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2022-03-30 00:41:28
18410文字
Public 拳コユ連作
 

エキシビション・マッチ

第一〜第五回戦後日談です。
VRCにぶちこまれからのvsパッパまで。お下品だし、暴力描写と流血描写がいっぱいあります。兄さんが痛い目に遭います。仕方ないです。
それとゼンラはマジでごめん。大好きなんです……本当に……信じてください……。
これで一応の完結となります。
第一〜第五とこの話を入れて、5月のイベントで製本予定です。べらぼうに長い私の幻覚にお付き合いいただきありがとうございました。

「んぐぐぐぐおおおおおおお……!!」
 ぼたぼたと裸の上半身に汗が伝う。貸出された室内着はもうビシャビシャで使い物にならなくて脱ぎ捨て、壁際に放って久しい。後何分だ、何時間だ。
 ブゥン、と見慣れた半透明の青い膜がブレた。畜生、流石に安定しないな。
 さっきから催眠をかけ続けている下等吸血鬼の動きの制御も鈍くなってきた。シンドイ。
『おい愚物、結界の出力が下がっているぞ、さっさと戻せ』
 思った途端、ザザ、とノイズ混じりのムカつく音声が部屋に満ちた。はあ、と一呼吸置いて、足元の血液パックを拾い上げて一気に煽る。あっという間に空になったパックを床に投げ捨てて、真っ暗なモニターに向かって吠えた。
「うるっせえな今やっとるわ……!デカくて強えのは維持が疲れンだよ……
つもりが、俺の口から飛び出した声はまあ情けなく掠れていて、迫力も何もあったモンじゃない。
『たかだか連続八時間催眠と結界併用したくらいで情けない』
「じゃあアンタがやってみやがれ……!サンバ踊りながらトライアスロンさせられてるようなもんだぞ……!」
『お前が言い出したことだ、素直に協力しろ』
「くそー!野球拳してえよぉー!!」

 あのツクモアパートから任意同行という名の拉致をされてVRCにぶち込まれたのは三日ほど前のことだ。いつもなら弱体化用の点滴だの首輪だのの処置を施されるというのにそれも無いまま収容室に押し込まれ、一体どういう魂胆だと首を捻っていたのだが、すぐに現れたこの世の邪悪を煮込んで濾して作ったようなマッドサイエンティストが、俺の部屋に踏み入って開口一番、
「催眠と結界術の耐久テストを行う三分後着替えてB棟実験室集合栄養剤だコレを飲んでから来い以上死ね」
 と、行ったらいいんか死ねばいいんかわからん文句をつけて即出ていった。
 ポカーンとしてたらキャプちゃんと呼ばれているバケモンが部屋に現れて、ぎゃーっ!と悲鳴を上げている間に実験室に放り込まれ、着替えと栄養剤と共に二重シャッターの部屋に閉じ込められたのだ。
 それからというものの、体力尽きるまで結界張らされて、死んだように寝て起きたらまたこの部屋に投げ込まれることを繰り返している。実際さっきの日数だって、今が三回目だから多分、三日位経ってるだろうっていう目算でしかない。
 一回コユキの親父さんの特攻により、日光の下に引き摺り出されて干物にされかけ強制終了した分も含めてだが。アレ、嬢ちゃんとサテツとかいう退治人が本気で止めてくれなかったら本当に危なかったな。
 確かに耐久試験に協力してやるとは言ったが、こんな扱い受けるなんて聞いてねえし、三日もかかるなんて聞いてねえし、とにかく何もかも聞いてねえぞ。協力金出るんだろうな。
 あーだめだ、集中できていないせいで術の制御がブレている自覚がある。そもそも俺の結界は野球拳の時にこそ真価を発揮するのであって、今めっちゃ真剣に、真面目に頑張ってるからなんとか張れてる状態だからな。催眠だって下等吸血鬼に延々ジャンケンさせてるだけだし。無じゃん。何も生み出せねえわこんなん。
『ふむ、ちょっと発破をかけてやろうか。30秒後に部屋の四方から強化型の吸血鬼用麻酔弾を発射する』
「はあ!?」
 鬼畜の声がして、思わず天井を見上げて叫んだ。
『身体中にくらって昏睡状態になりたくなけりゃ、しっかり硬度を戻せ。出力を安定させろ』
「人でなしーっ!せめて、せめてエロいこと!エロいこと考えさせろ!なんとか奮い立たせっから!」
 体力も精神力もギリッギリ、この状態で麻酔なんて打ち込まれたらマジで死にかねない。慌てて監視カメラに向かって騒ぐ。なんとか、なんとか麻酔銃だけは回避したい。
『ふむ、これは僥倖。お前たち変態の能力発動条件に性欲が絡むことが多いのは俺様も研究したいと思っていたのだ」
「こう言っちゃアレだがあんたホントよく所長でいられるよな」
『黙れ……よしここでいいか。おいゼンラニウム、このサイトのタイトル一覧を読め。野球拳、貴様は好きなの指定しろ。そっちのモニターで流してやる』
「おまえにひとのこころはねえのか……
 絶句していると、ハリのない死にかけみたいな声が一点、しなやかで深い、大樹のような響きの声に変わる。ちょっと待て、何で居るのお前。
『ムン!野球拳の同胞よ、よく分からないが貴殿のためならば我は喜んで協力しようではないか!』
「お前の素直は宝だがもう少し世間ってもんを学べゼンラ……!」
『いくぞ!カテゴリ一覧!モデル、熟女、JK、ギャル、ハーフ、痴女、未亡人、幼妻、痴漢、人妻……
 全部が全部卑猥な単語だが、ここまでハキハキと、かつ明朗に読み上げられては、なんだかエッチなものとして捉えているこちらがおかしいのでは?という気持ちになってくる。保健体育の教科書の朗読でも聞いている気分だ。
 結界を張ったまま肩を怒らせ、俺は───考えるのをやめた。
「グゥゥゥ幼妻でお願いします!!」
……………気持ち悪いな貴様』
「チクショーっあとでお前殴るからなマジで殴るからな!!」
『そこで射精して床汚したら自分で掃除しろよ』
「アー!!切に殴りてえー!!」
『幼妻だな!えーと……体位?正常位騎乗位後背位バック立ちバック』
「もうゼンラニウムを喋らせるな可哀想だろその子何も知らないんですよ!!」
『じゃあ、お前がここに来る事になった元凶の人間に読ませるか?』
「あ゛!?うるせえもおどーーーでもええわ誰がやってもおんなじだろ!気ぃ散るから大人しく幼妻流せやこのボケ所長!!」
 立っているのもしんどくて、どっかり床にあぐらをかいた。頭の手ぬぐいを外して顔と身体の汗を拭う。
 俺はもうさっさとここから出てお嬢ちゃんに会いに行きたいんだよ。
 ミカエラのことだからなんだかんだ言いつつ俺の言った通りあの子に風呂を貸してから送ってくれたと信じているが確認できていないし、そもそも初エッチ後即警察に連行、収監された男を今も待っていてくれているのか、ぶっちゃけあんまり自信ない。でももう手放せないほど惚れちまってるし、コレで愛想つきましたわなんて言われたら俺、暴れるよ多分。
 道徳観を母ちゃんの腹の中に置いてきた所長さんをさっさと満足させて、ここからおさらばするのだ。はやくAV流せ。さっさと済ませるから。
 ぜえぜえと息を荒げながらモニターを睨む、が、一向に画面が切り替わることはない。オイなんだよふざけんな嫌がらせか?と立ち上がろうとした時、聞きたくて仕方なかった、若い娘特有の澄んだ声が聞こえてきた。
……えっ、と』
「え?」
 ころり、鈴が転げる。間違いなくあの子の声だ。幻聴か?いや違うな。声にちゃんと意志がある。
 ───というか。待て、待てよオイ。
『ごめんなさい、差し入れ、持ってきたんですけど……
……………………どっから、聞いてた?」
『ゼンラニウムさんに案内してもらって来たんですけど、その、野球拳してえよー、くらいから……
「全部じゃーーん!!」
 思わず地面に伏せる。なんだよ!聞いてたんかい!言ってくれよその時点で!ゼンラも言えって!「そういえば野球拳の同胞、この間の娘が来ているぞ!」って!数秒で済むじゃん!ジャンルいう前に言えたじゃん!俺、彼女の前でAV選んだんかい!どんな羞恥プレイだよ!
 うわああと床で暴れていると、嬢ちゃんの恥じらい混じりの声が聞こえてきて、ぴたりと動きを止める。
……あの、ケンさんは、こういうの、好きなんです、ね?わたしその、今度この、ね、猫耳尻尾の裸エプロンくらいなら、なんとかがんばりますから』
「エッ」

