ウィル少年が退室するなり、ロマンくんの長い足が私のブーツに牙を剥いた。成人男性にあるまじきコミュニケーション手段である。全く、君を育てた親の顔が見た……、見た……、見たくは無いなぁ。だった会いたくないもの。
「痛いなぁ! 人の足を踏まないでくれたまえ」
「大人しく勧められた椅子に座らないからだ」
「いやだよ。だってそれ、固いやつじゃないか」
「贅沢を言うな」
ロマニが私に勧めたのは、この家で最も硬くて、当然、座り心地も悪い椅子である。故に座りたがる人が殆どいない。そんな憐れな椅子だ。この椅子に座っている人間を、私は私自身以外知らない。よってほぼほぼ私専用の椅子になっている。不名誉極まりない。待遇の改善を求める。
「贅沢とは言うけれどもね、君はいつもこのふかふかの椅子に座るくせに!」
「当たり前だろ、家主なんだから」
「私はもうちょっとした出資者を名乗って良いくらいの金額を融通していると思うのだけれどもね!」
「その話はやめろ。第一出資者から突然電話がかかってくるぞ」
「……」
「……」
いやな沈黙が流れて、私とロマンくんは二人してアーキマン診療所の電話に視線を向けた。ベルは鳴らない。が、いつ鳴ってもおかしくない、のが彼とマイクロフトの談だ。冷や汗が首筋を伝い鎖骨まで落ちたところで、私たちはそれまで止めていた息を思い出したかのように吐いた。
「やめとこっか……」
「そうしてくれ、本当に……」
私はともかく、君は実の兄君なんだよね? という言葉を、ロマンくんについぞ言えないままでいる。藪の中のどこに蛇が潜んでいるのかわからない以上、これが賢明な判断であると私は信じているとも。
本日マーリンがロマニを訪ねた要件はというと、なんと珍しいことにややこしい事情では無い。いつもいつも厄介ごとばかりを持ち込んでいたら疫病神だのなんだよ散々な言われようだったので、では君がゆるゆるでふわふわなお誘いでもしてくれたまえ、例えばご飯食べるだけとか! と文句を言ったら売り言葉に買い言葉がミルフィーユ状に積み重なり、この日にロマンくんの家でご飯を食べようという約束がトントン拍子ですすんだだけである。「じゃあ誘ったら本当に来るんだな!」と言った瞬間のロマンくんの面倒なことを言ってしまったなという顔が面白かったので、マーリンは今日という日をとても楽しみにしていた。やーい、やーい。次は君が晩御飯を食べるためだけに私の屋敷に来ると良い。
しかし楽しみにしすぎたせいで、ロマンくんはまだ準備ができておらず、今から調理を始めるのだという。ロマンくんの手料理は以前食べたけど、素人の割にはなかなかのものだったので、折角だから冷やかしするべくキッチンにお邪魔することにした。手伝う気はない。
実を言うと、生まれてこの方包丁も持ったことがないので、持ったら多分馬鹿にされることになるのだ。それは嫌だ。
「というか今から準備するのかい。そんなんじゃ晩餐会に間に合わないぞぅ」
「何が晩餐会だ。dinnerじゃなくてsupperだよ。そんな大層なもの作るワケないだろ。偶々お裾分けでもらった食材が余っているから、処分に付き合わせてやるだけだ。感謝しろ」
「わー、お招きアリガトー。それで、食材は何かな?」
「これ」
振り向き様にロマニが差し出した其れは、ミントグリーンをドブ側で割ったような名状し難き色彩を放つ、ゼリー状の食べ物であった。
鰻を冒涜的にぶつ切りにしたものを、申し訳程度のスパイスと共に煮込んで煮込んで煮込んで最後にゼラチンを投下するとこのようになるのだという。死体が毎日のように掬われるテムズ川で泳いでいる姿のままの色を保って灰色の皮と、どれだけ無惨に体を引き裂かれたのかがよくわかる断面図が、否が応でもこちらの食欲を削いでくる。冷え切っているそれは、ドブ側出身の己の身を上を主張するかのように生臭い。
噂ににくイーストエンド名物、ウナギのゼリー寄せである。ここに来るまでに、これを売っている屋台と何回かすれ違うことになる程度には、ここの住民の生活に根差した、彼等を栄養面で支える立派な食べ物だ。
なるほどね。
「帰る!!!!!! あっいつの間にか鍵が閉まってる!???」
「逃すと思うなよ」
どれだけガチャガチャしても扉が開かない。もういっそ突き破ってしまおうかと覚悟を決めたところで、ロマニの掌が私の肩を叩いた。
あぁ! 後ろに! 後ろに!
