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2023-06-25 00:26:08
7788文字
Public movie100
 

02:過去をもつ愛情

映画タイトル100のお題からお借りしました。よよ恋に出そうとして正気に帰ったやつ。拳コユのつもりで書いたけどなんか拳コユの布石になりそうでならなかったので拳コユではない何かになった(?)

 梅雨が明けて久しいというのに振り注いだ急な大雨に、獲物は一斉に家路についてしまったらしい。せっかく外に出たのに一戦も交えることができなかった。
 ただ濡れただけじゃねえかとぶつくさ言いながら仮宿のアパートに帰ると、ぽたりぽたり、あちこちから雨が漏っていた。幸いにも弟たちが眠る部屋には被害が及ばなかったため、一人でせっせと洗面器やら鍋やらを総動員して居間を手当てする。
 苛立ちを発散するように濡れた着物を洗濯機に突っ込み、自分も酒を喰らってさっさと棺桶に入ってしまおうと思ったが、不燃ごみの日が近いからと昨夜一升瓶を空けてしまったことを思い出してさらに気分が下降した。缶ビールの一本でも残ってやしないかと冷蔵庫に頭を突っ込んで探ってみたが成果はゼロ。厳密にいえば一缶残っていたはずだが、どうやら末弟の魔の手にかかったらしい。きちんと洗って逆さに干された空き缶に、いい子に育ったな、と舌を打つ。
 流石のケンもすべてが面倒くさくなって、寝間着に着替えることもせず自分の棺桶に寝っ転がって蓋を閉めた。
 しかし、どうにも眠れない。蓋を閉めていても侵入してくる雨音が妙に耳につく。自己催眠でもかけて聴覚遮断してやろうかと考えたが、弟たちの有事に動けなくなるのはまずい。雨音だけを認識から外して他の音は受け入れて、意識だけは浅く保ち、などと考えている間にやはり面倒になって、いつかは眠れるだろうと目を閉じた。雨音に悪態をつきながら棺桶の中で幾度か寝返りを打つ。
 気づくとトオルが「ケン兄、俺行くよ。ミカ兄も今日は出かけてるからね」と棺桶の蓋をノックしてきたので、結局まんじりともせずその昼を過ごしたことを自覚した。最悪である。
 適当な返事を返して暫く、そういえば自分も今日は仕事が入っているのだと思い出して乱暴に蓋を蹴り開ける。おかしな音がして端が欠けた。ここまで来ると笑えてくる。
 既に弟たちは家を出た後で、三和土に転がっているのは自分のビーチサンダルだけだった。




 というわけで、本日のケンは珍しく、すこぶる機嫌が悪かった。

 竹箒でざかざかと青い落葉を集め、脇にまとめる。雨上がりの石畳は掃きにくく、もうなんもかんも投げ出して帰っちゃおうかな、なんてため息をつきながら薄灰の雲が残る空を見上げた。日は落ちたばかり。空気はまだ湿り気を帯びていて、いつまた降り出してもおかしくはない。
 スンと鼻を鳴らすと雨の匂いと共に、細くたなびく煙の香が鼻孔を擽った。少し意識を集中すれば生意気な坊主がすまし顔で上げる読経が聞こえてくるはずだ。
 こんな雑務、普段のケンならば放り出しているだろう。雨は上がったばかり、まだ天気は不安定だ。街中にはいつもの服装に雨具をプラスした女がうろうろしているはず。そんな女たちと野球拳に興じることができたらさぞ楽しい。こんな色気のない紺色の作務衣なんぞ脱ぎ捨てて街に繰り出したい。
 しかしケンには、このつまらぬ仕事を放りだせない理由があった。
 非常に不本意ではあるが、ケンはこの寺の住職の父の父の父、つまり曾祖父にちょっとした借りがある。仏門にありながら吸血鬼に寛容で良い飲み友達でもあった好々爺は、借りを返す前に骨になってこの寺のどこかしらに埋まってしまった。
 借りっぱなしは趣味ではない。以来、盆時期の繁忙期、香具師の仕事と被らぬ時にだけ、雛僧を装って雑用係を担っていた。
 男手はいくらあっても良いらしく、何も面倒を起こさなければ住職の奥方はにこやかに飯を振る舞ってくれるし金も出る。別段損ばかりでもないので、呼ばれたらへいへいと顔を出しているが、今宵はどうにも気が乗らない。
 もうしばらくすれば法事が終わる。そうしたら奥方がこの墓地にケンを呼びに来るだろう。見えるところはあらかた片づけたし、蔵での力仕事も終わった。寝不足で頭が働かぬ、少しばかり休憩しても罰は当たるまい。牙を剥いて欠伸をしながら竹箒の先端に顎を乗せた。この国には八百万もの神がいるのだ。一柱くらいサボりの吸血鬼に優しい神もいるだろう。
「煙草吸いてえなァ……
 ぶつくさ言っていると木の葉に溜まった雨粒がぽたり、手拭い頭に落ちてきた。雨すらケンに冷たいらしい。本日何度目かの舌打ちとともに一歩横にずれる。