 途端、俺の脳内に、あの時触れた真っ白な体に真っ白なフリフリエプロンを纏った嬢ちゃんが召喚される。艶やかにしなを作った身体。あぐらをかいた俺の膝に触れて、丸見えのお尻から生えた黒い尻尾を誘うようにゆらゆら揺らしている。
 俺の胸に擦り寄ってきた頭には三角耳が生えていて、頬をくすぐってくる。しなやかな腕が伸び、グラマラスな身体を押し付けてきた。むにゅうっと、エプロン越しの大きなおっぱいがたわんで、I字を描く谷間から甘い匂いがして。
〝ねえ、けんさぁん……わたしのエッチなところ、ぜぇんぶ……さわって?〟
 なんて、盛りを押し殺した猫撫で声で、俺の唇を食む。

 ってところまでを一瞬で想像して、出来の良い脳みそと迸る妄想力に拍手を送ると同時。
「こ、ころしてくれ……
 あまりの罪悪感で必死に力をこめていた腕をだらりと下げた。

『あっけ、ケンさんダメ!結界緩めたら……!』

 嬢ちゃんの悲鳴も虚しく、俺の周りを取り囲んでいた青い結界がフッと掻き消える。
 バシュバシュ!と空気が抜けるような音がして、何か鋭いものが俺の首やら額やら背中やら、あっちこっちに突き刺さった。


✳︎


 んん、とケンさんが呻き声を上げる。起きたのかな。
 顔を覗き込むと、ケンさんは薄く目を開けて、まだ焦点が定まらない視線を彷徨わせていた。
〝まだ寝ていても大丈夫ですよ〟
…………?」
〝所長さんにはわたしがきつーくお話しておきましたから〟
「ン……?」
 寝ぼけているようだ。そりゃあ、対吸血鬼用麻酔弾を一気に八本も使われては思考も鈍るだろう。あんな強い薬剤をあんな本数、退治の現場だってそうそう使わない。ケンさんが起きたのだって、早いくらいだ。
 こんなことしてるなんて、知り合いの記者にリークしますよ!お父さんにも来てもらいますからね!と脅しかけて、なんとかケンさんを非人道的実験から救い出すことができた。
 カメ谷さん、勝手にお名前を使ってごめんなさい。
……こゆ、き」
〝ハイ〟
「これ、どういう状況……?」
〝どういうって?〟
「おれ、いつおまえのひざ、かりたの……
 ケンさんはわたしを見上げて、少し気まずそうに言った。
 彼の頭の下にある枕は、わたしの太ももだ。
 麻酔銃が突き刺さり、小さなモニターの向こうでばったり倒れたわたしの大事な恋人。ヨモツザカ所長に詰め寄って直ぐにシャッターを開けさせた。ギイギイと鳴く下等吸血鬼は思いっきり蹴っ飛ばして昏倒させ、ウーンと魘されている可哀想なケンさんを背負って部屋から飛び出した。
 全てを把握していたカズラさんの案内で収容室の一つを開けてもらい、ケンさんをベッドに寝かせた。数日ぶりに見たケンさんはちょっとやつれていて、くったりと眠っている姿を見ていたら、可哀想で。というのは半分建前。もう半分は純粋にやってみたくなって、頭の下にこうしてわたしの足を伸ばしてみたのだ。
 寝苦しそうだったらすぐにやめようと思ったが、ケンさんは何度か寝返りを打った後、わたしの方に身体を向けてすうすうと寝息を立て始めたので、わたしは勝利のガッツポーズをしてケンさんをじいっと観察していた。ケンさんの寝顔なんて、じっくり見たことなかったもの。
「どんくらい、ねてた」
〝そうですね、三時間くらいでしょうか〟
「さっ……ッ!?」
 途端身体を起こそうとするので、どうどうと胸に手を当て、身体を戻す。途端にふにゃにゃの体はわたしのお膝に戻ってきた。この程度で抑え込まれるくらいなら、まだ寝ていた方がいい。
「ひざ……重いだろ」
〝全然ですよ〟
「でもよお……
〝ねえ、わたしのせいでこんなことする羽目になったんだから、ちょっとは甘えてくださいな〟
「いや、そもそも俺が言い出したことだし、ほぼ自業自得っていうか、」
〝ケンさん〟
 強めに名前を呼び、顔を覗き込む。ぐっと押し黙ったケンさんは、観念したように体の力を抜いた。やった、勝った。
「わかったよ。もうちょっとだけ、借りる」
〝はい、どうぞ〟
 ケンさんは開き直ったようにわたしの方にごろりと身体を転がすと目を閉じた。汗でベタついた身体に手を添えると、呼吸に合わせて手も上下する。かわいい、と小さくつぶやくと、ケンさんは恥ずかしがるようにわたしのお腹に顔を埋めてきた。呼吸が布ごしに触れて、くすぐったい。
 暫く彼との触れ合いを楽しむ。身体はまだ怠そうだが、眠気は覚めてきたようだ。

