夏ですら鬱屈とした灰色の顔ばかりを見せてくるロンドンの空は、冬になるとより一層つれなくなくなる。俺は生まれてこの方、毎日お前の顔を見ているけれど、お前はいつも機嫌が悪いよなぁ。
でも、暖炉の効いた部屋で、縮こまりそうな程の寒空を眺めながらエッグ・ノックよりも美味しいものを、貧乏人の俺は知らないので、実を言うとそんなに嫌いではない。卵と牛乳と砂糖にそれからほんの少しの酒の香りがするそれを、高熱を出して入院した診療所にてロマニ兄ちゃんにマグカップを手渡されて初めて飲んだ時、俺は「こんなに美味しいもの、初めて飲んだ!」と体調も忘れて大騒ぎして、お袋に頭を叩かれた。あの時の一発は今でも納得してない。
そんな騒がしい貧乏な親子を見て、ロマニ兄ちゃんは嫌な顔せずに「僕もそう思うよ」と笑ってくれたのを今でも覚えている。俺もそれなりに大きくなったのでわかるが、あの時のロマニ兄ちゃんは本気でそう言っていた。だって冬場はいつもココアかコレなのだ。おかげでこうして店のお使いに来た俺もこうして美味しい思いに便乗させてもらえているので、有難いかぎりだけれど、俺がお酒の美味しさに目覚める頃にはお酒も好きになってくれやしないだろうかなんて考えながら、「沢山飲めてお得だから」と選んだらしい深いマグカップを傾けた。昔は両手じゃないと持てなかったこれも、今では片手で持てるようになったことに今更気づく。変わらない毎日を送っているようで、もう自分はすっかり変わっていたのだ。目の前で俺よりよっぽど上機嫌にエッグ・ノックを飲んでいるロマニ兄ちゃんとこの場所があまりにも変わらないのでイマイチ実感が湧かないけれど。
なんとなく、そういう気分になったので部屋を見渡してみた。見慣れた部屋のか一際目立つ見慣れぬ青色が目に飛び込んでくる。絵、だということはわかるのだが、みたこともない不思議な雰囲気だ。変な顔をした人間が変な格好で、見たこともないような眩しい日差しの中で生きている。本当に眩しいわけがないのに、思わず少し目を細めた。
「ねえ、ロマニ兄ちゃん。これ、何?」
「あぁ、それね。浮世絵っていう遠い島国の絵だよ。それはウタガワって人のものだったかな。醤油って調味料を買ったら貰ったんだよね。包み紙とか緩衝材とかで沢山あるからって。……気に入った?」
「うん。こんな空見たことが無いから、凄いなって。俺、ロンドンの空しか知らないからさ。こんなに青い空ってあるんだ」
「……ここは霧が多いからね」
「ロマニ兄ちゃんの地元はどんな空だった?」
「うーん、僕の地元はスコットランドの田舎町なんだけど、結構標高が高い場所だから、夏の天気が良い日ならこんな空も見れたかな」
「へー」
「青い空が好きなの?」
「好きだよ。ロンドンの空も好きだけど。でも、ロンドンの空なんて誰もこんな絵にしないでしょ」
ロンドンの空はこんなに青くない。昔はこんなに霧ばっかりでは無かったとか、西のほうに行けば多少は青空が見えるって話は聞いたことはあるが、俺の空はいつだって、工場から吐き出される煙の様に灰色だ。絵なんて描いたことが無いからわからないけれど、絵描きだってどうせ塗るのならこの絵のような青色を塗るほうが楽しいに決まっている。
「ロンドンの空だったら、僕はウィリアム・ターナーが好きかな」
「え、あるの。ロンドンの空の絵」
「あるよ、そりゃ。雲と煙と光が綺麗でね。一歩歩くたびに空気が揺れるのが手に取るようにわかるロンドンの空が好きだなって思える、そんな画家だよ。コヴェントガーデンの床屋生まれって聞いて納得したや」
「コヴェントガーデンってここから歩いて行けるじゃん」
しかも俺の職場、ピカデリーから歩いてすぐだ。
「そうだよ。君と僕が生きるこの街の空が好きな人が描いた絵だよ」
「有名なの?」
「有名、有名。あのフランス人やイタリア人だって素直に拍手を送るほどさ」