 と、乱立する墓石の間を何か黒いものが通り抜けた。

……あ?」
 竹箒から顎を離し、丸めていた背中を伸ばす。若干高くなった視界で墓地を見回すが、黒い影は見つからない。野良猫だろうか。それはそれで面倒だ。せっかく整えたばかりなのに、糞でもされたらかなわない。視線を走らせ気配を探る。
 すると、ケンから見て五列先の通路でまたも黒い影が動いた。墓石の間を見え隠れしている。墓石よりも背の低い何某がうろついているようだった。隙間隙間に現れる影をなんとか目で追う。
 成程それは、黒いワンピースを纏った小さな娘だった。
 娘は墓石の陰に隠れては数歩進み、また隠れるを繰り返している。幼子特有の、悪いことをしている自覚がある動きだ。顔は良く見えないが、今日の客の一人、体格の良い男が抱いていた娘っ子がこんな感じの服を着ていたような気がする。
 少しずつ、しかし確実に墓所の出入り口までたどり着いたこどもは、念押しとばかりに回りに視線を走らせ、ぴゃーっと外へ駆け出して行った。本人は全力疾走のつもりだろうが、たかだか小娘、スピードは大したことはない。だばだばと手足を振って敷地を出ていくまでに、結局2分はかかっていた。

 さて、とケンは思案する。

 あの子どもはおそらく今本堂に集まっている親族の一人。女は幾つでも女だ。どうにかこうにか親戚一同を出し抜いてきたのだろう。
 耳をすませば小さな足音はまだ近くにある。この一帯、交通量は多くないが、いかんせん坂道が多く路地が入り組んでいる。あの娘が何を考えて飛び出したかは知らないが、このあたりに精通していなければ戻ってくることはできない。
「ったく」
 雨上がりの雲がかかった紫色の空はすぐに濃紺に変わって、夜の住人たちの時間がやってくるだろう。お世辞にも治安が良いとは言い難い町だ。幼子一人がうろうろするのはいただけない。
 竹箒を木に立てかけた。めんどくせえと独り言ち、伸びをしてから歩き出す。簡単な鬼ごっこだ。なんせあの娘っ子は人間である。ちょいとした拍子に全身が透明になるわけでもなかろうて、と借り物の草履を鳴らして寺を出た。