 もう少しゆっくりさせてあげたい気持ちはあるのだが、ケンさんの肩をツンツンと突っつく。今日わたしは、彼に伝えなくてはならないことがあって来た。
〝あのね、ケンさん〟
「ん?」
〝わたし、今日来たのは、差し入れもそうなんですけど、大事な言伝があって〟
「差し入れ……あー言ってたな、ありがとよ。後で頂くわ。言伝は?」
〝再来週の木曜日、ウチに来いって〟
「誰が」
〝お父さん〟
……
 名前を出した途端、ケンさんの動きが止まった。わたしの膝から緩慢に起き上がり、そっかぁ、と呟いてガリガリと頭を掻いている。
 わたしはずりずりと身体をずらして、彼の身体にペタンと寄り添った。

 紆余曲折、回り道に山あり谷あり、いろいろあったけれど、わたしはケンさんとずっと一緒にいたいと思っている。それこそ、わたしがおばあちゃんになって、骨になるまで、ずーっと、だ。
 父にも、わたしが自分で決めて、わたしが自分で捕まえた、大切な人のことを認めてもらいたかった。吸血鬼だとか人間だとか、そういう大雑把な括りではなく、『ケンさん』という人のことを。
 ケンさんと初めて繋がれたあの日、ケンさんの言いつけ通り、ミカエラさんのお家の豪奢なお風呂をお借りしてから家に帰った。朝方まで父の帰りを待ってケンさんのことを正直に伝え、黙っていたことを謝った。
 そうしたらハンマーを持ってVRCに突撃してしまったのだけれど。
 サテツさんに手伝ってもらいつつなんとか父を引っ張って帰宅してから、二人で長い時間話をした。

 真剣なんです。好きなんです。あの人がいい。あの人じゃなきゃだめ。この先いろんな障害があることもわかってる。でも恋に恋してるわけじゃない。野球拳してるけど、ツルツル頭だけど、すけべでポンチだけど、おじさんだけど、わたしはあの人が好き。

 わたしの持てる言葉の全てを使って、わたしはケンさんが好きなんだと一生懸命伝えた。こんなに真剣に、正面から話をしたのはわたしが退治人になりたいと言ったことを反対された時以来かもしれない。
 父は意外なことに、許さないとか、絶対に駄目だとは、言わなかった。
 ただ一言「ウチに呼べと」それだけ。
 
「おう、わかった。行くよ」
 
 再来週な。と静かに笑ったケンさんに、ぎゅっと抱きつく。こらこら汗臭いだろ、と嗜められたけれど、とにかく今は彼を一番近くで感じていたかった。


✳︎


 いつもより少しばかり帯をきつく締め、パン、と腹を叩く。
 その格好で行く気か正気かと散々ミカエラに確認されたが、コイツこそが俺の正装だ。いつも通り、特注の桃色の着物に身を包んだ。一応決意の証として頭の手ぬぐいは水通しした新品に変えた。
 ぐっと尻に力を入れて、ミカエラ気に入りのでかい鏡で上から下まで確認する。ヨレ無し、ズレ無し、いつも通りのナイスガイ。完璧。
「っし」
 ピンと手ぬぐいの端っこを指で弾いて踵を返す。
 長い廊下の先、玄関にはミカエラがいつものビキニ姿で複雑な顔をして佇んでいる。その顔を見なかったことにして素通りし、雪駄を突っかけた。この前VRCに殴り込んだ時に足をぶっ壊した下駄は修理中で、まだ帰ってきていない。
「じゃ、行ってくるわ」
……兄さん、やはり」
「駄目」
 言う前にNOを突きつける。ミカエラは一瞬怯んだが、珍しく食い下がってきた。
「だが私が焚きつけたようなものだろう。責任の一端は私にもある」
「付き添いのババアじゃねえんだから……判断したのは俺自身。お前カンケー無し」
「しかし」
「お兄ちゃんが心配?」
 にやり、揶揄うように言ってやる。そうすればコイツは顔を真っ赤にしてギャアギャア喚き散らし、もう良い出て行け愚兄!と腕を振り上げるに決まっている。
 と思ったのだが、ミカエラは軽く眉を顰めるだけだった。おやまあ、調子が狂う。
「お前ではなくあの娘だ」
「素直も時に人を傷つけるぞお前」
 心配してんの俺じゃねえんかい!と驚く。
 ミカエラはそもそも俺とあの子のオツキアイに対して否定的だった。ところが一転、あの日からすっかりコイツは嬢ちゃんの味方だ。俺のところに来るまでに一体どんな話をしたんだか。
「私のせいでいらん説教を受けたかもしれん。それにお前に何かあったらあの子が悲しむだろうが」
 あの人間の娘、あの物好きな女。
 そう呼んでいたはずの呼び名が、いつのまにやら「あの子」に変わっている。どうやらミカエラの中で、お嬢ちゃんはすっかり身内認定されているようだった。基本的に家族以外に塩対応の気があるミカエラがここまで心許しているのは珍しい。本当に不思議な子だ。俺だけでなく、俺の家族にもしっかり杭を打っている。
「そんなに心配ならそうだな、血液パックと氷嚢いっぱい、用意しといてくんねえ?」
 じゃあな、とミカエラの肩を軽く叩き、豪奢なビキニ御殿を出る。手土産を入れた紙袋がガサガサ音を立てた。
 陽が落ちてすぐの新横浜は、同じタイミングで家を飛び出した吸血鬼たちの浮かれ声が満ちていて居心地が良い、雑多な空気だ。
 なんとかカタチを保ったまま帰ってきたいものだが、はてさてどうなることやら。


