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2022-04-14 11:58:41
11573文字
Public 拳コユ連作
 

私の知らない貴方へ

既婚拳コユ設定。
5月発行の短編集に入れようと思って書いてたけど、途中で「なっがいし流石に本誌出てきてない人こんなに喋らしたらあかんやろ」と思って没にしたもの。
コユキちゃん ミーツ マッマ。

  • 私の知らないあなたへ

 入場可能時間ギリギリだ。何とか間に合った。息を切らしながらチケットを受付に差し出し、音声解説用のイヤホンと端末を受け取る。
 かつ、かつ、と久しぶりに履いた少しヒールの高いパンプスが固い床にあたって音を立てるのが奇妙な感じだ。これのせいで速く走れなかった。薄暗く保たれた室内は少しひんやりとしていて、コユキは羽織っていたストールを持ち上げて肩にかけなおした。
 入口に飾られた一枚の大きな絵。絵でも分かる艶のある黒、青白い肌とルビーのような美しい瞳。何となく、知っている顔のような気がする。耳にイヤホンを差し込んで再生ボタンを押した。耳障りの良い男性の声がコユキの耳に流れ込んでくる。

『国立新美術館特別展示、【畏怖すべき吸血鬼達、夜の世界】へようこそ』




 きっかけは友人の結婚式の二次会に呼ばれたことだった。友人といっても、高校三年生の時同じクラスで、物凄く親しかったかといえばそうではないが、かといって全く知らない仲ではない、そういう立ち位置の友人。まさに結婚式の二次会に呼んでもらえるくらいの間柄、というのがちょうどいい。
 場所は東京、六本木だ。せっかくお誘い頂いたのだから、と父に有休を申請すると、それならばついでに見てきたらどうか、とチケットを渡された。
「小岩のギルドの方から送られてきたんですが、都合がつかず行けそうにないので。勉強になるかもしれませんよ」
 それは、国立新美術館で行われる特別展示会のチケットだった。内容は、吸血鬼達の肖像画展示。世界中に散らばる古き血の吸血鬼の肖像や、それこそ名前も出自もわからない無名の吸血鬼の絵画まで、ありとあらゆる肖像画が集められるらしい。
 一人が心配ならあの男も連れて行くと良い、とゴウセツはチケットを二枚譲ってくれた。本当はコユキと行くつもりだったのだろう。
 ゴウセツが言う『あの男』とは、言わずもがな、コユキの夫、ケンのことだ。ゴウセツはまだケンのことを職場以外で真名で呼ぼうとしない。しかしこうして一緒に外出することを促してくれるあたり、かなりの歩み寄りといえる。
 嬉しくなってその日仕事が終わってすぐ、せっかくだからどうですか?とケンにチケットを見せて誘ってみた。二つ返事で了承すると思ったのだが。
「あー……わり、俺ァ、ちとゲージュツは、なあ」
 性に合わんのよ、と苦い顔で断られてしまった。少し残念だが、無理に誘うほどのことではない。結局コユキは二次会に参加した後、一人で肖像画展に行くこととなった。
 何となくチケットを見つめるケンの表情が固いのが気になったが、そこまで苦手ならば致し方ない。

 腕時計でチラリと時間を確認すると、短針は九を少し回ったところを指している。吸血鬼向けに夜間から夜明けまで開いている日もあるのだが、今日は二十二時に閉館だ。
 入り口で渡されたパンフレットは無料配布とは思えぬほど分厚かった。かなりボリュームのある展示だと聞いている。閉館時間までに回り切れるだろうか。少し不安になり、もったいないとは思いつつも解説音声のスピードを1.5倍速に変えた。
 二十二時にここを出たら、新横浜に着くのは二十三時過ぎだ。仕事を早退して新横浜駅に迎えに行くから、駅に着く時間が分かったら連絡するように、とケンと約束している。先に連絡しておこうかと思ったが、既に展示スペースに入ってしまっている。時間が遅いこともあり、今のところコユキ以外の見物客はちらほらいる程度だが、薄暗い室内でスマートフォンの明かりを光らせるのは憚られる。取り出しかけたスマートフォンを鞄に戻して歩を進めた。

