わんほり
2023-12-17 02:10:09
8882文字
Public 小説
 

黒百合の追憶

pixivに上げている【キュートでジュードなニーゴの話】シリーズの第三話のスピンオフ的なお話。
かなり治安の悪い話です。暴力表現、性的虐待などがあります。苦手な方はお気をつけください。
シリーズ未読の方はこちらを読んで頂いた方がより楽しんでもらえると思いますhttps://www.pixiv.net/novel/series/11258617

 静かな満月の夜だった。
 指定した待ち合わせ場所に現れた少女の、長い長い白銀の髪を目にして、胸の奥がしんと痺れた。とっくに忘れたと思っていた記憶の断片が引きずり出されるのを感じた。

 目の前の彼女たちに気づかれないように、そっと目を瞑り、口元に笑みを浮かべる。

 意識せずとも記憶が溢れて甦ってくる感覚を久しぶりに味わった。やはり、この街は私にとって必要なのだ。
 混沌と闇に塗れたこのシブヤで、私はようやく息を吹き返す。

 †

 八年前。当時十歳だった私はまだ渡米する前で、このシブヤにいた。まふゆは七歳。私たちが出逢って二年ほどが経っていた。
 
 私は東洋の魔窟と呼ばれる無法地帯シブヤでしのぎを削るマフィアの娘に生まれ、はやくから裏社会の闇を叩き込まれた。幸か不幸か、何をするにも飲み込みがはやく、人の情というものに触れずに育ってきた私には、非情な行いに対する躊躇いもなく、教わること全てをすぐに吸収していった。人の殺し方、悦ばせ方からマフィアが扱う『商品』についての知識。一般常識や大衆心理、読み書きに始まり経済学や法律、そして心理学や精神医学まで。人を知り人間社会を知り、それを蹂躙し出し抜くための知識と技術を学んだ。その内容はマフィアの英才教育というよりも、むしろ悪魔の英才教育と呼ぶべきものだったと思う。結果的に私のような本物の『心無い』人間を作り上げてしまったのだから。

 その頃には幼いまふゆにマフィアの英才教育を手解き出来るくらいの知識と技術を持っていた私は、ファミリーに迎えられたまふゆ――『雪』の先生になった。
 まふゆは優秀な生徒だった。教えたことは大抵一度で覚える。時々、私のお父さんや他の大人たちに呼び出されては、散々弄ばれてボロボロになって帰ってきても、復習と日頃の鍛錬を欠かさないような真面目な子だった。

 私と同じふわふわした癖っ毛。ぱっちりとした二重の丸く大きな目。幼くとも大人をも魅了する『何か』をまふゆは持っていた。男でも女でもない半陰陽の身体。虚の精神の冷たさと過酷な中でも僅かに残った優しいぬくもり。相反するものを抱えながらも、引き裂かれずに絶妙なバランスで己を維持しようと静かに足掻く。歪とも取れるその在り方が、まふゆにえも言えぬ魅力を与えていた。その例に漏れず、私も私なりにまふゆを愛おしく思っていた。お父さんに『雪』と名付けられたまふゆのことを、二人きりの時だけは絶対に『まふゆ』と本当の名前で呼び続けるくらいには。
 中でもお父さんは狂気じみた愛情をまふゆに注いでいた。まふゆの虚に取り憑かれ、どこまでやればその虚が揺らぐのか試すように、さまざまな方向でまふゆを揺さぶって愉しんでいた。愛情と言ったが、あれが一般的に愛などと呼べる代物ではないことはわかっている。ただあれほど執着し、興味関心を持ち、独占欲をはじめとしたありとあらゆる欲を向け続け、他者からは徹底的に庇護する……あれを一言で表す言葉を、私は愛以外に知らない。
 