「よぉ」
 待ち合わせ場所であるギルドの前には、既にお嬢ちゃんが待っていた。手を胸の前でギュッと握り、不安そうだ。片手を上げて声をかけると、パッとこちらを振り向いて笑顔を見せ駆け寄ってくる。飼い主の帰りを待ち侘びていた犬っころのようだなんて思った。
 店のドアには臨時休業の札が下がっている。おそらく中に入れば退治人の一人二人はいるだろうが、城の主人は不在のはずだ。
〝ケンさん、あの〟
 お嬢ちゃんが笑顔を引っ込めて俯いた。これからどうなるか、嬢ちゃん自身にもわからないんだろう。俺もわからない。なんて言ったって、相手は確実に俺に殺意を抱いているし、俺はそれに抗う気があんまりない。あんまりね。流石に本気で死にかけたら抵抗はさせていただくが。
「んな不安な顔すんなって」
……
「ま、なるよーになるさ」
 ご案内頼むよ、と安心させるようにぽんと頭を軽く叩いてやったが、可愛いお顔は晴れなかった。


 駅前の喧騒が遠くなり、あたりに住宅が増えてきたあたりで嬢ちゃんが何度目かの質問を投げてきた。
〝やっぱりわたし、一緒にいていいですか〟
「だぁ、何遍も言ったろ。ダメ」
 それにまた、同じ答えを返す。この土壇場でも納得がいかないようで、嬢ちゃんは眉を吊り上げて見せた。
 そんな怖くない怒り顔したって譲る気は一切ない。これから起こること全ては俺一人が背に負うべきものだ。嬢ちゃんもまあ反省点がないわけじゃないが、それでも九割九部九厘は俺の取り分である。この子に落ち度はない。
〝何で?〟
「親父さんと喋りてえことあるから」
〝わたしが聞いたらいけないこと?〟
「そ」
 こっちです、と嬢ちゃんが指差した方向へ曲がる。
 嬢ちゃんはどうにか俺を説得しようと思案しているようだが、無駄な努力だ。
 心配してくれていることはわかる。
 なんせ聞くところによると奴さん、引退前はA級越えの吸血鬼と互角に渡り合った実力の持ち主というじゃないか。俺なんぞ、やろうと思えばあっという間に縊り殺すことも可能だろう。それを嬢ちゃんはよくよく存じ上げているのだ。
 それでも引くわけにはいかない。
「男同士、腹割って話さにゃいかんこともあるのよ」
 なんてったって、もう腹括っちゃったもんな。あとはもう突っ走ることしかできんのだ、俺は。


「よ、とっつぁん」
 玄関のドアを開けてすぐ、待ち構えていた親父さんに軽く片手を上げて挨拶する。
 いつものバーテン姿ではなく、黒のシャツにジーンズというラフな格好。引退しているとは思えない大きな身体だ。私服のせいだろうか、いつもよりも雰囲気が堅気から遠のいている。休暇中の殺し屋と言われても違和感がない。
 親父さんは俺を一瞥すると、何も言うこと無くくるりと背中を向けて奥へ引っ込んだ。予想通りだ。家の敷居を跨がせていただいただけで、本日の目標は八割クリアと言っても過言ではない。
〝お父さん!〟
「いいって」
 顔を真っ赤にして怒る嬢ちゃんを宥め、雪駄を脱ぐ。キッチリ揃えて、家主がいないのをいいことにぐるりと周りを見回した。
 玄関にはいくつかの写真が飾られていた。その内の一枚に目を奪われる。満面の笑みを浮かべたちっちゃくて可愛い嬢ちゃんと、緩んだ顔の親父さん。そしてもう一人、たおやかな美しい女が写っている。長くて艶のある黒髪を揺らして微笑むその顔は嬢ちゃんにそっくりだった。本当によく似ている。お嬢ちゃんが後十年すればきっと、この人のような面立ちになるのだろう。
 他にも、宮参りの写真だろうか。嬢ちゃんの面影が色濃い赤ん坊の写真や、薄い水色地に白と桃色の花が描かれた振袖に身を包んだ、成人式らしき写真もあった。可愛い。全部可愛い。こんな時でなければこれを眺めて延々酒が呑めそうだ。
……お邪魔しまぁす、っと」
 多分、だいぶお騒がせしますよ、どうかご勘弁を。
 小さく写真の女性に頭を下げ、嬢ちゃんの後に続いて借りたスリッパを鳴らし、板張りの床を歩いた。


 通されたのはダイニングだった。生活感がある、それでいて綺麗に整頓された部屋だ。家主の性分が存分に見えている。おそらくリビングに繋がるであろうドアはぴっちり閉められていた。
 テーブルの側で立っていた親父さんは黙って顎で椅子を指し、着席した。
 俺も手土産の袋を嬢ちゃんに任せ、指定された椅子を引いて座る。親父さんと真正面から向き合う形だ。
 暫く互いに無言のまま時間が過ぎる。嬢ちゃんが俺と親父さんの前にグラスに入れた茶を出してくれたタイミングで、親父さんがようやく口を開いた。
「コユキ」
〝はい?〟
「外しなさい。一時間ほど。外に」
……ねえお父さん、わたし、〟
「嬢ちゃん」
 お盆を胸に抱えて親父さんに詰め寄るのをやんわりと制した。なんで、と戸惑いと怒りが混ざった視線が俺に刺さる。頬が赤くなり、目は潤んでいる。まだ何もしていないというのに、嬢ちゃんはまるで俺が殺される未来でも見えているような顔をしていた。あながち間違いでもなさそうだからまあ、仕方ない。
「親父さんの言うこと、お聞き」
〝でも〟
「いい子だから」
 再度言うと、今度は親父さんを見る。しかし親父さんは嬢ちゃんを見ることなく、ただ真っ直ぐに俺を見据えていた。感情が読めない、平坦な瞳だ。怒りを露わにしてくれればこちらもまだやりやすいのだが、逆にそれが恐ろしい。
 取り付く島もないことを悟ったか、嬢ちゃんはぐっと唇を噛み締めるとバタバタ部屋を出ていった。ガチャリ、バタン。遠くで玄関のドアが閉まる音がした。
 これで部屋には、俺と親父さんの二人きりだ。
 互いに無言。うるさくくっ喋っているのは時計の秒針だけで、チッチッという音が妙に耳に障る。