 吸血鬼の肖像画は、どれも全てが美しかった。
 【竜の一族】と称され独立したブースには、恐らく若かりしドラルクと、その両親らしき絵もあって驚いた。まだ幼さを残した丸い輪郭のドラルクの横に美しい黒髪の女性が腰掛けていて、寄り添うように立つ男性は何度か姿を見たことがあるドラルクの父親だ。凛とした目元とは裏腹に、口元は柔らかく微笑んでいる。こういうものは、本人の許可を得ているものなんだろうか。人間なら肖像権が云々と面倒な問題になりそうだ。写真が撮れたらと思ったが、案の定展示はすべて撮影NGだった。
 この絵を見たドラルクがどんな顔をするのか、少し見てみたかった。

 最も畏怖すべき吸血鬼達、と仰々しく書かれたブースに入ると、また雰囲気ががらりと変わる。
『───古き血、と呼ばれる吸血鬼は、世界に数えるほどしか存在しない強大な吸血鬼です。彼らは国際基準の危険度ランクAを軽々と超え、人間との対立深い時代においては、他の吸血鬼とは比べ物にならない強力な力を奮って───』
 解説の音声を聞きながら壁に掛けられた肖像画を眺める。
 先ほどまでは椅子に腰かけたり、立って目線をこちらに向けている絵が多かったが、こちらはまるで宗教画かと思うようなものが多い。
 特に【白銀の狼】、【氷笑卿】、【不滅の炎】、【日食の大鴉】と名されているものは、その力を奮って人間と戦う姿が鮮やかに描かれていた。描いた者が人間ならもっと恐ろしく悪魔のように描いても良いだろうに、どこか神聖さを持ったタッチで描かれている物が多い。画家の中には彼らを畏怖する心が確かにあったのだろう。
 逆に【揺らぐ影】、【屍商人】と題が入っているものは何処かぼんやりとして、おどろおどろしい印象で、枚数も少なかった。これは吸血鬼の能力によるものなのだろうか、なんて考えつつ、ゆっくりと歩く。
 【忌々しき黄色の催眠術使い】という題名の肖像画がどう見ても舌を出して相手を小馬鹿にしているY談おじさんだったので、コユキは少し吹きだした。解説音声も、『これは愛する恋人へのプロポーズの際、アブノーマルな性癖を路上で叫ばされて振られた画家の悲しさとやるせなさ、そして怒りが込められた渾身の一枚』と語っている。あの男、本当に数百年単位であんなことを続けているらしい。筋金入りの変態だ。
 【白銀の狼】、【不滅の炎】、【日食の大鴉】の絵はそれなりに多かった。それだけ戦場に出ていたのか、目立つ能力だったのか。
 【白銀の狼】に添えられた、竜の一族の一人であると考えられる、という一文を見て、まさかこの人があのドラルクなはずもないし、と首を傾げたりもした。

 思った通り時間は矢のように過ぎ去り、後半に行くにつれて足を速めなくてはならなくなった。これは開催している間、個人的にチケットを取って見に来なくては、と足早に古き血のブースを通り過ぎようとしたとき、ある一枚に目が留まって思わず立ち止まった。

 不機嫌そうな小さく赤い瞳の四白眼。骨ばった輪郭。がっしりとした体躯。
〝あ〟
 思わず、声が漏れた。

 柵のギリギリまで近づき、身を乗り出してじっと肖像画を見つめる。

〝ケン、さん……?〟

 絵が見つめ返してくれるわけでも、答えてくれるわけでもない。それでも、そうせずにはいられなかった。
 全体を見たくて、慌てて少し後ろに下がる。そうして初めて気が付いたが、この肖像画は他と比べて一際大きい。三人描かれている。椅子に座り、つばの広い帽子をかぶった細面の美しい女性、その傍らに立つ美少年、そして、椅子の背もたれに手をかけてこちらを睨む、コユキの知った男によく似た青年。
 絵の下には、【唯一残された傀儡女一族の肖像(未完成)】とあった。