 お父さんは私のことも愛していた。まふゆは気づいていなかったと思う。私の虚はもう揺らぐことはなく、まふゆのようにお父さんに試される時期は過ぎていたから。
 私が初めて人を殺したのは五歳の時だった。まだナイフや拳銃を扱うには幼い私に、毒薬を握らせたのはお父さんだった。「雪乃、この注射を打つと人は苦しんで死ぬんだ。やってごらん」そう言ってファミリーを裏切った若い男を指差した。言われた通り、怯える男に毒薬を打った。男は呻きながらのたうちまわり、泡を拭いて死んだ。息を引き取るまでずいぶんと騒がしかったから「もっとすぐに静かに死ぬのがいい」と言ったら、お父さんは「じゃあ次は別の毒を教えてあげるよ」と嬉しそうに笑っていた。
 私を初めて抱いたのも、お父さんだった。人を殺すことを覚えてしばらくした頃だった。何が起きているのかは全くわからなかった。ただ痛くてお腹が苦しかった。終わった後に内腿を伝う、生暖かくてどろりとしたものが気持ち悪かった。お父さんにそれを伝えると「だんだん気持ちよくなってくるから大丈夫だよ」と笑った。そしてセックスの時のクスリの効果を私の身体に教えた。その頃はまだクスリが効く身体だった。お父さんもクスリを使って一緒に快楽に溺れながら、男の悦ばせ方を私に教えた。それを偶然目にしてしまったお母さんは、半狂乱になって家から出ていった。私には、それが異常なことかなんてわからなかった。私の心は揺れないまま、快楽を教えられ、それを身体が覚えただけだった。

 私の心など、出来上がる前に全て壊れてどこかへ抜け落ちたのだと思っていた。ただ虚があるだけ。揺れ動く感情など持ち合わせてはいないはずだった。
 
 まふゆがやってきて、一緒に寝室に呼ばれるようになった。相手はお父さんだけの時もあれば、他に男や女がいることもあった。その人たちの相手をする私を、まふゆが悲しそうに見ていた。その時初めて私の虚が微かに揺れた。まふゆが悲しそうなのが苦しかった。心にも身体にももう痛みなどない、そんな私の有りもしない痛みを気遣いながら、にやにやと笑う大人に犯されているまふゆを見ると息が詰まった。今すぐ此処にいるまふゆ以外の全員の息の根を止めなければ呼吸が出来ない。そんな錯覚に陥りながら、私もまた犯されていた。まだまだ発育途中の幼い私たちの身体を、好き勝手に弄びながら大人たちが醜悪に笑う。私たちに快楽を叩きつけて、優越感と征服の歓びに酔いながら笑っている。浸りきっていてわからなかった闇の深さと冷たさを、嘔吐いてしまいそうな歪さを、その時にやっと知った。

 だけど……私はもう闇に馴染み過ぎていた。もはや混沌とした冷たい闇とその所業は、私のアイデンティティに深く交わり、切り離せないものとなっていた。
 だけど、まふゆは違う。ならば、まふゆの根幹が脅かされて完全に消え失せてしまう前に、私に出来ることをしようと決めた。子どもの私たちだけでこの闇から抜け出すことが叶わないのなら、せめて彼ら醜い大人に壊されてしまわないように、まふゆを鍛えあげる。壊される前に相手を壊す力を持たせ、己を守らせる。
 
 それと同時に、私はあることを調べ始めた。自分の魅力と使い方を理解していた私は、役立ってくれそうな大人を籠絡してふたつの調査を頼んだ。ひとつはお母さんの行方、そしてもうひとつは私とまふゆのDNAを調べさせたのだ。
 最初はお父さんの好みの顔がこういうタイプなんだろうと簡単に考えていた。ふわふわの癖っ毛に丸い大きな目。だけど、成長する毎にまふゆは私のお母さんにどんどん似てくる。同じ血筋を感じさせる面差し。私にもどこか似ている。まるで、姉弟のように。