 グラスの表面に汗が浮きはじめた時分になって、親父さんがようやく口を開いた。
「仮性吸血鬼化した時の件、VRCでのことは礼を言います」
「あ、おう、どういたしまして」
「何か言うことはありますか」
……言い遺したこと、じゃなくてか?」
「殊勝な態度は嫌いじゃないですよ」
「怖えなオイ」
 相変わらず表情は抜けたままだが、軽口に乗ってくれる程度の理性はあるらしい。
 さて、ここからは俺の一挙手一投足全てが分水嶺となる。
 内心めちゃくちゃ緊張しているが、あの小さなお嬢ちゃんだって、腹を括って俺みたいなオッサンのところに来てくれたのだ。俺もまた、その覚悟に応えてやらねば男が廃る。
 黙って椅子から立ち、スリッパを脱いで、綺麗にワックスがけされている床に両膝をついた。
「付き合いに関して、アンタに筋を通してなかったことに関しちゃ謝罪する。あの子は何も悪くねえ。全部俺の落ち度だ」
……
「申し訳なかった」
 両手と額を床に付ける。何の言葉も返ってはこなかった。そりゃあそうだろう。期待はしていない。
 嬢ちゃんに先に聞いたところによると、ほぼ全てを親父さんは知っている。VRCでの出来事も、臆病者の俺が逃げ回ったことも、嬢ちゃんが諦めず俺の首根っこをとっ捕まえたことも、俺が折れたことも、その後俺があの子に何をしたかも知っている。
 男手一つで大切に慈しみ育てた最愛の娘が、何処の馬の骨とも知らぬ吸血鬼に掻っ攫われて食われてしまったなんて、親父さんとしちゃあ業腹極まりないだろう。激昂してハンマーで原型がなくなるまでぶん殴られても不思議はない。俺はそれだけのことをした。

 しかし、一応俺も男だ。どうしても譲れん一線というものがある。

 礼儀知らずは承知の上。親父さんの言葉を待たずに立ち上がった。見慣れた鳶色よりも少し濃い色味の目が怪訝そうに俺を見上げてくる。
 これを言ったら本気で殺されるやもしれない。その時は正面きってやりあうしかねえなあ、死にたかねえから頑張るけど、勝てっかなァ。
 覚悟を決め、親父さんを睨み返した。

「だがそれ以外の一切に関しちゃ、謝らねえ」

 椅子に座ったまま俺に向けられた目が、少しだけ見開かれた。初めてその瞳に、怒りの色が差す。
 それでも言わなくてはならない。俺は今日、その為にここに来た。

「謝らねえ。後悔もしてねえ。この先、離すつもりは一切ねえ」
……
「以上だ」

 言い終わるや否や、親父さんが消えた。
 ア、とそれを脳が理解したのとほぼ同じタイミングで俺の鳩尾に固い衝撃の塊が沈み込んだ。
「ッゴ、ゔッ!」
 腹筋の上から容赦なく臓腑を抉られて体が数センチ浮く。ミシリ、身体が軋んだ音がした。脳みそがバチリとスパークして、痛みに身体がくの字に折れた。
 吐くのは絶対に許さねえと登りかけた吐瀉物を飲み下すと、次の瞬間には視界の隅の方から拳が飛んできた。速い。避けらんねえな、と思ったと同時に思いっきり顔面を殴打される。
 ズガン、とゼロ距離で大砲ぶっ放されたような痛みと衝撃、熱さが襲う。顔を思いっきりカチ上げられて曲がった背骨を強制的に戻され、背中から床にぶっ倒れた。フローリングに後頭部を思い切り打って脳が揺れる。めちゃくちゃな膂力だ。人間だったら意識を失っていただろう。
 流石あのお嬢ちゃんの御尊父だ。嬢ちゃんのラリアットとキャメルクラッチがいかに甘っちょろいものだったかを思い知った。
 布の内側で血が溢れたのがわかる。アア、確実に鼻骨が逝った。
「んぶ、ぐッ……!」
 人様の家、しかもあのお嬢ちゃんの家の床に汚ぇ血の一滴でも溢すわけにはいかない。ぐらぐらの頭で何とかそれだけを明確に意識して、ずる、と溢れた血を吸い込んだ。咳き込みかけるのを堪える。
 胸ぐらを掴まれ、軽々と持ち上げられた。足が浮く。半分締まった首がヒュウと音を立てた。自分よりデカいやつに胸ぐら掴まれて持ち上げられるなんざ久しぶりだ。
 あ、でも前にギルドのエッチなシスターのお姉ちゃんにコンボ決められて宙に浮いたな。あと退治人共にも結構ぶっ飛ばされてる気もしてきた。意外とあったわ。新横浜怖え。脈略無く考える。流石に頭が回っていない。
 口布が鼻血と口から溢れた血で真っ赤になっているのがわかる。咥内で何かがゴロリと転げた。硬く尖った何かだ。あー、マジか。そっちも折れたか。
 皮膚に触れた布がじっとりと鼻と口を覆って気持ち悪くて息苦しい。しかし口布が血を吸い取ってくれたおかげで床は汚さず済んでいるようだ。部屋の中は俺が入ってきた時と寸分変わらず、美しいまま。
…………ハァ」
 親父さんは俺の首を容赦なく締め上げながら、張り詰めたものを緩めるように小さくため息をついた。
「お前が泣いて許しを乞うたら、殺してやろうかと思ったんだが」
 パッと手を離され、床に落とされる。情けなく尻餅をついた。どうやら、一度休憩を挟ませてくれるようだ。
 酸素を取り込もうと急激に開いた気道にむせ返り、げほげほと咳き込む。血を飛ばさぬよう、着物の袖で口を抑えた。
「座れ」
 がん、と荒々しく足で引かれた椅子。まだ瞬く視界によろよろと立ち上がってそれに腰掛けると、カウンターキッチンへ引っ込んだ親父さんが濡れたタオルを俺に投げて寄越した。受け取る気力がなく、べぢんと俺の顔にぶつかって膝に落ちる。得意先だろうか、酒屋の名前が入ったペラいタオルだ。
「それはもう捨てる。好きに使え」
……んだよ、ゲホ、優しいじゃねえか」
「認めたわけじゃない。見苦しいんだよ」
 ありがたく口布を外してタオルで顔を拭った。途端真っ赤に染まる生地にちょっと引く。鼻骨は鏡見ながらじゃないとちょいと元の戻すのに苦労するのでそのまま、顔の血液をあらかた拭って、鼻を押さえるふりをしてこっそり口の中から牙のかけらを吐き出した。人間に折られたのは初めてだ。
「コユキと話をした」
「あ?」
「お前の話を」
 親父さんは椅子に深く背中を預け、はあ、とため息をついた。
…………あんなに楽しそうなコユキ、久々に見た」
「そりゃあその……どうも、か?」
「腹立たしいったらありゃしねえ」
「なあアンタ、意外と昔やんちゃしてた?」
「煩い」
 ぎろりと睨まれて口をつぐんだ。
 刺すような視線から逃げるように茶を口に含んで血を洗い、飲み下す。親父さんは腕を組み、じっと俺睨んだまま動かない。コッワイ。謝らんと啖呵を切った覚悟は本物だが、怖いもんは怖えし、痛えもんは痛えの。
 ちょいと腕を上げるだけで身体が軋むように傷んだ。二発だぞ。たった二発。肋は逝っていないようだが、とにかく牙が折れたか欠けたかしたのがまずい。口の中にだくだく血が溢れ出て止まらない。鼻骨も変に固まってナイスガイが歪む前に戻したいが、これはやっぱり、病院でやってもらったほうがいいかもしれん。

