どうにかこうにか引っこ抜かれたケンは、落ちてくる木片を払いながら黙って大穴の空いた天井を見上げた。よく晴れた月夜でよかったと心底思う。雨漏りしないうちにブルーシートを買ってきて張っておかなくてはなるまい。修理代のことはひとまず考えないことにする。
痛む顎を摩りながら、ケンを天井に突き刺した元凶を見やる。尖った耳がぺたんと下がり、申し訳なさそうに体を縮こませるのは、つい先ほどまで『ヒト』だった女。
ケンの牙をチケットに夜へ渡った、可愛い嫁御のコユキである。
名を呼んでも、小さくごめんなさいと返すばかり。まさか力のこもっていない裏拳一発で夫が数メートルも宙に浮くとは思っていなかったのだろう。ケン自身も驚いている。元々退治人で体は十分鍛えていたし、ハンマーを振り回す膂力もあった。しかし、ここまでではなかったはず。転化した際に筋力が増したとしか思えない。
(その辺り、今度見極めねえとな)
考えながら、艶を取り戻した黒髪をぽんぽんと撫でる。チューン、としょぼくれた顔が上がった。
髪と同じく、肌も艶やかだ。よくよく見ると出会った頃とまではいかないが、十五から二十ほど、若返っているように見える。正直、ケンも己の牙で血族を増やすのはこれが初めてだ。何が起こるかわからないし、何が起こってもおかしくは無い。こんなこともあるんだなあ、と内心舌を巻いた。血を吸えばまた変わるだろうか。
「大して痛かねえよ。平気だから気にすんな」
〝でも……〟
「いいから。ホラ口ん中、見せろ」
〝あー〟
ぱか、と丸く開いた口の中を覗き込む。犬歯の辺りに、非常に可愛らしく雌らしい牙が生えていた。
「触るぞ」
人差し指と親指を差し入れ、歯列を探る。牙を摘み、グッと押し込んだ。揺れることなく、しっかりと歯茎に根を張っている。上下左右の四本同じく確認してから、唾液に濡れた指を抜いた。
「ん、問題なさそうだな、しっかりしてる」
〝よく、わかりません〟
「すぐに実感するさ。舌で触るとき気をつけな、切れるぞ」
口を押さえるコユキに忠告する。産まれてすぐ転化したケンと、ヒトとして数十年を生きた後に転化したコユキではまるで勝手が違うだろう。同胞としては赤ん坊も同然だ。
コユキはちらりと外に視線をやった。
〝わたし、もう太陽ダメなんでしょうか〟
「そればっかりは個人差だ。俺は気持ち悪くなるし、長く当たりゃ焼かれて痛む。ミカエラはもっと陽に弱い。トオルは俺と同じくらいか?女帝は普通に昼間大学行ってたし、キッスもOLやってるしよ」
〝ほんとにバラバラですね〟
「理不尽なもんさ」
極々普通の吸血鬼であるアダムのひと噛みで転化した女帝のことを考える。同じく一度の吸血で転化に成功したコユキも、その素質を思えば太陽はある程度耐えられる、気はする。しかし元となったケンの生態を受け継ぐのならまた話は別だ。この辺りもヨモツザカに調べさせた方が良いだろう。不服ではあるが。
むにむにと不思議そうに己の頬を触る妻を見下ろす。視線に気づいたコユキが小首を傾げた。ケンの愛したふたつぶの琥珀は、ルビーに変わってキラキラと月明かりを反射している。
太陽の元で笑っていた娘を、夜に生きる人ならざる者へ変えた。
これでこの娘は一生手の中にあるのだという薄暗い喜びと同じだけ、申し訳なさが襲ってくる。それはコユキへというよりも、この娘を掌中の珠と心底愛した男への罪悪感だ。晩年は義父と女婿というより、この娘を守る戦友同士であった男を想う。今頃天の国でケンへ罵詈雑言を吐き捨てているだろうか。それとも。
「後悔、してねえ?」
〝してません〟
間髪入れずかえってくる強い言葉。こうもハッキリ言われては、ケンから言えることはない。
〝ただ、できることとできないことのボーダーラインは早めに知りたいなって〟
「……ん、まあ、それは俺も同じさ。直近にVRCで検査の予約取ろうな……ほんで、だ」
言いながら首をさすった。コユキには一つ、『吸血鬼』としての最初の大仕事が待っている。首か腕か迷ったが、今後を考えると一度は首を経験しておいた方が良いだろう。