『───これは古き血に数えられる恐るべき催眠術使いの一族、傀儡女と呼ばれた強大な女吸血鬼の、唯一の肖像画と言われています。共に描かれているのは傀儡女の息子達です。この二人も強大な力を持っていたと伝えられています。しかし一族は没落、一族郎党行方は知れません。この息子達も、大戦のさなか亡くなったと推察され───』
 停止。巻き戻し。再生。
 解説を繰り返し聞きながら、コユキは【傀儡女一族】の肖像の前でじっと立ち尽くしていた。何度解説を聞いても、何度添えられた説明文を読んでも、これがケンだという証拠はなかった。
 だが、コユキにはどう見ても、これが夫に見える。
 短く刈り上げた黒髪、きつく寄せられた眉間の皺、唇を引き結んだその表情は、それが絵であっても彼がひどく不機嫌で、早く終われと願っていることがありありと伝わってきた。これを描いた画家はきっと、見たものをそのままキャンバスに描いたのだろう。おそらく完成していたら、表情に修正が入ったのではないだろうか。
(難しい顔してる……
 若かりし夫らしき青年は、こんな顔ができたんだ、と思うほどに眉を顰めっぱなしだ。その眉間を撫でてほどいてやれたら、なんて思う。
(何を考えてるんだろう)
 絵に歩み寄り、下からじっくりと眺める。
……この人はお母さん、かな)
 この青年がケンであるなら、この女性はケンの母で、コユキの義母ということになる。そう思うと感慨深く、コユキは一歩横にずれ、ケンと同じ額に収まる女性の顔をじっと見つめた。
(帽子で顔に影がかかってるけど……綺麗な人)
 釣り目で少しきつい顔つきだが、間違いなく美しい。そして、コユキはその顔に見覚えがあった。
(ミカエラさんに、似てる……
 ということは、こちらの美少年がミカエラの少年時代か。マスクをしていない顔を見るのは初めてだ。マスクを外さない理由を彼は語らないが、己の顔があまり好きではない、とだけ告げてくれたことがあった。母に似た顔が、好きではないと言うことだろうか。こんなにも美しいのに。
(トオルさんがいないのは、まだ生まれてないのかな)
 女性の腕に赤ん坊が抱かれている様子はない。ケンとミカエラは然程年齢差は無いが、トオルとは親子ほども年が離れていると言っていたから、トオルが生まれたのはもっと後なのだろう。
 コユキの中で、どんどん勝手にパズルのピースが嵌っていく。
 また少し絵から離れて、どこかぎこちなくみえる三人を眺める。
(ケンさん、どんな子供だったのかな)
 吸血鬼はカメラに映らない。
「俺がガキの時にはカメラなんてなかったしなー。ガキの頃の写真も絵も、残っちゃいねえさ」
 そういって笑っていたケンは、この肖像画のことを言わなかった。わざと言わなかったのか、それとも残っているとは思っていなかったのか、今となってはわからない。
 コユキの中ではもう、この絵はケンの若かりし頃の肖像画だと確定していた。

 ケンは過去を語らない。
 その理由はきっと、この絵に数えきれぬほど込められている。
 仮にコユキがこの絵のことをケンに聞いたところで、ケンは何も答えないだろう。ともすれば思い出したくもないことを思い出させてしまうかもしれない。自分自身のことはとにかく煙に巻く癖がある男だ、ケンがこの肖像画展に行くのを渋ったのは、この絵を見たくなかったからということも考えられる。

 だからコユキは、ここで見たことを何も彼に話さないと決めた。

 その代わりここでじっくりと、目に、脳に、愛おしい彼の青い姿を焼き付ける。
 皺の少ない凛々しい顔も、今より鋭い瞳も、触ったことのない硬そうな髪の毛も、今は絶対に着たがらないであろうドレスシャツにクラバット、黒マントなんていういかにも吸血鬼な格好も。全て、全て。
 コユキは未完成の肖像画をじっと見つめ、ケンが語らないケンのかけらを丁寧に拾い上げて、一つずつ胸の中にしまっていった。

 まもなく閉館時間です、というアナウンスが流れてきた。
 結局、最後まで展示を見ることはできなさそうだ。アナウンスが流れてきても尚、この絵の前から動く気になれない。既に解説音声のイヤホンは外して返却用の袋にまとめてしまっている。
 ふう、と小さく息を吐いた。慣れない高いヒールで立ちっぱなしでいるせいか、足が痛くなってきた。慣れないよそ行きのハイヒールはストッキング越しでもコユキの足にじわじわと不快な痛みを訴えてくる。荷物になるとしてもフラットシューズを持ってきておくのだったと後悔した。そろそろ帰らなくては。ここを出たらもう一度チケットを取ろう。名残惜しくて、また肖像画を眺めた。椅子に腰かけた美しい女性の赤い双眸と目が合った気がする。