……お前とコユキの関係は、当面黙認する」

 親父さんの言葉に、痛みでブレーキの壊れかけていた思考が音を立てて止まった。
 マジ?と思わず小さく聞き返してしまう。俺はこの後「じゃあ休憩終わり第二ラウンド開始!」と再度ボッコボコにされることも覚悟していたのだが。
 親父さんは二度は言わんとばかりに凛々しい眉を寄せて血管の浮いた拳を握った。いつも柔和に細まっている目はガッツリ開いたままだ。聞こえてました。大丈夫です。
「ただし、三つ約束しろ」
 水仕事特有の荒れた手が、すっと三本の指を立てた。
「あの子を不幸にするな」
「ああ」
「あの子がお前から離れたがった時、お前は素直に身を引け」
……ンン、わかった」
 二番目の指まで畳んだところで、親父さんが怪訝そうに眉を顰めた。もっとごねるとでも思ったのか、素直に返事したのが気に食わないらしい。
……馬鹿に素直じゃないか。裏があるな」
「ねえよ別に。俺に拒否権ねーじゃん。二番目に関しちゃ……あー、努力する」
「安心しなさい、破ったら私がお前を殺します」
…………もう一つは?」
 残った一本指。すぐに畳まれるかと思ったそれは、ゆっくりと引っ込んだ。
 手はテーブルの上に着地して、合流したもう片方と組まれる。人差し指がとん、とんとリズムをとる。先程まで烈火の如き怒りに染まっていた目が、なんとも寂しげに揺れていた。
 親父さんは躊躇うように顔を伏せ、深く呼吸をしてから、俺を見ずに言った。