 予想通り、敷地を出てすぐに娘は見つかった。
 不安で泣きじゃくってしゃがみ込んでいるか、歩いていても足取り重くなっているだろうと高をくくっていたがそちらは外れ。
 娘はまるで覚悟を決めた武士の如く真っすぐ前を見据え、ずんずん歩いていく。
 ケンはその五メートルほど後につき、小さな背中をえっちらおっちら追いかけていた。時折娘は視線だけをケンにやるが、話しかけてくることはなかった。後ろから何かしらがついてきていることはわかっているらしい。
 何度目かに振り返った時、ようやくしっかりと娘の顔を見た。黒蜜色の大きな瞳にゆでたての白玉のようなもっちりとした頬がかわいらしい。こりゃあ大きくなったらさぞ器量よしに育つだろうと親父くさいことを考える。
 前に向き直った白玉娘はずんずん歩く。交差点に差し掛かると夜空を見上げ、それからまた歩き出すことを繰り返していた。何かを探しているようだ。
 ゆっくりと寺を振り返る。どの程度の時間が経ったかわからないが、既に500メートルほど離れているように思えた。
 幼いながらに自分から行動し、それを完遂しようとする子供を大人の都合で止めた時、待っているのは面倒だけだとケンはよく知っている。時間が許す限りは気が済むまで好きにさせてやるが吉。面倒極まりない精神構造を持つ歳が離れた弟の面倒を見て、癇癪を起すと透明になって逃げ回るさらに歳の離れた弟をヒイコラ育てた男の経験則だった。
 懐古に浸りつつ、懐を探る。法事はそろそろ終わる頃だ。子供がいないとわかって騒ぎになる前に、一緒に散歩しているとかなんとか、適当に一報入れておけばよいだろう。ケータイケータイ、と探り、探って──見つからない。おや、とポケットにも手を突っ込むが、替えの手拭いしか入っていなかった。どうやら置き忘れてきたようだ。
(めんどくせえ。至極めんどくせえ)
 ただでさえ悪い機嫌がさらに下降する。しかしケンは吸血鬼にしては根が真面目な男であったので、このままでは迷子必至の子を放置して寺に戻るようなことはできなかった。肩をすくめて覚悟を決め、おおい、と小さな背中に声をかける。
「お嬢ちゃんや」
 娘は一瞬立ち止まった。数秒後、すぐに歩き出す。
「お嬢ちゃんやい」
……
「おじょうちゃぁん」
……
 無視だ。頑固者だな、と眉根を寄せて、歩くペースを上げた。ほんの数歩で娘の横に並ぶ。娘の三歩がケンの一歩を意識して、なるべく柔らかく話しかけた。
「脱走かい」
……
「母ちゃんが心配するぜ」
〝おかあさんいないもん〟
……
 今度はケンが黙りこくる番だった。娘は前を見たまま、ケンの手のひらより小さな黒い靴に包まれた足を止めない。
 紫だった空は既に紫紺に変わっている。
 タイマー式であろう街灯が一斉にぼう、っと灯り、娘が肩を跳ねさせて止まった。きょときょと辺りを見回して街灯以外の変化がないことを確かめるとまた空を見上げ、娘にしかわからない何かを探している。
「何をお探しかい」
……
「お名前は?言えるか?」
〝しらないひとと、おはなししちゃだめだって、おとうさんが〟
「知らない人ッたって、俺ァお前さんがいた寺の者でよ」
 そう言うと、娘はようやくケンの顔を見た。先ほどまで瞳に宿っていた強い意志は少し揺らぎ、まん丸目玉の表面に薄く水の膜が張っている。
 ケンはよいせと歩道の縁石に腰を下ろし、替えの手拭いを折りたたんで隣の縁石に敷いた。どうぞ、と促すと、娘は少しためらってから座り込み、足を投げ出した。匂いを探る。血は香らなかった。靴擦れはなさそうだが、やはり疲れていたのだろう。
〝おてらのひと?〟
「そー」
〝おぼうさん……?〟
「あー……そうよそうそう。ホレ見て頭。つるっぱげ。ナムアミダブツ、ナームナム。な?」
 頭の手拭いを外して手を合わせ適当に唱える。でたらめだろうがそれっぽく見えればよい。
 思った通り、娘はすっかり警戒心を解いたようだった。どんなにしっかりしていようとやはり子ども、一人にしておかず正解だった。
 先ほどまでのしょぼくれた顔が嘘のように、期待を込めた目でケンの顔をのぞき込んでくる。純粋無垢な目だ。今しがた嘘八百を吐いたばかりの大人には少しばかりまぶしいが、こちらも齢百と少しを超えた吸血鬼だ。手ぬぐいを巻き直し、なあに?と笑顔で受け止める。
〝おぼうさんならしってる?〟
「何を」
〝あのね、わたし、おかあさんをさがしてたの〟
 思わず、笑顔が固まった。
〝えほんでよんだの。あのね、にじのねもとにはたからばこがあって、ほしいものがなんでもはいってるの〟
……あーそりゃまた、都合のよろしいこって」
 無意識に大人げない嫌味を一つ漏らしてすぐ、いかんぞと己を戒める。勿論嫌味などわかるはずもない白玉娘は、小さな脳みそで一生懸命覚えてきたのだろう絵空事を身振り手振りを交えて話している。