 籍を入れてしばらく、式を挙げるかという話になった時に、ケンは「俺に親族なんてミカエラとトオルしかいねえよ」と言っていた。その言い方からして両親は既に他界しているのだと思い深く聞かなかったが、ケンの親なら吸血鬼のはずだ。解説音声で言っていた一族郎党行方知れず、というのが正しいならば、もしかしたらケンの母も、どこかで生きているのかもしれない。
(この、綺麗なひとは……お母さんは、今何してるんだろう)
 ケンは、母に会いたくないのだろうか。
 コユキには母がいない。もしもこの世界のどこかで、母が生きていると知ったら、会いたいと思う。
 けれど、彼は。




「この絵がそんなに面白いか、娘」

 静かに、かつ唐突に声をかけられてコユキの肩が跳ね上がる。恐る恐る声の方へ顔を向けると、いつの間にかコユキの十数センチ横に、一人の女性が立っていた。
 細く、背が高い。クラシカルな雰囲気を持ったケープ付きの、黒いワンピースを身につけている。濃いチュールが幾重にも重なってあしらわれたデザインのドレスハットのせいで顔はうかがえないが、ちらりと見える唇には血のように濃い赤色の口紅が引かれていた。
……あの、えっと〟
「随分と熱心に見ていたな」
 コユキが言葉に詰まっていると、女性は肖像画を黒い手袋に包まれた指で指した。
 チュールの下で赤い目が光る。その目を見ていると、何となく隠しても無駄なような気がして、素直にこくりとうなずいた。
〝し、知り合いの吸血鬼の方に、似ている気がして〟
……ほう」
 女性がゆっくりとコユキの方を向いた。コユキも女性を見上げる。帽子から除く耳が尖っていることに気が付いた。吸血鬼か、ダンピールか。どちらだろう。
「時間はあるか、娘よ」
〝え〟
「少し話を。甘いものは好きか」
 女性は至極自然にコユキを誘い、答えも聞かず先に立って歩きだした。逆らう気が起きなくて、コユキも後を追って歩き出す。
 ケンさんに連絡するの、遅れちゃうなあ、とぼんやり思った。


 すでに閉店時間近いというのに、美術館に併設されたカフェはすんなりと女性とコユキを通した。
 席について間もなく、注文もしていないのにすぐ温かな紅茶が運ばれてくる。続いてウエイターが盆に数種類のケーキを乗せて運んできた。どれになさいますか?と聞かれ、困って女性を見ると、「好きなものを取りなさい」と促されたのでありがたくイチゴのタルトを選ぶ。女性はケーキを選ばなかったが、少しすると赤黒い液体の入った小さな小瓶が運ばれてきた。
 女性は小瓶から液体をひと匙とり、口に運んだ。それから紅茶を音もなくひと口。すべての所作が無駄なく美しい。研ぎ澄まされていて、かつ優雅だった。同じ女性のコユキでもうっとり見つめてしまう。
 女性の動きに合わせて服が揺れる度、薔薇の香りがした。
「食べなさい」
〝あ、はい、いただきます〟
 促されて、おずおずとイチゴのタルトにフォークを刺した。女性の視線を感じて、マナー違反が無いかと緊張してしまう。いつもよりも小さめに切り取ったタルトをなるべく丁寧に口に運ぶが、口に入れた途端、おいしい!と声が上がってしまった。
……
〝す、すみません〟
「いや、良い。好きに食べるといい」
 正直な娘だ、と女性は小さく笑った。不愛想に結ばれていた唇が微笑んでくれたことで、コユキも緊張が少しほぐれる。安心して、二口目は先ほどよりも少し大きめに切り取った。
 ケーキを食べながら、ちらりと向かいに座る女性を見る。
 この女性はなぜコユキを誘ってくれたのだろう。そしてコユキも、いつもならもう少し警戒するのに、ホイホイついてきてしまった。なぜだろう。不思議だ。ケンに知られたら大目玉を食らってしまう。
 しかしコユキには〝この人は大丈夫だ〟という根拠のない確信があった。
「娘」
 呼ばれ、はい、と背筋を伸ばす。
「お前、先ほどあの絵に映っている男と少年を、知り合いに似ていると」
〝あ、はい〟
 知り合い、と関係性を濁したのは咄嗟のことだった。が、女性は何もかも見透かしているような静かな目でチュールの下からコユキを見つめてくる。飴玉のような艶のある、どこか既視感のある瞳だった。
 絶対にどこかで会ったことがある。けれど、女性の顔を見つめれば見つめるほど、靄がかかったように彼女の顔のつくりが頭の中に入ってこない。まるで、コユキの頭が女性を記憶することを拒んでいるようだった。
「名は」
〝な?〟
「そいつらの名前は何という」
 名前。どれのことだろう。少しだけ悩んだ。恐らく、この女性は吸血鬼だ。コユキの中の直感がそう言っている。こういう時、自分の勘はよく当たる。
 女性が吸血鬼なら、吸血鬼同士で名乗る時の字名の方が良いだろう。コユキはそう結論付けて、口に入れていたケーキを飲み込み、紅茶で咥内をさっぱりさせてから、笑顔で告げた。