 私の予想は的中していた。
 
 お父さんはきっと何も知らない。単にまふゆが気に入ったから買ってきただけだろう。私を産んだお母さんが家を出てから、三年後にもう一人子どもを産んだ。まふゆと名付けられたその子は、半陰陽の珍しい身体をしていた。そして運悪く拐われて闇オークションに出され、マフィアのボスに買い取られた。『雪』と呼ばれるようになったその子は、私と半分血の繋がったきょうだいだったのだ。
 
 これはお父さんにも、まふゆにも告げていない私だけの秘密だ。調査に協力してくれた大人二人はすでにこの世にはいない。だからこの秘密を知るのは私だけ。
 生まれて初めて流民街を訪れたあの日の夜、欠けた月の影を眺めながら私は決めた。この秘密を抱いたまま私は闇に溶けてしまおう。そしていつかこの秘密ごと朽ち果て、無に還ろうと。

 調べによると、家を飛び出したお母さんが流れ着いたのは、シブヤの中でも殊更無秩序の闇が濃くなる流民街だった。しかもその中でも最も混沌とした濁りきった場所――古い娼館と阿片窟がぎゅうぎゅうに詰め込まれている圓山ユアンシャン地区。生きることに困窮している者たちが最後に辿り着く、薄汚れた快楽を泡銭あぶくぜにで売り買いする地区だった。
 こんな所を子どもが一人で歩いていたら悪目立ちするだろうかという危惧はすぐに消えた。ここまで荒んだ地区になると子どもも大人も関係なく、みんなどろりと濁った目で行き交う人を見ている。大切なのは客か、客じゃないか。それだけなのだ。年齢も性別ももはや意味をなさない。
 もしも、あそこにぐったりと座り込んでいる、もはや男女の区別もわからない見た目になっている人に「クスリをやるから人を殺してこい」と言ったら、大喜びで包丁を持って駆け出していくんだろうな。そんなことを考えながら、色彩だけはゴテゴテとした、古びた地区の路地を速足で進んでいく。あちこちから異臭がする。クスリの一種とわかるものもあれば、一体何なのか判別のつけようがないものもある。こういう場所は危険の予測をするのが難しい。日中とはいえ油断すれば何が起こるかわからない。細心の注意を払いながら、目的の建物を探す。

 探していた建物は娼館の隣にあった。今にも崩れ落ちそうなコンクリート剥き出しのボロアパート。夜になると路地に出て客をひき、そのまま部屋へと戻って客の相手をするのだろう。そうして得た金を握りしめてクスリを買いに行くのだ。体がボロボロになって命を落とすまで、その無限地獄のような連鎖は続く。クスリとセックスの快楽に脳みそまでドロドロに溶かされた人たちが、ボロ雑巾のようになって回す金を、マフィアたちが吸い上げていくのだ。かつてはその搾取する側に侍っていたお母さんは、今や搾取される側の底辺まで堕ちていた。

 所々錆びて穴の空いている鉄の階段を登っていく。
 此処に流れ着いてしまうほど身を堕としているのなら、お母さんの身体はクスリに蝕まれてボロボロなはずだ。もう先は長くないだろう。
 それでも、どうしてもお母さんに直接訊きたいことがあった。

 まふゆのことを覚えているかどうか。拐われたその子を今でも探しているかどうか。もしも、その答えがイエスなら――

 お母さんの住む部屋の前に立つ。ノックしても返事はない。ドアに鍵はかかっておらず、ドアノブを回すと耳障りな音を立ててゆっくりとドアが開いた。玄関に三和土はなく、剥き出しのコンクリートの床が奥に続いていた。万が一のことを考えて、声は出さずに静かに奥に進んでいく。
 生活感のない質素な部屋だった。
 ビーズの暖簾の向こう側に、パイプベッドが見えた。投げ出された白い女の足と、女に跨り動いている裸の男の背中。男が頭を上下させるたびに、ベッドの軋む音が響く。
 この目に飛び込んできた光景と音に、お母さんが『仕事』をしているのだと思った。しかし、むせかえるような血の匂いを感じた瞬間、反射的にナイフを握りしめていた。

