さわやかな秋の午後だった。空は高く、刷毛でさっとはいたような雲がところどころ、あわい青を覆っている。そんな晴れの日にそぐわない険しい表情で、玉鼎は道行く人を見つめていた。街路樹下のベンチに座ったままかれこれ小一時間。隣のベンチにやってきたカップルが、来月予定しているらしいドライブデートのコースについて、スマホであれこれ検索しては笑いあい、ああでもないこうでもないと盛り上がり、持っていた大きめのカフェラテを飲み干して、席を立つ、それぐらいの時間は過ぎている。
赤く色づいた葉が頭上からときおり舞い落ちるのを、目で追うふりをして、そのむこうに一軒の小さな店を見る。あそこに、行かねばならない、のだけれど。
土日ともなれば周辺の市からも若者が足を運ぶ、街で人気のファッションビルだった。1階はビオトープ風のエントランスで、子供が遊べる小さな水辺と、花壇には四季折々の花や常緑の観葉植物が整えられている。美しく弧を描く煉瓦の模様に合わせて並ぶ素朴な木製のベンチには、老若男女が腰を下ろしゆったりと語らっている。
カラフルなテナントが並ぶ中で、ひときわ賑わう一角があった。甘い香りに引き寄せられるように、人の波は切れることがない。そして、だからこそ玉鼎はここから離れられないでいる。あの客がいなくなったら、その後ろのカップルが立ち去ったら、そうやって客がいなくなるタイミングを計っているのに、いっこうに客が途切れない。そればかりか、行列はどんどん長くなる。「土日のみオープン」と聞いてはいたが、まさかこんなに人が押し寄せるとは。甘かったと、まだなにも食べていないのに、内心ため息をつく。
「部長はもう行かれました?」
そう訊ねられたのがきっかけだった。ミーティングルームで若い部下たちが談笑しているので、なにか楽しい話題でも、と聞いたのだ。
「あそこのクレープ、絶品なんですよ!」
うれしそうに身を乗り出したのは昨年入社したばかりの女性社員だ。なんでもあちこちでスイーツを食べ歩いてはSNSに写真を投稿しているらしい。フォロワーの数も相当なんですよ、と傍らの男子社員が説明してくれる。仕事の情報収集以外に、その手のツールを使わない玉鼎は、ほうと感心するしかない。
「いろいろ食べてるけど、あそこのはほんとおいしいんです。見た目がかわいいだけじゃなくて、素材にこだわってる感じ」
「まあ、私には縁のない食べ物だな」
苦笑しながら会議の資料を準備しはじめた玉鼎に、彼女はええ…といかにも失望したようにため息をついた。
「若者向けのコンテンツを作る人が、流行に無関心でどうするんですか」
他の社員は彼女の言い分を失礼だと咎めたが、もっともな意見だ、と玉鼎は思う。若い人が手にするメディアといえばネットが主流になっている、だから雑誌が売れないのだと、会社の上層部は言いわけのように口にするが、それはなんら動くことなくブラッシュアップもしない世代が、自ら招いていることではないかと、うすうす勘づいてはいた。時代は猛スピードで移り変わっていく。それにちゃんとついていくには、好奇心と体力が必要なのだ。
「その店はどこにある? 私も行ってみよう」
彼女がぱっと顔を輝かせた。
「1階の右端です。並んでる人が多いのですぐわかりますよ」
そうしてわざわざ休みの日に足を運んでみたのだったが、彼女が話していたとおり、行列は他のテナントに比べて格段に長い。店員がにこやかに、だが手を止めずクレープを焼き上げていくのを、遠目に見ながら、認識が甘かったと思わざるをえなかった。並んでいる人は8割女性グループ、1割カップル、1割親子連れ、という感じで、どんなに鈍感な玉鼎でも、あそこに男一人で並ぶ度胸はなかった。とはいえ、大見え切った手前、「行列が長かったから食べなかった」と言えるはずもない。そうこうしているうちに1時間。そろそろなんとかしたい。
だれかもう一人連れてくればよかった。そう、楊戩でもいれば、待っている間も持ったはずだ。あの子はこういうのは全然平気だろうから、それにつき合わされているふりをすればよかったのに。
いまそんなことを思ってみても仕方がない、自分でなんとかしなければ。背水の陣、などという物騒な言葉を脳裏に思い浮かべながら顔を上げ――そして彼に気づいた。
同じように男一人、玉鼎の二つ隣のベンチに座って雑誌を読んでいる。いつからいたのだろう、年は楊戩よりもすこし若いくらいだ。そう、ここのクレープがおいしいのだと絶賛していた新入社員と同じくらいか。ああいう年の男であれば、こういうのを買うのに抵抗もないのでは。
ようやく立ち上がり、そして彼の前に立つ。
「あの」一世一代の勇気で、声をかけた。
「もし、迷惑でなければ、あの店で、クレープを買ってくれないだろうか」
彼は読んでいた雑誌から目を上げ、きょとんと玉鼎を見つめた。なにを言われているのか、理解できないようで、軽く首を傾げている。玉鼎は思わず「いや、」と慌てた。