「これは一応今となっちゃああんまし意味のねえことだし、面倒だから仔細は省くが……」
〝ハイ〟
「吸血鬼の、噛んだ側と噛まれた側ってのは、擬似的な親子関係になるんだ」
〝へ〟
コユキの目がまんまるに見開かれる。俯き、暫く黙って考えた後、おそるおそる、といった調子でケンを見上げてきた。
〝……ケンさんのこと、お、お父様……って呼ばないとダメなの……?〟
「待て待て待て」
斜め上すぎる回答に思わず笑う。
何のプレイだそれは。そんな真似をさせてはそれこそ義父がハンマー片手に天から降りて来かねない。
「何じゃそれは……」
〝吸血鬼の皆さんって皆親御さんをそうお呼びしませんか?〟
「あー……」
周りにいる、吸血鬼の親子を思い出す。ドラルクとドラウス、へんな動物にディッケーナ。良くも悪くも由緒正しい家柄の出自ばかりだ。
かく言うケンもその一人なのだが、父の記憶は遥か遠く。コユキを緩衝材に半和解した母親はふらりと現れふらりと消える風のような存在だ。コユキが思う『吸血鬼の親子』像に偏りがあるのも、然もありなん。
「『擬似的な』親子関係つったろ?マジのやつじゃねえよ」
〝へ、へえ〟
「んで、噛まれた側……子が吸血鬼として初めて吸うのは……」
言葉を切り、Tシャツを脱ぐ。急に上半身を晒した夫にギョッとしているコユキに苦笑し、顔を傾けて首筋を晒した。己から首を晒すなんて、後にも先にもこの女だけだろう。
「親の血って決まってる」
〝……え〟
言葉を失ったコユキの手を取って引く。ケンの知る手より、少しばかり体温が低い。紛れもなく夜の生き物になったのだな、と実感する。抵抗することなくケンの腕に抱かれたコユキはまだ戸惑いを隠せぬ様子で、目の前の首とケンの顔を交互に見つめていた。促すようにトントン、と己の首を示した。
「ホレ、ここな」
変わらぬ太めの眉が情けなく下がった。遠慮がちに手が肩に乗せられる。不安を散らすようその手を強く握ってやると、緩く握り返された。細くて柔い、可愛い手だ。
〝うまく、できるかな〟
「俺がちゃあんと教えてやるよ」
先生に任せなさい。
戯けて言うと、妻は八の字眉はそのままにクスリと笑った。
〝よろしくお願いします、お父様〟
「おいやめろって、マジとっつぁんに殺される」
〝それもそうですね……じゃあ、ケン先生、かな〟
「それもそれで特殊プレイだな……」
〝言い出しっぺはケンさんですよぅ〟
すっかり調子が戻ったようだ。暫く二人神妙に見つめ合ってから、同時に小さく吹き出した。
一応大切な独り立ちの儀だというのに、これでは格好がつかない。まあそれも一興かと笑い、丸い額に唇を落とした。
「唇当てて……そうだ。集中しろ。意識を向けて……血管を探してみな。多分、ここだって解る」
〝なんで?〟
「美味そうな物からはいい匂いがして、ヨダレ出るモンだろ。本能だよ」
スルスル、ケンの首筋を柔らかな唇が滑る。時折り上がるリップ音に下腹が疼くが無心を貫いた。正直、先程からチラリと覗く真っ白な肌を暴きたくて仕方がない。しかしそこは大人の男として、吸血鬼の先達として、我慢だ。キチンとやるべきことをやってから、たっぷり堪能させて貰えば良い。
邪念と闘っているケンをよそに、首を探っていたコユキの動きが止まった。
〝……多分、このへん……〟
「そうしたら、牙、ゆっくり立ててみな」
かり、と肌を鋭いものが押す。以前のような戯れで触れる丸い犬歯ではない。皮膚を裂き、血を啜ることが可能な凶器がケンの命を握っている。下手をすれば塵に還る可能性もあるというのに、不思議と心は穏やかだった。
「ん、そう。上手い上手い。そのまま顎に力入れて、皮膚を破ってみろ。湧いて出るから」
〝……ほんろに、かんれ、いいろ?〟
ケンの首を食んだまま尋ねてくる、可愛い赤ん坊。促すように頭を撫でてやる。
「独り立ちの儀だ。大歓迎だよ」
〝……いららひ、まひゅ〟
一拍置いて、小ぶりな牙がケンの皮膚を突き破った。ぷつんと皮膚が裂け、温かな液体がどろりと肌を伝う感覚に身震いする。