 ナイフを握りしめた右手を後ろ手に隠し、息をひそめて角度を変えながら足を運ぶ。
 大抵の人間相手なら負けることはない。ましてや、今その相手は快楽に耽っている。自分の腕に対する過信が油断につながった。思わずナイフを握りしめた時のあの感覚を信じて、すぐに立ち去るべきだったのだ。

 お母さんは男に犯されながら――喰われていた。
 男は腰を動かしてはお母さんの喉や胸に喰いつき、血を啜り、肉を咀嚼していた。男の顔も、お母さんもベッドも、血液と肉片で真っ赤に染まっていた。血塗れで性欲と食欲を満たしているその男は人間ではないように見えた。鋭い牙のような犬歯、人のものではないピンと立った獣の耳は、男の髪と同じ灰色をしていた。

『流民街にはな、怪物がいるんだ。イカれた人間のことじゃない、本当の怪物だ。だから絶対に一人で行っちゃいけない』
 昔お父さんが言っていたことを思い出す。
 信じてなどいなかった。怪物などいるはずがない。流民街は治安が悪くとても危険な場所だから、まだ幼い私が一人で足を踏み入れたりしないように脅しただけだと、そう考えていた。

 だけど、それならばこの男は何だ?
 まるで伝説の狼男のような、今まさにお母さんに美味しそうに喰らいついているこの男は何なのだ?

 男がふいに動きを止めた。
 上半身を起こし、ゆっくりとこちらを向く。
 男が体勢を変えたことで、お母さんの顔が見えた。舌を噛まれたのか、口の周りが血塗れだった。顔は喰われておらず、記憶の中よりはやつれてしまった、虚ろな菫色の瞳のお母さんがそこにいた。ふわふわとした癖のある黒髪、大きな丸い目、その顔立ちにやはり私もまふゆも似ていると思った。

「お嬢ちゃん、何の用だ?」
 ザラザラとした不快な低い声で、男が私に声をかけた。
 私が何かを答える間もなく、男が右腕を大きく振って襲いかかってきた。それはどうにか避けたが、間合いを詰められた状態で突き出された左腕をまともに食らう。喉を掴まれたまま高く持ち上げられ、そのまま壁に押しつけられる。

「ごほッ」
 喉を締められ、息ができない。僅かな空気すら通さないくらいに、きつく気管を締めつけられていた。吊るされたまま、男の鋭い爪が私の服を裂いた。生地を突き破って皮膚に届いた爪が、肌に傷をつけ、血を滴らせる。

「顔が似てるな。あの女の娘か?母親と同じように、犯しながら生きたまま喰ってやるよ」
 男が首を傾げながら私を睨めつけ、口元の嗜虐的な笑みを浮かべる。
 酸素が足りない。気管だけじゃない。頸動脈もきつく締め上げられて、意識が遠のきそうになるのを堪えながら、どこかぼんやりと考えていた。

 そうか、喰われて死ぬのか。
 お母さんがお母さんだったモノに成り果てたように、私も私だったモノに成り果てて死ぬのか。
 男に対しても、これから味わうであろう痛みに対しても、そして死ぬことにすら、恐怖は感じなかった。ただ、まふゆをひとりにしてしまうことだけが気がかりだった。

 まふゆは、まだ泣けるだろうか。

 男は私の喉を掴んで吊り上げたまま、ベッドへと向かった。お母さんだったモノの横に、縫い留めるように私を押し付け、覆い被さってきた。血走った目が私を吟味するように睨め回す。大きく開いた口から鋭い牙を剥き出し、涎をポタポタと私の腹にこぼす男に下着ごと服を剥ぎ取られて、肌が直接空気を感じる。足を無理矢理開かれて、これから与えられるだろう痛みに目を瞑って備えた。