〝けっ…………!〟
「よお、おかえり」
 きっかり一時間後帰ってきたお嬢ちゃんは、ダイニングに入るなりざあっと顔を真っ青にした。
 よろよろと足取り重く俺のそばに寄って、腫れ上がった頬をペタペタと触ったかと思うと、眦をぎりりと釣り上げて可愛い声で親父さんに吠え立てる。
「おじょ、」
〝お父さん!!なんて事するの!!〟
 俺が止める間もない。テーブルのそばで立っていた親父さんは嬢ちゃんを見て黙ったままだ。お嬢ちゃん、と小さな背中に声をかけてみると、ものすごい勢いで振り返った嬢ちゃんはケンさんケンさんと半泣きで俺の顔やら頭やらをペタペタ触ってきた。嬉しいが、お前さんの肩越しに見える御仁の目がねえ、すっげえ怖いのよ。ちょいと離れてくれると嬉しいんだけどなあ。
 そうは思うが身体が痛えし頭はろくすっぽ回っていないのは今も変わりないので、刺すを通り越して貫かれそうな視線に耐えながらお嬢ちゃんの手が俺を撫で回すのを受け入れる。
〝ケンさん、ケンさん大丈夫?こことか、すごく腫れてる!〟
「いっででで触んなって折れてっから」
〝折れ……
 口をぱかりと開いて絶句した嬢ちゃんは、今度こそ目から涙をボロボロとこぼして親父さんに掴みかかった。
〝お父さんの馬鹿!酷い!こんなのひどいよ!〟
「コラコユキ、親父さんに向かってその口の利き方は駄目だ」
〝ケンさんも怒ってください!〟
「まあまあ」
〝まあまあじゃない!〟
 なんでそんな怪我させられて怒らないの!?とエキサイトする嬢ちゃんを諌める。
 この程度で済んだのは本当、親父さんのお慈悲があったからなんだよ、と言っても彼女は信じてくれないだろう。親父さんのシャツを掴んでぐいぐいと引っ張っているが、当の親父さんはピクリとも動かない。鉄仮面を被ったように無表情だ。
 俺は嬢ちゃんの気を引こうと、勤めて明るい声を上げた。
「でもな?今後のお許しもらえたから!それで良しとしておくれよ」
……
 じろり、潤んだ目でこちらを見たコユキが、今度は親父さんを見上げた。親父さんはちらっと嬢ちゃんの顔を見下ろし、すぐに顔を背けてしまう。多分、あの目だな。涙が溜まってうるうるキラキラの、宝石みたいな目。ダメだよねあれ。わかるわかる。
……嘘ではありませんよ。話し合いました。黙認します」
「な?」
……だからって、〟
 親父さんのシャツを握ったまま、今度は静かにはらはらと涙を溢れさせる。ギャンギャン泣かれるとアーハイハイ!あしらいたくなるが、こうも切なげに静かに泣かれると、まあ至極座りが悪い。親父さんも動揺しているらしく、こめかみがひくりと痙攣している。
「な、泣くなよぉ……
 ほら、と手を伸ばすと、嬢ちゃんは親父さんの服を片手で掴んだまま、片手をこちらに伸ばしてきた。小さな手を、血まみれになっていない方の手で握ってやる。
「親父さんとちゃんと話したから。大丈夫。な?」
〝ヴー……
「ホレ、いつもの可愛いお顔になってくれや」
 なんとか宥めてやろうと努力していると、我慢しきれなくなったか、親父さんから手をはなし、ぶええぇと色気なく、子供のように泣き出した。胸に縋ってくる娘っ子。仕方なく背中に手を回し、ぽんぽんとあやすように叩いてやるが、その度に部屋の温度が下がっていくような心地がする。室内なのにそろそろ雪でも降り出しそうだ。
 ……コレ、俺のせいでこの親子に決定的な溝とかできたらほんとに責任とって腹を切らんとだぞ。まずいんじゃないか。
「野球拳」
 内心冷や汗ダラッダラ流していると、親父さんがダイニングのドアを開けて玄関を顎で指した。ある種、助け舟だ。
「帰れ」
「おう、邪魔した」
〝お父さん!!〟
「まあまあ」
 すぐさま立ち上がり、ふらつく足を叱咤して廊下に向かう。コユキが俺を支えようと頑張ってくれているが、ぶっちゃけ頭ひとつ以上身長が低い嬢ちゃんでは俺を支えるのは無理だ。どちらかというと嬢ちゃんが俺にぶら下がっているような形になってしまうので、おんぶしましょうかとか言ってる気遣いだけ受け取って普通に歩かせた。
「じゃあなとっつぁん」
 すれ違い様、手をあげて別れの挨拶をした。ここに来た時同様、どうせ無視されるだろ、と思った上でのことだった。が。
「ええ、また」
 憤懣やるかたない、地獄の底から搾り出したような声が、キッチリお返事を返してくれた。




「なっ、に兄さん!?」
「ぎゃーっ!!ケン兄すっげえ顔してるけど!?」
……お、お前らなあ……

 コユキの家を出て少し歩いたところに見慣れた黒の車が停まっている。いつもの普通車ではなくて、ちょいと大きめのバン。ミカエラの下僕の車だ。
 俺が車を見とめたと同時くらいに、バァンと車のドアが開いて見慣れた弟たちが駆け寄ってくる。蜂の巣を突っついたような騒ぎっぷりに、眉間に思いっきり皺を寄せた。
「なーんでこんなとこにいるんだよ、いでっ触んなトオル!ミカエラもお前、来んなって言ったろ」
〝ご、ごめんなさい、わたしがお呼びしたんです〟
 どうなっちゃうか、怖くて、と小さくなって謝るコユキに、苛立ちはすぐさま霧散した。コイツらを呼ぶ程、不安にさせてしまったようだ。申し訳ない。
〝おとうさんがひどいことして、ごめんなさい〟
「あーいや、優しい方だったって。心配かけたな」
 黒目がちの瞳は、先ほど流したものとは別の新しい涙を生み出して潤んでいる。安心させたくて頭を撫でてやった。本当はキスの一つでもしてやれればよいのだが、弟たちの前だし、何よりまだ鼻血が微妙に止まっていない。お嬢ちゃんを血まみれにするわけにはいかないだろ。
 ミカエラがまじまじと俺の顔を見て、うげ、と顔を歪めて見せる。鼻筋がおかしいことになってるんだろう。多分。
「おい愚兄、折れてるのか」
「鼻骨はイッたかな〜その他の骨はだいぶ元気」
……左牙が、欠けてないか」
「んー、ちょっとだけね。カケラ持ってるからくっつくだろ。大したこっちゃねえよ」
「うーわ……痛ったそ……なんでピンピンしてんの……
「ハッハッハ」
 トオルが布の穴からでもわかるくらい顔を青くしてドン引きしている。こいつ、あんまり流血沙汰の喧嘩とかしない良い子だしな。ミカエラも青ざめてはいるが、狼狽するほどではない。コレばっかりは場数と経験の差ってやつだ。
 話しながらなめらかな濡羽色の髪を梳いてやっていると、コユキがまたスイッチが入ったようにプルプルと震え出す。
〝お、おとうさんが、ひどいことして〟
「お、おいコユキ」
〝ごべんなざいぃぃ……
 わーんわんわん!と今度こそ幼稚園児のマジ泣き状態で泣き出した。コレはマズイ。
 何がマズイって、男三人が女の子を囲んでいる状態で女の子がギャン泣き。そのうち一人は顔がボロッボロで流血してて、一人はビキニだしもう一人は腰から下が無え。何も知らん奴が見たら、『不審者トリオに詰問されパニックになって泣いている女の子』に見えてしまう。
 この辺りを巡回している警察官は大抵顔見知りだから良いが、正義感の強い新人くんなんかに当たると非ッ常に面倒だ。マジで連行されちまう。親父さんと和解(?)したばっかりだというのに、その帰りにしょっ引かれたと知られちゃ手のひら返されてもおかしくない。
 俺は慌ててコユキの肩に手を置いて、姿勢を低くし視線を合わせてニッカリ笑ってやった。口角を上げると腫れた顔がめちゃくちゃ痛いが構っていられない。
「だー、ほら、なあ泣くなよ!な!?男ってのはさ!こうやってぶん殴りあって仲良くなるもんなの!」
「エッ何ケン兄、親父さんのこと殴り返したの!?」
「んなことするわけねえだろうが」
〝ごべんなじゃいぃ〟
「あーもう!何言っても泣くなお前さんは!」
 諦めて、弟が見ているとということを脳から一時追い出すことにした。
 おうちでやったのと同じように両手を広げ、ほれ、と促すと、小さな身体が胸の中にビャーンと泣きながら飛び込んでくる。フリーズしたミカエラは放置し、ワァオ!と言う顔をしている透に中指立てて、嬢ちゃんの背中をゆるゆる撫でてやる。ワー恥ずい。無心になれ俺。今は緊急事態だ。
……ま、これに懲りたら、親父さんにゃあ下手に隠し事はしないこったな」
〝ふぁい……
 真っ赤に腫れたお目目の顔を上げたコユキに苦笑する。お前は悪くないんだからと言うのは簡単だが、それじゃあこの子はまた延々と気に病んで悩むだろう。ちょいと戒めてやるくらいがちょうどいいとこの数ヶ月で学んだ。
 それにな、と付け足して、濡れたほっぺたを拭ってやる。
「心配すんなよコユキ」
〝ぶぇ〟
「俺さ、けっこー上手くやっていけると思うぜ。お前の親父さんと」
……ほんと?〟
「ほんとほんと」
 鼻が折れるほど殴られたのに?と不思議そうな顔をしているコユキに、笑いかける。
 あそこで俺が親父さんに交わした約束は三つ。

