instant
Public
 

エスケイプ

過去作一部手直ししました。とっても不幸でしかない伏普です。
あとしまつ後はラブラブハッピーな二人が好きな方はご注意ください。

袖を引く力がぱたりと落ちて、その瞬間、睡魔が襲ってくる。眠りに落ちる寸でのところで冷えた空気が首筋を撫で上げた。顔を上げると白い背中がこちらを向いている。夜の暗闇にもうっすらと光を放つように見えるその背を、伏羲は無言で見つめた。
「普賢」
声をかけても驚きもせず、なにごともなかったように身支度をする。それがやや気に障って、細い手首を掴んで引き寄せた。
ほっそりした肢体が胸に納まったのも一瞬で、軽い力で突き放された。
「離して」
「つれないのう」
「だらだらしてるのは嫌だから」
ついさっき熱い息を吐いたばかりの口で、凍るような言葉を投げつける。

「なぜわしに抱かれた?」
腹立ちまぎれのこんな会話は、彼のお気に召さないのは重々承知している。案の定、面白くなさそうにちらりとこちらを見て、まったく面白くなさそうに言った。
「僕はきみの欲に従っているだけ」
「欲」
普賢は後ろを向いたまま頷いた。
「欲だよ。きみのそれは欲でしょう?」
「すべての生きとし生けるものは欲で動いているのではないのか」
普賢は喉の奥で冷たく笑った。
「命は、そんなものに左右されないぐらい単純だ。知能をもたない生物にだって、生きようとする方向性はある」
「それを欲と呼ぶのではないのか」
返事はなく、普賢はするりと立ち上がる。
「きみは僕を抱きたいと思う。僕は抱かれる。それで十分じゃないか」
「確かに単純だ。だが」
振りほどかれた手をもう一度手繰り寄せ、伏羲は普賢の両手首を力いっぱい掴み上げた。
――不愉快だのう」
普賢は手首の痛みにも顔を歪めもしない。
なにが気に入らぬ」
「そういうくだらないことを訊くことがさ」

これほど近くに身体を手に入れておきながら落ち着かない。不安で仕方がないことを、見透かされている。明らかに蔑んでいることを、瞳の奥に感じ取って伏羲は歯軋りをする。
「くだらないだと?」
低く脅す声は一笑に付される。普賢の首に、伏羲は手をかけた。
「なぜわしのものにならぬ」
苦しい息の下、普賢は恐ろしく冷たい瞳で彼を見た。
「ほら。きみは僕がきみに何を望んでいるか、考えてもみないでしょう」
「望み……?」
「きみは僕なんてこれっぽっちも見ていない」
言葉を失った伏羲に、普賢は小さく笑った。
「きみに奪われるものなんて、もうどこにもない。僕は今のきみのものにはならない」

その気配を感じて伏羲は目を見開いた。
「普賢やめろ」
生きろと言ったのはだれだったか。
生きることを強いたのは。命と引きかえに彼が告げたのは。
「生きろ」
冷たい寝台に組み敷く。焦りから、飲み込むような口づけをしながら、囁く言葉は呪術にも似ていた。
「生きろ。それを止めることはわしが許さん」
普賢は彼の言葉にも動きにも抗わず、波に揺られるように虚ろに暗い空を見上げている。
わずかに開いた唇から洩れたのは誰の名だったか。
「普賢」
声が耳に届くより前に、伏羲はそれが腕から霧散したことを知った。
腕に閉じ込めたはずのぬくもりは、記憶に留める間もなく消え去った。