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2023-11-26 17:17:48
3895文字
Public movie100
 

085:迷走迷路

映画タイトル100題からおかりしました。既婚で子持ちのけんこゆ。訃報の話。


 成る程、自分の中にも一応感傷に浸るだけの情が残っていたのだ。湯呑みに口をつけながら思う。
 湯呑みといっても、中に入っているのは電子レンジで雑に温めた日本酒だ。熱をかけすぎて味の尖ったそれを舐めながら、ベランダでぼんやりと月を見ている。細く、けれど確かに存在する繊月が雲に隠れてゆく。 


 傀儡女ガブリエラの長逝。


 耳にしたのは街中、ケンが子を抱いて家路を急いでいる最中だった。噂していたのは退治人連中で、
 気づくと子がおっかなびっくりといった顔でケンの足に縋って泣いており、ケンの手の中には件の名を口にした退治人、ロナルドの赤いジャケットが握られていた。共にいたサテツに離してください、と引っぺがされる。ロナルドは襟を直しながら、訝しげにケンを見た。
「野球拳……どうした?」
 なんて問いかけられた気がする。泣く子を抱き上げて謝り、それから何と答えたのだったか。人間の癖に吸血鬼の感情にも敏感な気の良い退治人は、本気でケンを心配していたのだろう。ケンの問いにも素直に答えた。その噂の出所は、と問いかけて、ドラルクの父からだと聞いたときに、足場がぐらりと傾いた心地がした。
 ロナルド達と別れてすぐ、ミカエラに電話した。弟はいつもの調子で「何だ愚兄」と応えた。まだ何も知らないようだ。何でもねえ、間違えたわ。そう言って電話を切った。
「とぉちゃ、どした?」
「いや」
 何でもねえよ。弟に言ったものと同じセリフを子にも返し、とにかく足を動かした。
 それからは記憶が曖昧だ。子はしっかりと飯を食い、風呂を浴びて、今は布団の中ですやすやと眠っている。いつもは一つ二つ絵本をねだるものだが、今日はやけに聞き分けが良かった気もした。
 一口、酒を飲む。アルコールが尖って元の酒の味が死んでいる。それなりに良い酒だというのに勿体無いことをした。思いつつ、いれなおす気力もない。
 地に足がつかない心地だ。まるで現実感がない。
(百年か)
 そう、百年会っていなかった。会いたいとも思わなかった。どこかで野垂れ死んで、自分たちの人生には一生関わらないでくれと祈ったことさえあった。
 過去へ絶縁状を叩きつける決心を持って弟たちと逐電し、この極東の国へ流れ付いた。戦時中は苦労も多かったが生き残った。美しき文化と出会った。妹ができた。妻子も持った。ケンは今、百年の末の安寧を謳歌している。
 結婚するとき、親類縁者は皆死んだ。俺の家族は弟たちだけだと、これから妻になる娘に伝えた。素直な娘はそれを素直に受け止めて、少し心を痛めた後にケンを抱きしめた。大した事じゃねえ、珍しくもねえよと笑い、柔らかな腕と甘い香りに酔いながら、嘘をついた罪悪感を胸の奥に押し込めた。
(嘘じゃねえ)
 そう、嘘ではない。弟以外の血族は皆死んでいるし、生きているか死んでいるかわからないのはあの女ただ一人だ。だから、嘘じゃない。罪悪感なんて感じる事はない。
 それでも胸にしこりを抱くのは、あの『鉄のような女』が死ぬなんて、想像もできなかったからだ。

 ガブリエラの件は程なくミカエラの耳に入るだろう。落ち込むだけならまだ良い。いくらでも慰める手はある。どうなるかわからないというところが一番怖い。パニックに陥って暴走、なんてことは避けたいものだ。今はビキニ一辺倒の能力だが、人から人へ伝播する特性は催眠のパンデミックを可能にする。それはケンにも持ち得ない、ミカエラだけの才能だった。
 下手を打てばA級に指定されることも有り得る。第三者からミカエラに伝わる前に、自分から話したほうが良い。いや、先に裏を取るべきだ。不確定な情報でいたずらにミカエラの心中をかき乱したくない。昨今急に冷え込んだせいで、幸いミカエラは御殿に篭りきり。今がチャンスだ。とにかく早めに手を打っておかねばなるまい。
 思考がバラバラと散らかっていく。
 いつのまにかスマートフォンでミカエラの番号を呼び出していた。通話ボタンを押せばすぐだ。先ほどのこともあるから開口一番文句が飛び出すだろうが、今はむしろそれが聞きたい気分だった。神経質な弟が、この国の言葉でだらしない兄を叱責する、そんな日常に触れたかった。
(別に、全て馬鹿正直に話すこたあねえ)
 そうだ、裏を取るまでの時間稼ぎができれば良い。適当な理由をつけて、しばらく御殿に籠ってろと、そう言えばいい。
 指先が震えて彷徨う。ああ、酒が足りない。湯呑みの中はすっかり空になっている。こんな調子で奴に電話をかけたら余計な心配をさせるだろう。落ち着きたい。もう少し、もう少しでいい。熱いものが飲みたい。