〝吸血鬼野球拳大好きさんと、吸血鬼マイクロビキニさんです〟
……………………ンン…………?」

 女性が固まり、持ち上げかけていたカップをゆっくりとテーブルに戻した。音一つ立たない。コユキは密かに感嘆した。コユキならどんなに気を付けていてもかちゃりと音を立ててしまうだろう。
 女性は唇に手を当て、考え込んでいるようだった。ややあって、女性が姿勢を崩さぬままコユキに問いかけてくる。
「失礼、うまく聞き取れなかった。もう一度頼む」
〝吸血鬼野球拳大好きさんと、吸血鬼マイクロビキニさんです〟
…………ムゥ……
 聞き間違いではないのか……と女性が呆然と声を上げた。そうして直ぐに思い直す。
〝真名の方がよろしかったですか〟
「あ、ああ、知っているなら」
〝野球拳大好きさんがケンさん、マイクロビキニさんが、ミカエラさんです〟
……………………………………ンー……
 女性は余計に混乱したようで、ついに両手を組んでテーブルに肘をつき、唸り始めた。
 何がどうなってる、百数十年見ないうちに一体何が、とぶつぶつ呟いている。どうやら、この女性は、確かにケンとミカエラを知っているらしい、
〝ご存じなんですか〟
「知っている、が…………
…………あの、それじゃあやっぱりさっきの絵……
 あなたはもしかしてケンさんとミカエラさんの。

 言いかけたところで、バッ、と黒い手袋に包まれた手がコユキの前に翳される。
「いや……待て、そうだ、私が知る二人がお前の言う二人とは限らんし…………
〝あ、この前吸血鬼も映るスマホに買い替えたんです!その時に写真撮ったんですが、お写真をご覧になりますか〟
「見せてくれ」
 ずい、とすかさず手がコユキの方に伸びてきた。写真フォルダからすいすい、とケンとミカエラ、それからトオルとあっちゃん、みんなで撮った写真を選択する。二人の部分を拡大してから黒い手にスマートフォンを乗せた。ケンは口布を外してミカエラと肩を組んでいるから、わかりやすいはずだ。
 女性はコユキのスマートフォンを見てびくりと肩を震わせてから、はあ───、と長い溜息をついた。何故だろう。最新機種だし、一番イイ笑顔の写真を見せた。ミカエラは照れて仏頂面だが、写りは悪くない。
………………返す」
〝あ、はい〟
 女性はゆっくりとした動きでコユキにスマートフォンを返した。無言で、小瓶の中身を舐めては紅茶を飲むことを繰り返す。コユキもなんとなく居た堪れなくて、沈黙の中ケーキを食べることに集中した。

……あの子らはな」
 最後の一口にフォークを突き刺したところで女性が呟いたので、コユキは動きを止めた。
 コユキに向けているというよりは、独り言のような話し方だった。