「ッ、うお……」
前に首を許したのはいつだったかなんて覚えていない。永きを生きるケンにとっては珍しく、慣れない不思議な感覚だった。
とろとろと流れる血液が鎖骨をたどり、窪みに溜まる。耳元でじゅるる、と粘っこい音がした。
コユキが、ケンの血を啜っている。
吸血鬼となってから初めて彼女の口の中を満たし、粘膜に触れて胃の腑へ落ちるのは、ケンの血だ。ぞわり、腹の底から何かが沸き立つ。満たされる独占欲と、征服欲。情愛と慈愛。己の首に吸い付く女へ向けている感情の全てがごちゃ混ぜになって、腹の中で暴れているような心地がする。
ぐり、と刺さったままの牙が動き、神経を走った鋭い痛みにほの暗い思考が止まった。噛みついたまま、場所を探っているらしい。ごりごり、牙の先端が筋を抉っているのだ。コユキが緩く口を開き、また押し付けるように噛みなおすせいで、どんどん傷が広がっている。
(へったくそ……だなぁ、オイ……)
痛みを堪え、小さく笑う。こんな噛み方、もしミカエラやトオルがやったら迷わず拳骨を落としているだろう。要らぬ傷を作れば得物を消耗させてしまうし、穴が増えればその分流れる血が増える。口に含むことができない血は流れ落ちて無駄になるし服も汚れる。単純にもったいないのだ。
実際、ケンの首から流れる血は鎖骨の窪みからもあふれかえり、胸まで滴り落ちていた。
それでも、愛おしい妻が行う拙い吸血行為は、健気で可愛らしいという感想しかわいてこなかった。他の得物ならまだしも、己の身体の頑強さは己が一番わかっている。ケンはこの程度で死にはしない。
かわいいなあ、とニマニマ笑いながら横目で見ると、コユキのシャツの袖が真っ赤に染まっていた。
「コユキ、シャツ」
一応声をかけてみる。気づいていないらしい。母親の乳房に吸い付く赤ん坊のように、必死になってケンの首を食んでいる。がぶり、また嚙みなおされて、穴が増える。
───まあ、俺の血だし。俺が洗濯すりゃいっか。そう考えなおして目を閉じた。
ずるずると首から鳴り続ける湿った音を暫く聞いているうちに、それに嗚咽が混ざっていることに気が付いた。少し重たくなった瞼を持ち上げる。
「……コユキ、どした」
〝けんひゃ……〟
がぶり、また嚙みつかれる。いてて、と口を突いて出そうになるのを堪え、震え始めた背中を撫でた。不味かったか。それとも、初めて行った人外の行為に委縮してしまったのだろうか。どうしたの、と意識して軽い調子で尋ねる。
〝ど、どうしようけんひゃ、〟
「ん?」
ぐぽ、と音を立て、深く刺さっていた牙が抜けた。ゆっくりと離れたコユキの顔を覗き込む。
ぼろり、真紅の目から透明な雫がこぼれ、頬を伝う。それは口元から顎までを染め上げた赤黒い血に混ざり、顎先へ溜まって落ちた。ギョッとする。
泣くほど吸血行為が嫌だったか。それとも、泣くほどケンの血が不味かったのか。どちらにしろショックだ。今となってはほとんど意味のない親からの吸血なんてやめて、さっさと血液パックで済ませてしまえばよかっただろうか。
「こ、コユキ?大丈夫か。嫌だったか?わ、わるかった」
〝ち、ちが、〟
「不味かった?ごめんな、自分の血の味は流石にわかんねぇ、」
〝ちがう、ちがうの……どうしよう……〟
「何が」
〝……すごく、おいしいの……〟
ぼろぼろ、涙が止まらない。溢れて落ちて、塗りすぎた頬紅のように肌に乗った血液を洗い流していく。高く昇った月の光が差し込んで、白くて赤い肌を照らした。うっとりとケンを見つめる大きな瞳に、呆けた顔で血まみれの男が映っている。
〝どうしよう、あまぁい……ケンさん、美味しい、ケンさんの血、おいしい……〟
「……コユキ」
〝どうしよぉ……〟
コユキが、震える手がケンの肩を掴んだ。骨が軋む。また、勢いのままに噛みつかれる。へたくそな牙がまたケンの皮膚を裂く。新しい傷口から、新しい血が溢れた。じゅるじゅると唾液と血を一緒に吸い上げる音がする。水音の隙間で、恍惚とした声が呟いた。
〝……こんなの知ったら、わたし、だめになっちゃう……〟