 不意に、名前を呼ばれた気がした。電話をかけてしまったのではと慌てて画面を見る。しかし画面は動いていない。
 空耳だったか、と息を吐いたのと同時に、今度ははっきりと名を呼ばれた。
〝ケンさん〟
 振り向くと、マグカップを二つ持った娘 妻が立っていた。こゆき、と名を小さく呟く。
〝はい、コユキですよ〟
 歌うように返したコユキは、ベランダに出しっぱなしにしていた小さな水色のプラスチック製サンダルをつっかけてケンの横にしゃがみ込んだ。揃いで買ったピンク色のLLサイズはケンが履いている。
 仕事着のベストを脱いで羊色のカーディガンに変えただけのコユキは、何も言わずに片方のマグカップをケンに差し出した。カフェオレが湯気を立てている。しばらく黙って湯気を見ていると、有無を言わさずマグカップを押し付けてくる。冷えた湯呑みをコンクリートの床に置き、熱いマグカップ受け取った。
 ケンより二回りは小さいコユキは、小さな体をさらに小さく丸めてマグカップに息を吹きかけている。
「随分と、早かったな」
 不埒な同胞に仕置きをする退治人。ピークタイムはもちろん日が落ちてからで、コユキが帰るのは夜明け前が常だった。今はまだ日付すら跨いでいない。
〝うん。あの子はよく寝てました。ありがとうございます〟
「いんや」
 コユキはもう一度ありがとうございます、と言うと、つぴ、と小さく音を立ててカフェオレを啜った。釣られるようにケンもカップに口をつける。甘ったるい。はちみつが入っているようだ。不味くはないが、コーヒーは何も入れずに飲むことが多いケンには慣れぬ味だった。ちびちび、連れ合いと並んでハニーオレを舐める。
(ロナルドの野郎が気を回したんだろうな)
 もしくはサテツか、ショット。はたまたギルドマスターたる義父か。あそこで取り乱したのは失敗だった。探りを入れられるかもしれない。
 コユキを見ると、頬を赤らめて白い息を吐いていた。カーディガン一枚では寒いのだろう。やれやれ、と着ていた半纏を脱ごうとして、止められた。
〝へいきですから〟
「息白いぞ」
〝コーヒーがあったかいからですよ〟
平気、ともう一押しされてしまえば、ケンは黙らざるを得ない。後で風呂で温まれよ、と言いきかせる。コユキは何も言わず頷いた。
 しばらく黙って二人、並んで月を見上げていた。沈黙に耐えきれなくなったのは、ケンの方だった。
「聞きたいか?」
〝話したいですか?〟
 質問に質問で返されて面食らう。おいおい、と半笑いで見ると、コユキは薄く微笑んだままケンを見つめていた。琥珀色の目に細い月が映って、猫のようだ。
〝話したい?〟
 少し砕けて、それでも同じ意味の言葉をもう一度投げかけられる。こちらの質問に答える気はなさそうだ。
 話したいか、と言われると。
「いんや……どーだろ」
〝じゃ、いいですべつに〟
「あ、そ……
〝うん〟
 コユキは静かに笑うと、体をずらしてケンにぴったりと引っ付いた。ハニーラテは飲み切ってしまったらしい。空のマグは床に放置されている。
 腕を回してコユキの肩を抱いた。子供のように高い体温だ。そう、あんなに子供のようだったのに。

……確証がねえんだ」
 気がつくと、ぽろり。取り落とすように話し始めていた。

「噂は噂だ、何もわからん」
〝うん〟
「あの人が死ぬとは思えないんだよ」
〝うん〟
「ただ、思ったよりも動揺した自分に動揺したっつーか」
〝うん〟
「どーでもいいし、もう、だいぶ吹っ切れたと思ってたんだけども」
〝違った?〟
「のかも、な」
〝そっか〟
「おう」
〝がんばりましたね〟
「がんば……った……っつーのか、これ?」
〝お話ししてくれたじゃないですか〟
「そーだけど……そんだけ?」
〝はい〟
……そうか」
〝はい〟
 がんばりましたね。
 コユキはもう一度言うと、首を伸ばしてケンのこめかみに唇を当てた。小さなリップ音と共に離れた唇が惜しく、片手に収まりそうな後頭部を引き寄せる。吸おうとした唇はふい、と避けられて、勢いのまま胸に抱き込まれた。柔らかな胸にぎゅう、と顔が沈む。窒息する、と顔をあげる。振る舞いに似合わぬ柔らかな顔をした女がケンを見下ろしていた。
「ちゅーしてくんねえの」
〝やることあるでしょ〟
「やることね」
〝ないの?〟
……あるなぁ」
〝待ってます〟
 お風呂をいただきます。
 そう言ったコユキは、空のマグカップとケンの湯呑みを取って部屋へ戻った。ケンのマグカップにはすっかり冷えたハニーラテが半分ほど残っている。一気に煽って、放置していたスマートフォンを手に取った。
 まだ現実感はないが、片足くらいは地に足がついた気がする。先ほどと同じ手順でミカエラの番号を呼び出した。
 指先はもう震えない。