「ケンは……何でも器用にこなす子で、そつがなく、手はかからなかったが……本当に可愛げのない子だった。素晴らしい才能はあるのにとんだ跳ねっ返りで、こちらの言うことなんて一つも聞きやしなかった」
〝え〟
「奴の為を思って鍛えた。驚くほど筋が良かったよ。何度クソババアと呼ばれたことか。頭の中で呼んでいた奴は知らんだろうが、私にははっきりと聞こえていたわ、クソガキめ」
……あの〟
「ミカエラは驚くほど聞き分けの良い子だった。美しいし、気も利く。頭も良い。ケンほどではないが才能もあった。アレと違って少し神経質なきらいがあったがまあ、ケンがいる。アレは逆に繊細さが足りないし、二人で補い合って、一族を盛り立てていける、と思った」
……
「完璧な形で全てを与えてやりたかったが……
 チュールの向こうにあった二つの赤い光が瞼の下に隠される。女性は言葉を切ってカップに口をつけ、少しだけ笑った。

 気づいているのだろう。

 そう言われた気がして、小さく頷く。
「もう一人いるはずだ……知っているな?」
〝トオルさん……
……やはりか……ケンが、あの子を」
 女性はふぅ、と小さく息を吐くと、椅子の背に体を預けて長い足を組んだ。その様子は先ほどまでの張り詰めた雰囲気とは異なり、どこか力が抜けている。
……あの子もおかしなことになっているのではあるまいな」
〝下半身が透明でお化け屋敷を経営されていますよ。見ますか?お写真〟
「どれだ」
〝これです、ここ、左端〟
………………視覚に訴える……催眠術使いと考えれば……
 あいつ一体どう言う育て方を……いやでも私が今更……とコユキのスマートフォンを片手に、こめかみにもう片手をやって何やらぶつくさ文句を言っている様子がなんだか可笑しい。その仕草は間違いなく見たことのあるもので、コユキは己の中の確信がさらに深まるのを感じて嬉しくなる。
「娘よ」
〝はい〟
「奴らは今、どうしてる」
 ことり、スマートフォンをテーブルに置いた女性が問いかけてきた。画面の中で、ケンとミカエラ、トオル、あっちゃん───そしてコユキが、にっこり笑っている。
 ケンと、ミカエラと、トオルがどうしているか。少し目を伏せた。

『コユキ』

 低く響く、どこか甘さを孕んだ声。コユキの大好きな男の声だ。そして、彼が愛している家族を思い浮かべる。誰よりも兄弟思いなのに素直になれない彼も、甘え上手で思いやりに溢れた優しい彼も、小さな手の可愛らしいあの子も。
 いつでも思い出せるバカ騒ぎ。コユキの愛する愛おしい喧噪だ。
左手の薬指にはまった白金のリングを触りながら、胸を張ってニッコリ笑う。

〝生きています〟

 女性の目が、少しだけ見開かれる。
 彼女が今何を考えているのか、彼女とケン達の間に何があったのかなんて、コユキには何一つわからない。
 だが、コユキからはっきりと確信をもって言えることが一つある。

〝ばかみたいに笑って、楽しく、面白おかしく、しあわせそうに、生きていらっしゃいますよ〟

 彼らは今、楽しそうに生きている。
 これだけはコユキが自信をもって伝えられる事実だ。
 女性はゆっくりと一つ瞬きをすると、ふっと口元を緩ませた。
……そうか」
〝あ、そうそう、ここのトオルさんの横。幽霊の妹さんもいるんですけど〟
………………これ、は……身に覚えがないぞ、一体…………いや……まあ、良い」
 これ以上考えたら頭がおかしくなりそうだ、と呟いた女性は、コユキにスマートフォンを返すとするりと猫のように立ち上がった。
「長く付き合わせた。車で送らせよう」
〝えっ、いいです!電車で帰りますし〟
「慣れない靴で歩くのは辛かろう。靴擦れしている」
 細い指がコユキの足を指す。ぎくりと肩を跳ねさせた。何故気づかれたのだろう。
 女性はコユキの考えていることなんて見通しているとばかりにふっと笑うと、パン、と優雅に手を叩く。途端、何処からともなく黒いスーツの男がコユキの傍に立った。断る間もなくコユキの大して重さのない鞄を持ち、こちらです、と出口へ促して微笑んだ。女性もにぃ、と悪戯っぽく笑う。
「そら、甘えておけ、お嬢さん」