ばか、けんさんのばか。
そう泣きながら首を噛み、抱きついてくる可愛い娘に腕を回して力を籠める。今なら少しばかり力を込めても壊れまい。小さな体を強く抱きしめて、首を曝け出す。
「好きなだけ吸いな。俺みてえなオッサンの血でよかったらな」
〝れも……〟
「この程度なら死にゃあしねえよ」
だから、良いよ。
そう呟いて、目の前に広がる白くて細い肩を噛む。牙の痕すらつかない、完璧に調整した甘噛みだ。こうなるまでに、後何年かかるやら。
コユキはひくりと一度背筋を震わせると、〝ごめんなさい〟と謝罪を落としてケンの首を噛みしめた。
〝ほんとに、大丈夫ですか……〟
「あ゛ー……」
心配そうにのぞき込んでくるコユキのぺしょりと下がった眉に、「心配すんな」と言いかけ───少し迷ってから、やはり正直に伝えた。
「まあちっと……やりすぎ、かな」
〝すみません……〟
好き勝手に首を吸われ、コユキの腹が血で満たされてからようやくケンは解放された。
傷はつけられたそばから塞がっていたが、ケンの身体や布団、コユキの服を真っ赤に汚した血が戻るわけではない。数百年ぶりの貧血に陥ったケンは、満足したコユキが牙を離し、ごちそうさまでしたと手を合わせた直後ベッドに倒れた。
夢中で齧りついていたコユキも、流石に半身を真っ赤に染めて無言で倒れ込んだケンを見て〝やってしまった〟と思ったらしい。ざっと青ざめ、寝室から飛び出したかと思うと慌ててタオルやらストックの血液パックやらを抱えて帰ってきた。その拍子、ドアの蝶番がバコンと音を立ててひしゃげてしまったので、やはり早急に力の加減を覚えさせないといけないようだ。
息を吐いて、二つ目になる血液パックを開ける。買い置きの血液が無かったらちょっとした騒ぎになっていたかもしれない。合意とはいえ吸血行為が元の傷害は後々処理が面倒だ。
ケンを貧血に追い込むだけでなく、天井に続いてドアまで破壊したコユキは小さく小さくなって項垂れている。昔子供に読んでやった、不器用な象が奮闘するも失敗し、しょんぼりしょんぼりする絵本を思い出した。
ぢゅう、と血液パックを咥えて吸いながら上半身を起こし、慰めるように肩を叩いてやる。
「加減はこれから覚えりゃいいさ」
〝うん……〟
「何でも初めっからうまくいくわけねえの。料理もそうだろ?」
まあ料理は三十数年経った今も上達の兆しが見えないのだが、それはそれだ。
萎びたままのコユキの顎を持ち上げ、ちゅっとひとつキスを落とす。いつもならこれでまあまあ元気になるのだが、未だ耳がぺたんと寝たまま。流石に本日はそうはいかぬようだ。
「コーユキ、あんま落ち込むなって。な?」
〝……ケンさん〟
「ん?」
〝後悔、してませんか?〟
泣き声交じりの呟きに、浮かべていた軽い笑いが引っ込んだ。コユキの頬を両手で包み込んで持ち上げると、潤んだ瞳にたっぷり涙を湛えて口をへの字に曲げている。瞬き一つでもすれば、堰を切ってあふれてしまうだろう。ケンはコユキに負けないほどむっと唇をひん曲げて、己の額を泣きそうな妻の額に触れ合わせた。
「何でよ」
〝だって……〟
すん、と小さく鼻をすする音。本格的に泣きを堪えているようだ。
ケンとコユキの間にある『種族』という名の大きな川。そこには昼と夜、短命と長命、時間の速度。あらゆる要素が嵐のように流れて、到底渡ることなど不可能だと思っていた。ケンがこの数十年折に触れてはその濁流に手を浸し、ぶっ壊しちまおうか、いやだめだと逡巡を繰り返した大きな流れを、この女は越えてきた。
喜びを覚えこそすれ、後悔なんてものがあるはずもない。
しいて言うならば遠い未来、彼岸に渡った時ゴウセツに何をされるか分かったものじゃないという一抹の不安はある。が、あの男は間違いなく天の国へ昇っただろう。ケンはどう見積もっても地獄行きだ。そんなものは些事に過ぎない。
(後悔。後悔だと?一体何で俺が?わけがわからん。何を言ってんだ)
捲し立てたくなるのを耐え、コユキの言葉を待つ。
コユキは両手を揉みながら恐る恐る口を開いた。