 曰く、雨上がりの空、まあるい虹のかかった日。虹の根元を見つけて掘り起こすと、宝箱が見つかるそうだ。その宝箱を開ける前に、一生懸命願う。すると、宝箱には願ったものが入っている。

〝さっき、おてらにくるまえ、あっちににじがかかったの〟
 娘の丸い指先が示す方を見た。薄雲以外には何にもないいつもの夜空が広がるばかりだ。
 ケンは虹をあまり見たことがない。なんせ虹は陽光起因の気象現象。太陽を忌む吸血鬼からすれば、吉兆でも何でもない。事象、そして概念として知っている程度だ。文化の違いってヤツか、と考えながら、要領を得ない説明をウンウンと聞いてやる。
「だから根元を探してたのか」
〝そう、だってきっと〟

 おかあさんがまってるから。

 俯いた娘の膝の上でむにむにと動く手を見る。まろくて柔らかな指先に似合いのまろい爪がちんまりと乗っている。いじらしく、愛らしい。
 ケンは静かにため息をついた。そうだな、と肯定するのは簡単だ。この白玉娘の夢を守るならばそうすべきだろう。嘘も方便という言葉もある。しかし、それがこの娘のためになるのかと思うと疑問が残る。
 お嬢ちゃん、と努めて優しく呼ぶと、娘は律儀になあに、と返した。
 ケンは本日、すこぶる機嫌が悪かった。共にいて見守っているだけ大人としての責任は果たしている。見知らぬ人の子にそこまでの気を回してやる筋合いもなかろうと結論づけ、言葉を続けた。
「虹の根元にお前の母さんはいないと思うぜ」
〝え〟
 娘が目を瞠った。ケンは黒蜜色の目玉をまっすぐ見据えて、淡々と返す。
「虹の根元にゃなーんもないのさ」
〝じゃあ……なにがあるか、おぼうさんはしってる?〟
「さあねえ。少なくとも、お前の欲しいもんはないよ」
〝じゃあ、おかあさん、どこ〟
 娘の言葉を繋ぎ合わせて勘案するに、本日の法事は娘の母の為のものだろう。となれば恐らく、喪主は父だ。
「お父さんはいるんだろ?なんて言ってた?」
……すごく、すっごくとおいところにいるって〟
「ほんじゃ、きっともっと遠いところさ」
〝にじのねもとは、ちかすぎるってこと?〟
「だって、あのへんだったんだろう?」
〝うん〟
「そりゃちょいと、近いよなあ」
〝そっか……
「残念だがな」
〝うん……
 当たり前の日々から母が何故消えたのか。娘はきっと何度も、沢山の人に問うたのだろう。そして皆、娘の為にと嘘をつく。母は遠くに行ったのだと。お前をいつでも見守っていると。娘はそうかと頷く。大人が言うのだから、きっとそうだと。そうして、子供ながらに小さな頭で懸命に考えた。だから今ここで、ケンと縁石に座っている。
 この娘は愚かではあるが馬鹿ではない。芯は聡い娘だとケンは思う。そんな子供に、お為ごかしの嘘はかえって毒だ。
 考えながら、かつての自分を思い返して苦い思いがした。
 この娘もそうだ。恐らく、本当のところはきちんと理解している。

 母はもう、ちいさな手では到底届かぬところにあって二度と会うことは叶わないし、周りの大人は自分のために嘘をついている。
 
 その証拠に、娘はケンの言葉に癇癪を起こして泣くでもない。
 ただちいさくもう一度、そっか、と呟いた。


 

