Mizuka
2021-05-16 23:38:38
2406文字
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ミレイ・チョウの一生

傲慢な人魚の話。

 三寸先も見えない、濁った水で満たされた世界。それが、私が半生以上を揺蕩い過ごした世界。
 水も、初めはここまで汚れてはいなかったのだ。ある時を境に少しずつ濁り始め、あっという間にぬるついた緑色となり、生態系は崩れ、数多の水に棲む生き物が海面にぷかりと浮かんだ。
 人間。我々とよく似た上半身を持つ足の生えたその生き物は、それはもう瞬きの間に地上に蔓延ったかと思えば、灰色の煙を吐き出す建物を組み上げ、海を汚した。
 憤りを感じたこともあったが、地上のどの生き物も、あの二足歩行の生き物には勝てないのだと知るうちに、次第に諦観の情へと変わっていった。人間の一生は、100年にも満たないと言う。その短き生ゆえに、自身の生きた証を残そうと、あれほど必死になって文明を築くのだろうか。
 人の愚かしさと、鼻をつく油臭さに眉をしかめながら、私は依然として一匹でそこに在った。汚れた海に好んで居座る人魚はそうおらず、居住を移す前に内臓を侵されて泡に還る者も多くあった。
 特に生まれ育った場所だからと愛着があったわけでもなく、新しい水地に行く気も起きなかっただけなのだけれど、変わり者の私に手を差し伸べる変わり者も、またあった。
『わたし、ユイ!李・泑依って言うの、あなたは?』
 人間に焦がれる人魚、ユイとの出会い。
『ミレイは色んなことを知ってるのね、わたしとは大違い!』
 一匹であることを恐れ、自身を拒まない人魚を求める、臆病者。ただ退屈しのぎとして、それなりに長い時間、彼女に付き合った。けれど、虚しく思えた長い生も、彼女の言葉を受けると意味のあるものに思えた。そうして胸の内に芽生えた情の名前を、彼女曰く極々聡明な私は分かり得なかったわけだけれど。
『水泡学園って、聞いたことある?』
 御伽噺の魔女の末裔が、異空間に建てたと言う学園。何でも手順を踏んでそこに行き、代償を捧げれば、人魚姫伝説のように人間になることができるのだとか。なぜ、わざわざ愚かで生も短い人間になろうとするのか。私には凡そ分からなかった。……だからこそ、知りたいと思ったのかもしれない。
 学園へと辿り着き、仮初の足を得た私とユイは、魚の半身の時以上に共にいることが増えた。というのも、私と彼女はそれぞれ右目と左目の視力を代償とされたため、単に互いが隣にいると視界の補填が効くのである。
 私が彼女の左目となり、彼女が私の右目となった。その関係に甘んじると同時に、私達はそれぞれに欲を満たすため、次第に離れて過ごすことも多くなった。
 生徒会役員になり、風紀を取り仕切る役は存外気質に合っていたようで、新しい知識を得ながら過ごす日々は得がたい経験であった。自分が絵を描くことを好んでいることも、ここに来て初めて知った。
 一方でユイは男女や学級、学年の垣根なく多くの友人を築き、親交を深めていた。成績が良いとは言い難く、試験前にはよく私の元へと駆け込んできていたが、私の知る限り入学後の彼女は常に笑顔で、心から他者との交流を楽しんでいるようであった。
 そして、昨年の講評。ユイは選ばれた。私は選ばれなかった。来年は必ず、と約束をして、それきり。呆気なく彼女の姿は学園から消え、寂しそうにしていた彼女の友人らも次第に彼女のいない日々に慣れ、また互いに親愛を育みつつ、切磋琢磨する日々へと戻って行った。
 それは私も同じことで、彼女との約束は忘れまいと努力は欠かさなかったものの、彼女がいたら、少なくとも彼……イヴと恋人関係になることはなかっただろう。初めはただの不謹慎な好奇心。盲目ながらも温かい絵を描く彼の秘密を暴かんと、下心から手を取った。しかし次第にそれは日常となり、楽しみとなり、いつしか譲れないものになり……
 想いを告げられ、意味を捉えられず首を傾げた私。耳まで赤くしたイヴの潤んだ瞳が、取った手の熱さが、今でもやけに鮮烈に焼き付いている。
 大切な者なんて、作るべきではなかったのだろう。空虚なベールに閉ざされたあの海で、ただ移りゆく世界を眺めていただけなら、どんなに。
 彼女への想いも、周りの近しい者達への慈しみも、全部、知らなければ、覚えなければ、苦しむことなどなかったのに。
『さぁ、殺し合え!人に憧れた哀れな魚どもよ!』
 儀式について知ると同時に、彼女が既にこの世にないことを悟った。あの臆病者に、他者など殺せるはずもない。生存競争で、生き残れるはずもない。愛される王の首は、いつか大勢の命と共に落ちるためにあるのだから。
 途端、人間になりたいという願いがどうでも良いものに思えた。結局他力本願なのは、私とて同じことだと言うのに、自分ばかり冷静なふりをしていた。
 もう、そんなくだらない真似はやめてしまおう。
 失いたくなかった。ここで永遠に、皆と過ごせればそれで良かった。けれど、幕は切って落とされた。後戻りはできない。欠けた魂は戻らない。嗚呼、水へと還ることすらできないなんて!
 私は託されていた。けれど、私にはできなかった。どうしても分からなかった。賢いふりばかり上手くなってしまって、肝心の所でこれではどうしようもない。
 既に、数多の命が失われた。私自身もこの手で、友人を。今回は、成し得ない。
 ならばもう、この命を使って、好き勝手させてもらおうじゃないか。
「愛している。」
 すまないユイ。私達の左目はあげてしまったんだ。けれども、右目があればどうにでもなるだろう。さして器用でもない私が、一年間もどうにかしてきたのだから。
 愛しい人、イヴよ。お前はどうか来ないでくれ。物見えぬ私の顔は存外間抜けだと、お前に笑われたくはない。だからどうか、少しでも長く。こちらへは、来ないでくれ。

 同胞よ、託されし同胞よ。既に集約されつつあるのだ。時間が無い。どうかこの悪夢を、終わらせてくれ。