「実は会社の若い部下にすすめられて来てみたのだが、とてもおいしいという噂だというので、なのだが、こう行列が長いと、なかなか、」
しどろもどろになる玉鼎を、彼はしばらくじっと見上げていたが、やがてくすりと笑って雑誌を閉じる。
「ああ、確かに。男性一人ではちょっと気が引けるかも」
いいですよ、と彼は立ち上がった。黒いビジネスバッグに雑誌を戻し、「何がいいですか?」と玉鼎に訊ねる。
「なに、と言われても……なにがあるのかも、よくわかっていなくて」
「ですよね」
苦笑しながら、それでもその男は列の最後尾につく。一緒に並ぼうとする玉鼎を、彼はにこやかに制した。
「むこうで座って待っててください。僕のおすすめを持っていきますよ」
長い行列のわりに、彼は想像よりも早く戻ってきた。手にはクレープが二つ。自分の分も頼んじゃいました、と言いながら、片方を玉鼎に差し出す。
「苺が嫌いでなければ、こちらを。一番人気のロイヤルストロベリー生クリームスペシャルに、チョコチップを追加してみたんです」
「……そんなことができるのか」
カスタムは自由だからね、と手渡されたものは、ずっしりと重い。
「苺と生クリームの相性は最強なのでおすすめです。あ、中のローストアーモンドも増量してもらったんだけど、どうかな。ちなみに僕のはバナナ生クリームチョコのアーモンド増量」
ふちにわずかに香ばしい焦げ目のついたクレープの、くるりと巻いた中には、薄い苺が花びらを描くようにあしらわれている。ホイップクリームは今にもこぼれそうに盛られ、真ん中につんと角を立てている。まるで工芸品の美しさだった。
なるほど、と玉鼎は頷いた。
「一番おすすめというなら、これをいただこう」
「どうぞ召し上がれ」
彼も隣に座った。
どこから食べようか、しばし迷っててっぺんに乗っている苺を齧った。酸味と、じゅわっと口中に広がる甘さ。こんな苺があったのかと思うほど濃厚な甘みに思わず目をみはる。
「おいしいでしょう。きらぴ香っていうあたらしい品種なんですよ」
「……そうか」
甘さ控えめな生クリームは濃厚すぎずかろやかで、苺の風味を引き立てる。香ばしいアーモンドがアクセントになって、ボリュームがあるのに変化がついて飽きないのも見事だった。底に入ってる特製のカスタードクリームも絶品ですよ、と横から説明されたが、そこまではなかなかたどりつけない。
「……ここのお店は」
ふと、バナナチョコのクレープを半分まで食べた彼が口を開いた。
「先々代は老舗のパン屋さんだったんです。人のいいご夫婦が長年営んでいらして。代替わりして、先代のご主人が若者に人気の店をとクレープをはじめて、それが大ヒット」
なるほど、とチョコレートソースのかかった部分を齧りながら玉鼎は無言で頷く。このほろ苦さも苺に合うのだなと思いながら。
「今はもっとおしゃれな店もたくさんあるんだけど、なんとか先代が試行錯誤して辿り着いた味を絶やさないようにしようと、いま、若い主人が頑張っているんです。おいしいフルーツを求めて全国各地を渡り歩いたり、生産者とのつながりをどんどん作ったり」
「……ここは新しいビルだと思っていたが、そんなに昔からある店だったのか」
ええ、と答えた声は穏やかながら凛として聞こえた。
「街は新しくなっていくし、そこにできる店も来る人も、新しいものを求めて入れ替わっていくけれど、そういう荒波にちゃんと乗っかって店を続けるにはエネルギーがいる。あの店はいつも行列が絶えないけれど、それはあそこの主人が、相当がんばっているからですよ」
だから僕も応援したくて、通りかかれば買っちゃうんです。
最後のひとくちをポンと口に放り込んで、彼はそう言った。
噂にたがわぬおいしさだった、ありがとう。そう頭を下げながら、玉鼎は財布を出す。
「ああ、ここは僕の奢りです。気にしないで」
「そういうわけには……。私が頼んだのだから」
買いに行かせた上に金まで払わせるわけにはいかないと渋る玉鼎に、「では」と笑顔を向けた。
「またぜひ食べに来てやってください。そしてその時は僕も誘ってほしい。この近くに勤めているので」
出された名刺には地元の大手不動産会社の名があった。
「……もしかしてここの?」
「ええ」
上です。ファッションビルのオフィスフロアを指さす。なるほど、だからテナントの事情にも詳しいのか。
「冬にはティラミス味やスイートポテト味なんかも出るんです。ぜひご一緒させてください」
それは楽しみだ、と言いながら握手をすれば、年相応の手ごたえで返された。見た目若いけれど、相当キャリアを積んでいるのかもしれない。
さて。
にこやかに去っていく彼の背を見送ってから立ち上がる。
テイクアウトもできるようだから、楊戩に一つ買って帰ってやろう。あの子は何が好みだろう。そう思いながら、玉鼎は列の最後尾についた。
了
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