 その時、泣き喚くまふゆの顔がよぎった。
 今よりももっと幼い……買われてきてすぐの頃のまふゆが「寂しい」「帰りたい」と言って泣いていた。

 ――おかあさんを恋しがって泣いていた。

 目を開けると、隣に横たわっているお母さんだったモノが目に入る。
 まふゆはもう『帰れなく』なってしまった。
 ならばせめて――私はまふゆの元に帰らなければ。

――ッ!」
 後ろ手に隠していたナイフを男のこめかみに深々と突き立てた。男の動きがぴたりと止まる。刃が骨の継ぎ目をうまく通って脳まで達した手ごたえがあった。ナイフを捻り、刃を抜こうと力を込めたその時、男の眼がギョロッと下を向き、私を捉えた。

「ガッ、ガキ……がッ!」
 男はナイフを刺している私の手を掴み、頭を逆側に強く振ってナイフを引き抜いた。真っ赤な血が傷口から飛び散り、押さえつけられている私を汚す。
 やはり怪物なのか。この傷で生きて、しかも動けていることが理解できない。
 こめかみの傷を押さえた男が、激しい怒りと殺意の満ちた目で私を睨んだ。ナイフを握ったままの手が、男のとんでもない握力で締め付けられ骨が軋む。

 今度こそ終わりか、と覚悟を決めた瞬間――少し掠れた少女の声が鼓膜を揺らした。

「見つけた」

 男の背後に修道服を着た小柄な少女が見えた。
 男が振り向く暇もなく、私の手を握りつぶそうとしていた男の手を、少女の鋭い爪が引き裂いた。そして叫び声をあげる男の頭を掴むと、信じられない力で男を向こうの壁まで放り投げた。ものすごい音を立てて、男の体がコンクリートの壁にめり込む。

 少女は私を一瞥すると、男が何をしようとしていたかを察したようだ。白銀の長い髪を靡かせながらベッドから降りる。そして、ほとんど裸の状態の私を男から隠すようにベッドの前に立った。

……わたしの縄張りで、好き勝手してくれたみたいだね」
 静かながらも、怒りを滲ませた声で少女は男に言った。

「荒っぽいことは好きじゃない。今すぐシブヤから出ていくなら、その腕一本で勘弁してあげるよ」
 揺れる白銀の髪が、灼熱の白い焔に見えた。
 男と同等か、それ以上の圧を感じる。

「はっ……はははっ!シブヤ流民街に真っ白な雌の人狼がいるって聞いてやってきたんだが、本当だったのか!いやぁ、ラッキーだ!なぁ、俺の仔を産めよ。そのガキ喰って栄養つけてさ!」
――断る」
 少女が芯のある声できっぱりと答えた次の瞬間、男の悲鳴が響き渡った。むせかえるような血の匂いが広がる。

 男は左肩から右の脇腹にかけて、斜めに真っ二つにされていた。重さに負けて、上半身が床までずれ落ちていく。血と内臓が飛び散り、そういった場面に慣れている私から見ても、かなり悲惨で猟奇的な有り様だった。
 信じられないことに男はまだ生きていた。
 苦しげに呻きながら、どうにかして動こうと右腕をバタバタさせている。少女は眉を顰めて、男の右腕を踏み潰した。男が絶叫してのたうち回る。
 少女はそんな男に対して冷ややかに言った。

「あなたも人狼なら、それくらいじゃ死なないでしょう?しばらくそこで待ってて」
 そうして、振り返るとベッドへと近づいてきた。
 少女は男に食い荒らされ、血塗れで横たわっているお母さんだったモノをじっと見つめた。アイスブルーの瞳が、哀しげに揺れていた。少女は一言「いただきます」と呟くと、お母さんの喉に鋭い牙をたて、肉を噛み切った。そのまま咀嚼して血肉を飲み込むと、光を失って開かれたままだったお母さんの、もう何も映さなくなった虚ろな菫色の瞳にそっと眠りの蓋をするように、細長い指で瞼をおろした。