「やめて!!!! そのうねうねしてねっちょりしたもので私をどうにかするつもりだろ! エロ同人みたいに! エロ同人みたいに!!!」
嫌だー!!! 食べたく無い!!!!!!
他人の食文化を尊重するのと、私の好き嫌いはまだ別のものだと思う!!!
私は好き嫌いが激しいんだ、助けてくれ!!
「マーリンはちょっと、いや、かなり好みじゃないからそういうのはちょっと……」
「ガチ目のトーンはやめたまえ! 私だってそうだよ!!!!」
女の子が良いよ! できればワンナイトの後に笑顔で別れてくれる感じの!
お呼ばれしてのこのこやってきた以上、敗残兵のように命からがら逃げ出すことは叶わず、結局はキッチン見学続行の流れになってしまった。
少し、泣いています。
「えー、これ食べるの。えー。私、普段は我が家のフランス料理人の作ったものしか食べないんだよね」
「奇遇だな、僕も実家ではそうだったよ」
「じゃあもうやめない?」
誰も幸せになれないじゃないか。これを君にお裾分けした人だって、君を不幸にするためにこれを寄越したわけじゃないと思うよ?
「仕方ないだろう。お裾分けで大量に貰っちゃったんだから。栄養はあるんだから、今からこれをアレンジしてなんとか美味しく食べてみせるさ。大丈夫、秘策があるぞぅ!」
「それなりに楽しみにやってきた私の純情を返してくれたまえ」
「じゃあ次はマーリンが食材を持って来い」
あっ、そういうシステムなんだ……。
なら次は牛肉持ってこよう……。ワインも持ってきていいかな……。
0.下準備をしよう
「まずはこのゼリーを火にかけて溶かします。ゼラチンで固まっているはずだからこれで溶ける」
「凄い、うなぎのゼリー寄せのアレンジなのにもうゼリーを諦めてる」
食欲を削ぐ堕の色をしていたスープはみるみる溶け出していき、ゼリーは跡形もなく溶けて消えた。今はもうただのスープだ。これも少し冷ましてしまえばまた再び固まるのだろうが、今の段階の彼にはまだ無限の可能性がある。
なるほど、諦めというものは大切なのだ。
「鰻と溶けたスープは別に調理していくぞぅ! まずは鰻を取り出して、いい感じに皮を剥いで、ついでに骨も取ります」
「手際良いね」
「刃物扱いはロンドン一の自負があるぞぅ」
「食欲を促進させないプロ?」
私と君の出会いを覚えてる? 私は君がなんで刃物の扱いが上手いのかも含めて全部覚えているのだけれど。
1、鰻の出汁と旨味たっぷりのスープ
「そして皮と身はそれぞれエールにつけておきます。臭みが取れると嬉しいですね」
「本当にそうだね」
「その間にこのスープがまた固まる前に水で割っておきます。そしてオリーブオイルで炒めたニンニク、玉ねぎ、唐辛子とマッシュルームを投入。これには後でじゃがいもとにんじんにトマト缶を加えてから塩胡椒で味を整えてなんとかする。理論上元がなんであれ美味くなるはず」
理論上って何? という疑問を挟む間もなく、炒めたニンニクと玉ねぎの臭いが、先ほどまでなんとも言えないドブ臭さを放っていたスープの臭みを打ち消した。ニンニクの匂いはこの世で一番強いのだ。そこに玉ねぎとマッシュルームと唐辛子のダメ押しまでされて争い切れるものなど、存在しない。万が一存在した場合、それはそもそも食材ではないと言えよう。
ここにこの後、トマトとじゃがいもににんじんが加わるとなると、一気に楽しみな食卓になってしまう。
どうしよう。
今、私はちょっと感動しているよ、ロマンくん。
2.鰻の川チップス
「さて、お酒に漬け込んだ本丸に戻るぞぅ! まず皮だけどこいつはお酒から救い出して上から塩とローズマリーをかけて、オーブンでブンをする。カリカリになれば多分美味しくなる。焼く時間は勘」