 コユキを不幸にしない。
 コユキが俺から離れたがったら、俺は素直に身を引く。
 それから、一番大事なやつがもう一つ。最後に交わした会話を思い出すと、頬が腫れ上がっているのが解っていても口角が上がってしまう。


……あの子より先に死ぬな』
『あ?』
『あの子に私と同じ思いをさせたら、私はお前を、絶対に許さない』
……
『誓え』
……解った、俺の心臓に誓って守る』
『いりませんよあなたのハツなんて』
『ちょっ人の決意をホルモン扱いすんなよ』


 ああ畜生、思い出すとやっぱり笑えてくる。
 あの子より先に死ぬな。
 吸血鬼の俺に対して愚問だぜと、笑い飛ばすのは簡単だ。しかし、そんな気はさらさら起きなかった。
 あの鬼神のような父親は、心の底からそれを願っている。可愛い娘に、置いていかれる悲しさと虚しさを味あわせたくないと、切に切に願っている。
 ───そんなら俺はあの親父さんにとって、予想外にも相当の優良物件じゃあないか?
 俺もあの人も、この小さな娘っ子を幸せにしたいっていう一点において、これ以上ない同志になれるってことだろう?

……クックック……い、いでで」
「な、何笑ってるんだ……
「いや、なんかホラ、楽しくなっちゃってさぁ」
「もー元々ダメな頭更にイカれた!?バカじゃないの!?」
〝ケンさんが……お父さんのせいで……おポンチだけじゃなくてバカになっちゃったぁ……
「もーちょいオブラートに包もうぜ嬢ちゃん」
「とにかく早くミカ兄んち行こ!あっちゃん待ってるし!氷嚢作ってあるし血も準備してあるから!」
 おっとっと、とふらついた体を横からミカエラに支えられる。「いい加減にしろ馬鹿兄が」と呟かれた悪態に笑って返した。逆サイドにはトオルが「全くもう、」と文句言いつつするりと入り込んで来た。おうおう、一丁前に俺を支えられるなんて、二人とも立派になったもんだ。左右に感じる思ったよりもがっしりとした体躯に笑う。
〝けんさぁん……
 着物の袂、真っ赤に汚れた部分を握った嬢ちゃんがぺしょりと眉を下げて俺を呼んだ。犬耳が情けなく垂れ下がって震える幻覚が見える。
 心配すんな、は何度も言った。痛くねえよ、は嘘になる。どう言って慰めようか迷いに迷って、艶やかな黒髪に手を置く。
「まあ、不束者ですが、これからもよろしくな」
……ゔー〟
「だっから、なぁんで泣くんだよ……
「やーいやーいかーわいそーかーわいそー、ケン兄がコユキちゃん泣ーかしたー」
「親父さんに言い付けに行くか、すぐだぞ」
「やっめろほんと今やられたらマジで死ぬ」
 いい感じでまとめようとした俺を左右を支える弟二人が野次る。ほんとに死んじゃうぞ。
 端正な顔のビキニ野郎が運転席に収まったバンの三列シート、最後部の座席に、どっせい!と荷物みたいに放り込まれる。遠慮なくシートを一列占領して横になると、前のシートからコユキが俺を覗き込んできた。鳶色の綺麗な一対が俺をじいっと見つめてくる。あーかわいい。
 鼻っ柱と牙のカケラ。二つでこの娘にが俺のモンになるなら安いモンだ。
 たまらなくなって、弟たちが前を見ている隙にちょいと上半身を起こして丸いほっぺたにキスをやる。途端、ボボボ、と蒸気が噴き出したみたいに真っ赤になった。
「ハハハ、すげえ顔」
〝ッ……もう、馬鹿っ!!〟
 寝ててください!という一喝と共に思いきり肩を押され、一瞬で視界が回転して体がシートに沈み込んだ。流石にもうちょい優しくしてくれると思ったんだけどなあ、俺。
 ごめんなさいつい!と涙ぐむコユキを見上げてぼんやり思う。俺はこの先、華奢なお手手に何回ぶん殴られるんだろう。親父さんからもらう分も入れたら何十何百か。
 そう思うとたまらなく可笑しくて、楽しみで、愉快でたまらない。

 考えたくもない、捨ててきた過去のしがらみは数知れない。
 しかしお陰様で、今このクソ狭い街で、家族と共に、愛したいものを愛したいように愛して生きられる。
 こんな幸せが他にあるだろうか。


 可愛い愛し子がまだ赤いほっぺたを携え、心配と不思議が混ざった視線で見つめてくる。
 それがまたたまらなく楽しくて、血まみれの口布を上げてクククと堪えきれない笑いを漏らした。