「命を……ありがとうございます」
 少女は目を伏せて、お母さんに礼を述べた。
 そして、静かな声で私に問いかける。

「この人は、あなたのお母さん?」
……はい」
 どう答えようか迷ったが、私は少女に向かって頷いてみせた。少女は眉を下げたまま、細いけれどもしっかりとした声で私に言った。

「そっか。私たち人狼は人間を食べないと死んじゃうんだ。だから……食べたことは謝れない。だけど、お母さんの尊厳を無視したあの男だけに、お母さんの命を継ぐことはさせない。あなたのお母さんは私にも繋がっていく。感謝と敬意をもって、私の血肉に繋がせてもらう。だから、あなたには……これからも強く生き抜いてもらえたら嬉しい」
 あの男――人狼がお母さんにしたことは、人間だってやることだ。尊厳を奪い、陵辱し、食い物にする。私自身もまた、そうした闇に沈み込んでいる人間だ。
 お母さんは遅かれ早かれ、誰かしらに食い尽くされて人生を終えたはずだ。たまたまそれが訪れたのが今日という日で、相手が人ならざるモノだっただけ。比喩でなく、糧として血肉を喰われてしまっただけ。
 そんなお母さんに、この目の前の恐ろしく強いのに、ずいぶんと儚げな外見を持つ少女は、真摯な態度でお母さんの命に敬意を払い、男に奪われた尊厳を取り戻してくれた。

 私自身の気持ちはよくわからない。
 でも、お母さんの変わり果てた姿を見て、どこか胸の奥がしんと昏く沈み込んでいた。少女の言動でそれが晴れた。
 想像に過ぎないことだが、お母さんもこの少女の心根と優しさに救われたんじゃないかと思った。

「あなたに……私もお母さんも救われました。ありがとうございます」
 泣き笑いの笑顔を浮かべて、そう告げた。
 そうすれば少女が安心してくれる気がしたから。

 少女は何も言わず、ただその美しいアイスブルーの瞳を揺らし、私を柔らかく抱きしめた。そして、まだ息のある人狼の男を掴み、何処かへと消えていった。

 何を感じたかは覚えていない。だけど、彼女のあたたかくて柔らかな感触だけは、しばらく私の中に残っていた。

 †

 血の匂いの充満した部屋に、白銀の髪が揺れる。

 圓山ユアンシャンでの出来事から八年後、私は自らの手でお父さんを撃ち殺し、まふゆを刺して、怒りに震える美しい人狼の前に立っている。

「わたしには苦しい、というのもよくわからない。だからね、救われたいとも思っていないんだよ」

 あの日と変わらない姿で、まふゆだけでなく、私のことも「救いたい」と渇望しているかわいい狼さん。
 その必要はないのだと、何度も問いかけては伝えたのに、なかなか諦めてくれない。

 感情はもう思い出せない。だけど、記憶は鮮やかに甦った。
 あの日、あなたが見つけてくれたから、確かに私とお母さんはあなたに救われたのだ。
 私が闇に溶け込んで消えていくとしても、その事実は変わらない。

 だからあなたは、まふゆだけ愛して、救ってあげて。
 私には出来なかったこと。
 あなたになら出来ること。
 お母さんの命を繋いでくれたように、私の願いを繋いで欲しい。

「私は二度とまふゆには会わない。あなたにも会わない。『教会』とのやり取りはルカを通すことにする。だから、まふゆだけを見てあげて。苦しみがわかったあの子なら、きっといつか幸せになれる。まふゆを幸せにしてあげて」

 そうして私は、自分でももうよくわからなくなった想いの欠片を、奏に託した。
 託して、満月の影に浮かびあがる混沌としたシブヤの闇に、再び溶けていった。