「じゃあ、高いから俺なんかじゃあ一生見れないかぁ」
美術に興味なんて無かったけれど、少しあけ興味が出てきたのに。そういや、芸術ってやつはお金を持っている人間の物だから、興味があってもなくても最初から俺とは縁遠いものだった。この浮世絵ってやつみたいに、俺でも何かの拍子のオマケで貰えたら、そうしたら。帰り道に空を見上げて帰るのも楽しかっただろうに。
飲み干してしまったマグカップを机の上に置いて立ち上がる。暖炉が温めてくれる部屋はここまで。俺はもう行かないと。
「じゃあ、エッグ・ノックと面白い話をありがとう、ロマニ兄ちゃん」
「僕こそありがとう。食材の発注をトッドさんの所と一緒にして貰ってる上に配達までやってくれて本当に助かるよ」
「いいよ、忙しい時の病院食の発注とかして貰えてほくほくしてるって親父さん言ってたし」
「僕はその言葉に本気で甘えちゃうぞぅ」
「親父さんが笑顔な範囲でね」
そう言ってドアノブに手をかけようとした瞬間にそれは勝手に回った。少しギョッとして後ろずさると部屋の向こうから華やかな男が顔を出した。いつぞや雨の中、酔っ払い丸出しで行き倒れていた、いかにもダメそうな人だ。
「行き倒れの人!」
「その呼び方、そろそろ変えてマーリンお兄さんとかにしてみないかい」
「えー、一番マシなのを選んであげたのに」
「聞き分けの良い子には、ロマンくんの為に持ってきたお茶菓子を少しわけてあげよう」
それは凄く魅力的だ。だっていかにも金をもっているこの男は本当に沢山お金を持っているから。でもそれに乗るには、同意を得なければならない相手がいるので、ゆっくりと振り返る。いつもの笑顔でどうぞと顔が言っていた。
「ありがとう、マーリンお兄さん」
「素直でよろしい」
そう言って彼は傍らに携えていたバスケットを覆っていた布を持ち上げた。砂糖と小麦粉を焼いたとき特有の良い匂いがする。
「じゃあいただきます」
貝殻の形をしている名前もよくわからないお菓子は、金が持っている家のおやつの味がした。甘くてしっとりしているのにふかふかで美味しい。帰りがけに思わぬ幸運だ。鼻唄でも歌って帰ろうかと跳ねるように玄関から一歩外に出た。煉瓦作りの階段を下りれば小雨に濡れて少し湿った地面が俺を待っている。
「あ、そうだ。ウィル」
「ん? なぁにロマニ兄ちゃん?」
「ウィリアム・ターナーの絵だけれどね。タダで見れるよ」
「えっ」
「トラファルガー広場のナショナルギャラリーって美術館に、代表作のほとんどがあるから。あそこは入館料無料だよ」
行き倒れの人改め、マーリンお兄さんにこの診療所で一番固い椅子を勧めながら、兄ちゃんにとっての常識を、なんでもないことのように語る。そしてマーリンお兄さんはそれを断り、一番ふかふかな椅子座った。ロマニ兄ちゃんの椅子である。多分、後で怒られるな。ロマニち兄ちゃんは俺達には甘いけれど、マーリンお兄さんには厳しいから。
「トラファルガーって、生まれたコヴェントガーデンのすぐそばじゃん」
そして当然、俺の職場の近くでもある。行こうと思えば、今日にでも行けるのだ。当たり前だ。同じロンドンなのだから。でも、今の今まで、そんな場所があるだなんて知らなかった。
「そうだよ。だからね、休憩時間が貰えた時にでも行っておいで、ロンドンっ子」
「うん! 絶対に行く!」
思っていたより、少し高い声が出た。そういえば、もう結構前に声変わりしたんだった。歩幅が大きくなった俺はもう、階段を一歩で飛び超えることが出来る。
ロンドンは今日も霧時々曇りだ。青空が一かけらも見えやしない。今日も変わらないなぁ、お前は。
閉じた扉の向こうで、マーリンお兄さんの小さい悲鳴が聞こえた。ほらぁ。
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