ったのだろう。雨はやんだんだろうか。敷布に残るのはたよりないぬくもりで、だからずいぶん前にここを出たのだろう。もしかしたら後悔しているのかもしれない、やっぱり帰るべきだったと。
すこしばかりがっかりした心持ちで、普賢はそっと扉を開けた。そして目をみはった。果たしてその人が軒下に座り、じっと空を見上げている。昨日のことが嘘みたいに静かだった。
ぽたりと軒から雫が落ちたが、雨はすっかり上がっている。塑像のような彼の姿に声もなく見入っていると、ようやく彼が気づいて顔を上げた。
「普賢。おはよう」
どうして、と呟くと、「眠れなくてね」と苦笑する。
「年甲斐もなく気持ちが昂ってしまった。すこし落ち着こうと外に出たのだが。――ここからの眺めはとてもいいな」
遠く山々が連なる青が、夜明けとともに色を変えていく。彼の洞府から見る景色とは違うだろうから、珍しいのだろう。うん、と頷いて隣に座った。
いっしょに見る夜明けはとても美しかった。
こんな夜はもう二度とないかもしれない。それでも、
「今日もいい天気になってよかった」
そう笑えば、また遠慮がちに肩を抱き寄せられた。