〝吸血……ちゃんとできなかったし、ケンさんにひどいことしちゃって、家も壊して……それにこの先、ほんとに永遠にわたしがあなたに付き纏うんですよ〟
「……」
〝その、わたしみたいなつまんない女、この先えーっと……何百年も一緒にいたら、飽きちゃうんじゃ、ないかって……アイタ!〟
くだらない言葉の羅列を最後まで聞いていられず、合わせていた額を離して思い切り頭突きを見舞った。ゴッ、と鈍い音がして、頭蓋同士が衝突する。勢いでこてんとベッドに倒れたコユキは、額を抑えて足をばたつかせ、悶絶している。いつもならば支え起こしてやるところだが、今回ばかりはその気も起きない。
「ドアホゥ」
〝い、いだい……〟
額をさすりながら起き上がったコユキは、先ほどとは違う理由で潤んだ瞳を擦った。湯気でも出ていそうなくらい、額が赤くなっている。が、額がじんじん痛むのはケンも同じだ。罅は入っていないだろうが、予想していたよりもずっと石頭だった。やはり身体の強度が上がっているようだ。
ケンは何食わぬ顔で胡坐をかいたまま、人差し指でどすどすとコユキの眉間を突いた。破瓜の痛み以外与えぬつもりでと思っていたが、これは必要な仕置きだ。
〝あだっ、いた、いたたた〟
「馬ッ鹿なこと言いやがって。これは例外じゃ。反省しろィ」
〝例外?〟
「こっちの話」
どすどす突っついていた指を下ろし、己の膝を叩く。しょぼくれていたコユキは、額の赤みをそのままにゆるゆるとケンに背中を向けて胡坐の中に腰を下ろした。未だ裸の胸にそっと頭を預けてきたので、遠慮なく腕を回して小さな体をすっぽりと包み込んだ。もう怒ってないよ、と生まれたてのとんがり耳に唇を寄せてやる。
「お前みたいなじゃじゃ馬娘、この先一千年連れ添ったって飽きる気がしねえよ」
〝……娘って……もうそんな歳じゃないです〟
「俺からしたらお前さんは幾つになっても可愛い可愛いお嬢ちゃんなの」
艶を取り戻した髪の毛を弄ぶ。くすぐったそうに首をすくめる可愛い娘っ子は、人の年で言えばもう五十路をとうに超えた。一緒に歩いていて親子だと言われなくなりましたねと笑っていたが、また暫く同じ悩みを抱えることになりそうだ。少し愉快な気持ちになる。腕に力を込めて、顎をつむじに乗せた。
「……お前こそ、俺に飽きたら好きに飛んで行っていいんだからな。先は永いぞ」
〝あなたに飽きるなんて有り得ません!何てこと言うんですか!怒りますよ!〟
「……ホレ見ろ」
〝あ〟
戯れの言葉に予想通りの返事が飛んできて、ニンマリ笑う。つむじから顔を退けて肩越しにコユキをのぞき込むと、ばつが悪そうに視線を逸らした。こら、と顎をくすぐってこちらを向かせる。
「俺の気持ちわかった?」
〝ごめんなさい〟
「よろしい」
物わかりのよい元生徒に合格をやると、腕に閉じ込めていた体がもそもそ身じろぎした。力を緩めると、くるりと体を回してこちらに向き直る。先ほど吸血していた時と同じ姿勢だ。
口元の血は洗い流されているが、赤銅色に染まったシャツはそのまま。月光にコユキの輪郭が煌めいている。輝く二つの瞳は陽光の子の名残を感じる明るい赤色だ。ケンの紅色とも、ミカエラの緋色とも、トオルの朱色とも全く違う。それでも。
「コユキ」
〝はい〟
「こっちにきてくれて、ありがとうな」
逃げて逃げてつかまってから瞬く間に落ちて抜けだせなくなった、温かい場所。いつ失うかと毎夜恐ろしかった。しかしもうこの娘は、ケンと同じ岸にいる。
〝……こちらこそ〟
招いてくださって、ありがとうございます。
そうはにかんだ妻の口に、きらりと光る可愛い牙。お前はこんなところまで隙の一つもなくかわいいな、と素直な感想を漏らす。この先百年、一千年。体が塵芥に帰するまでこの顔を見ていられるなんて夢のようだ。
一瞬間をおいてから額のコブがどこなのかわからぬほど真っ赤に染まった顔を見て、やっぱりお前はかわいいよ、と思いっきり抱きしめた。
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