 合わぬなら新しい靴を買ってやろうか、と煌びやかなハイブランドの店を指さした女性にぶんぶんと首を振り、足の痛みをこらえながら何とか外に出る。グッチが嫌ならディオールやヴァレンティノでも、と訳のわからないことを言いながら首を傾げる女性に〝結構です!結構ですから!〟と必死にかぶりを振ると、不精不精といった様子で頷いた。
 女性が細い手を上げてタクシーを止めた。はいどちらまで……という言葉とともに空いた後部座席のドアを無視して、助手席のドアを開けると、軽く腰を折った女性が運転手に何やら声をかける。ほんの十数秒後、女性がすっと背筋を伸ばしてコユキに向き直った。
「好きに使え。どこにでも行ける。金も必要ない」
……北海道って言っても?〟
「お前が行けと言えばアラスカへだって赤道直下にだって連れていくさ」
〝冗談ですよね〟
「本気だが」
 さらりと何てこともないような顔で告げる。成程、真顔で冗談を言うタイプらしい。コユキは一人納得すると、礼を言ってから使いらしい男性から鞄を受け取り車へ乗り込んだ。正直言って足は限界だ。タクシーで帰れるのは素直にありがたかった
「今更だが……奴らに伝えてくれるか、可愛らしいお嬢さん」
 未だ会いたままのドアに手をかけた女性が、柔らかく微笑んだ。街灯に照らされて、靄が晴れるようにチュールが透ける。ようやく女性の顔がきちんと見えた。
 思わず〝あ〟と小さく声を上げる。

 ───涼やかな眦も、美しく通った鼻筋も、大粒のガーネットのような瞳もミカエラにそっくりだし、ぶつぶつ小言を言う様は兄へ苦言を呈すトオルにそっくりだ。そう思ったけれど。

「どうか息災で、と」
 目を細めて、薄く牙の見える柔らかな笑い方。

(笑い方は、ケンさんだ)

 そう思った瞬間、コユキはタクシーから飛び出した。地面に足をつけた途端靴擦れが痛み、かくんと膝が折れる。
「ッ、まって……!」
 顔を上げる。一瞬前まで手の届くところにいた筈の黒いワンピース姿はどこにも無い。使いらしき男も消えていた。
 スマートフォンをいじりながら歩く背筋の伸びたサラリーマンや、これから別の店に繰り出すのだろう赤い顔の若者たちが行き交う隙間に視線を走らせるが、残るのはかすかな香水の香りだけ。風のようだ。消え方まで彼に似ているなんて。いや、彼が似たのか。そんなことを考えながら、息を目一杯吸い込む。

〝っあの!〟
 往来のど真ん中であるのも構わず、コユキは懸命に声を張り上げた。
〝知り合いって、嘘つきました!わたし!ケンさんの!奥さんなんです!〟
 左手を上げる。夫が贈ってくれたプラチナが街灯にキラキラと煌めいた。
 声質のせいか、大声を出すのは苦手だ。掠れそうになる喉を押さえて、届けと願いながら叫ぶ。
〝わたし!新横浜退治人ギルドのバーに勤めてます!ケンさんも、一緒です!ミカエラさんもトオルさんも、元気です!〟
 聞こえているだろうか。いや、きっと聞いている。コユキの周りにはまだ薄く薔薇の香りが残っている。
〝何年後でも何十年後でも、何百年後でも!構いません!ご来店を、お待ちしています!〟

 ───お義母さん!

 ぜえぜえと息を切らし、胸を押さえながら辺りを見回す。薔薇の残り香は消えて、今コユキを取り巻くのは六本木の街の香りだけだった。はあ、と息をつき、タクシーのドアに寄りかかる。言いたいことは言えた。聞こえたと信じるしかないだろう。
 なんだなんだ、と道ゆく人間たちがコユキを訝しげに見ては何やら噂しているが構いはしない。
 ふんす、と小さく鼻を鳴らして踵を返し、タクシーに乗り込む。行儀が悪いのは承知だが、パンプスを脱いで転がした。パンプスのサイドが当たっていた部分が真っ赤に腫れて、水膨れになりかけている。

〝新横浜駅のロータリーまでお願いします〟

 考えすぎで、素直じゃないところばかりが似た、損な人たちだ。
 そう思いながら背もたれに身体を預け、目を閉じた。