「私はなんでお酒を持ってこなかったのだろうね。絶対に合うのに……っ!」
「料理に使う用のエールとウィスキーがあらからそれ飲んで良いぞ」
「やった〜」
食べたことがないのでどうならのかはわからないけれど、塩とハーブの香りがするカリカリ食感の食べ物って、そんなの、絶対にお酒に合うじゃないか。
3.鰻の焼き物
「最後にこちらの鰻の身だけど、焼き物にして優勝していくぞぅ」
「わー!」
「この鰻をいい感じの木で出来た串に刺します」
「わー?」
あれ、なんだろう、これ。知らないはずなのに、なんだこれ。
すごく既存の何かをなぞっている気がする。しかもこの時代のロンドンには絶対にない何かを。
「そして取り出しましたるはこちらの醤油」
「欺瞞……。全てが欺瞞に満ちている……」
「なんだい急に」
「カンニングした知識を元に走っている……、これは不正だよ」
絶対に美味しくなるんだろうけれど、君それは駄目だろう。白焼きくらいで場を濁しておくべきだったと私は思うよ。これは明確なレギュレーション違反だ。
「醤油はフランス革命前のベルサイユ宮殿の宮廷料理でも使われていた調味料だぞぅ、言いがかりはやめてもらおうか」
「実家にフランス料理人がいるってこのための伏線だったんだ……」
意外と時代考証がしっかりしている。
食べ物に強い関心と然るべき知能と知識と伝手さえあれば辿り着ける計算式が出来上がっているじゃないか。しかも全部持ってるんだな、このロマニ・アーキマンという男は。
え、これ私の負けなのかい。納得がいかないのだけれど!
「たっぷりの砂糖と醤油を和えて、ちょっとばかりウィスキーを混ぜれば。鰻用のタレの出来上がり」
「タレって言ってる……」
「これをいい感じに火に当てて焼きます。逐一タレに漬け込んで蒲焼きにしましょう」
「蒲焼きって言った……」
「最後はフライパンに投入してから蓋をして、蒸し終われば出来上がり!」
フライパンの中には、香ばしい香り放つ美味しそうな鰻の蒲焼が完成していた。
「 串打ち3年、裂き8年、焼き一生」は考えないものとする。
「どうだ!」
「絶対に美味しいとは思うから悔しいよね」
「ご飯もあるぞ」
「流石にアウトじゃない……?」
「ライスプディングが存在するんだな、これが」
「七つの海の支配者の首都だなぁ……、ロンドン」
EX.実食
まずは皮をオーブンで炙ったのを口の中に放り込む。
噛むたびにパリパリと小気味の良い音を立てるそれはクセこそ強いが、ローズマリーの香りと塩との組み合わせによって「だからお酒が進む」の域に昇華されている。つまり、
「これめちゃくちゃ酒にあう」
「それは良かった。スープも飲みなよ」
バランスよく食べなさいと叱る母親のようなことを言って、ロマンくんはご飯の上に鰻を乗せた夢の城を崩していた。なんでもありである。
でもスープは本当に美味しそうなので、スプーンを手に取った。
「うん、美味い。最高。これはね、シメだから最後に飲み干す」
「勝手にシメにするな」
でも魚介の出汁が強くて、いい感じに酔った頃に飲むと絶対に効くんだよ、これが。わかるもん。
今日もう絶対に酔っちゃうよ。だってさぁ。
「蒲焼きがさぁ。最高の肴なんだよね。この香りだけでお酒が飲めるんだよ。凄くない?」
「僕が呼んだのは夕ご飯であって晩酌ではなかった筈なんだけどなぁ?」
「男同士の晩御飯なんて、結局こうなるもんでしょ」
「それはそう」
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