 しばらく黙って二人、縁石に腰を下ろしていた。耳の辺りで蚊の羽音がする。手を振り追い払ったが、音はすぐに戻ってきた。ケンが刺されることはないが、隣の白玉は違う。そろそろ頃合いだ。
「歩けるか?」
 小さな頭が横に振られる。ぱさりと黒い髪が揺れた。
「おじちゃんが抱っこしてもいい?」
〝だっこしてくれるの……?〟
「勿論」
〝する〟
「おう、おいで」
 娘の正面にしゃがみ込み、両手を広げる。小さな聡い子は俯いたまま、ケンの腕を受け入れた。抱き込んで立ち上がると、肩のあたりに額を押し付けてくる。本能的にぽんぽんと背を叩いてやってから、寺の方へ向き直った。
「戻るぞ」
……
 返事はなかったが歩き出す。横浜ナンバーの軽自動車が一台、生活道路らしからぬ速度でケンの横を抜けていく。車の音に驚いたのか、娘の体が跳ねた。
「だーいじょぶだよ」
〝うん〟
「おっちゃんが、ちゃんと抱っこしてっから」
〝ん……
 ほんの数分で寺が見えてきた。子供の足では大冒険だろうが、やさぐれた吸血鬼からしたら散歩にもならぬ距離だ。耳をすませると、寺の方からわあわあ声が聞こえてくる。どうやら本格的に騒ぎになっているらしい。ケンの名を呼ぶ声も聞こえてきた。これは後で奥方に絞られるかもしれんと眉根を寄せ、少しペースを上げた。
〝おぼうさん〟
「ン」
〝おかあさんにあいたい〟
「そうかい」
 否定も肯定もせず歩き続ける。肩口でもう一度、あいたい、と声がした。今度は返事もしなかったが、耳を傾けるだけで良いらしい。
 作務衣を掴む手があたたかい。眠たくなってきたようだ。ぽん、ぽんと一定のリズムで背を叩いてやると、娘はケンの肩に顔を埋めたまま、とろけた声でぽつりぽつりと話しはじめた。
〝おぼうさん〟
「なんだい」
〝おかあさん、やさしくてね〟
「おう」
〝おりょうりが、すごぉくへたっぴで〟
「下手なんかーい」
〝やさしくて、あったかくて、だいすきなの〟
「そりゃよかったな」
 おかあさんが、おかあさんの、おかあさんに。
 母を求めることば。ここまで請われたら母親冥利に尽きるだろうと小さく笑う。請われたところで死んでんだから世話ねえやな、とも思うが、流石にそれを口にするほど鬼ではなかった。時間が経ち、齢一桁の子供に対してハンドレッドオーバーのおっさんである自分がまあ大人気ない対応をしたことに、ある種の気恥ずかしさを覚えていたところもある。
 また娘がケンを呼ぶ。なんだい、と返すが、眠気が限界に近い娘はすぐに返事を返すことなく、にじにじとケンの腕の中で身を捩った。
「眠たいなら寝ちまいなよ」
〝んー〟
「もうすぐつくから」
〝おぼぉさん〟
「へいへい」
〝おぼぉさんの、おかぁさ……やさしい?〟
 足を止めた。
 また一台、法定速度を無視した軽トラックが駆け抜けてゆく。今度は娘は動かない。ケンの腕の中、安心しきった様子で力を抜き、肩に頭を預けたままぷしゅぷしゅと鼻の詰まった寝息を立てていた。
 ケンはぐるりと首を回し、虹の気配など一つもない空を仰ぎ見た。
……どーだったかねえ」
 漏れた呟きは、本心からだった。
 目を閉じて、何年かぶりに思い返す。血縁状母であるあの女は美しく、炎のように苛烈で、氷のように冷徹だった。
 それでも確かに僅か、ケンの中にも残っているものがある。ケンが母を呼び、母が応える日常のかけら。
 俺はあの人をどう呼んで、父はあの人を、なんと呼んでいたのだったか。あの人は俺を、なんて呼んだっけ。
 仔細を思い出すには時が経ちすぎていて、全て忘れるにはまだ時が足りない。
 つい昨日降った雨音に近いノイズ混じりの記憶の中、それでも確かにあの女は──あの人は、母だった。

 寺の門はすぐそこにある。中からケンを呼ぶ声がする。
 目を開き、息を大きく吸い込んだ。雨と白檀が混じった夏の香りが、ノイズを遠くへ押し流してゆく。
 よいしょォ、と声に出して娘を抱き直した。アスファルトに貼り付いていた足を動かし、門をくぐった。
 縁石に手ぬぐいを置き忘れたことを思い出したが、今更取りに帰る気にもならない。

 慌てた様子の坊主がケンと腕の中の娘を見とめ、ケンさん、と悲鳴を上げて駆け寄ってきた。