【エアサンプル】極道の夫(おとこ)

極道長男が次男を愛人として囲ってるタイプのカラおそという本は出ない

「犬小屋だよ」
 敷地の片隅に佇む小さな離れを称して、松野おそ松はいつもそう口にする。しかしどう見たって、犬を飼っている様子もないものだから、誰もが彼の言葉を真に受けていない。誰もその離れに犬がいるなどとは決して思っていなかったが、果たしてそこに何かがいるのか、単なる空き家なのかを確かめようとした者はいなかった。おそ松と、そして彼の腹心であり双子の弟である松野チョロ松だけが、その離れの実態を知っている。彼らに聞けば良いと部外者は思うだろうが、そうもいかない。おそ松は辺り一帯に名を知られる極道の一派、松野組の頭であり、離れについて問われれば威圧すら感じる笑みを浮かべて「犬小屋だ」と宣うのだ。彼についていくことを決めた者の誰もが、その笑みの前に深く聞くことを諦めてすごすごと引き下がる。次いで腹心であり弟であるチョロ松は、ただ「組長に聞いてくれる?」と素気無く返すばかりで、やはり深く聞くことは許されなかった。
 そんな調子で、松野組の構成員はその小さな離れへ近寄りもしなければ、問いかけることもしない。彼らに分かることと言えば、おそ松がそこで夜を明かすことが多いということくらいだ。犬小屋と言いながら、おそ松の寝所なのかもしれないと思う者も多い。朝も遅い時間に離れの方からチョロ松の怒声が聞こえてくるのも、寝汚いと噂されているおそ松を叩き起こすためだというのは想像に難くない。そんなこんなで、おそ松いわくの「犬小屋」は、構成員の暗黙の了解として、松野組の屋敷の中で唯一、近寄ってはいけない場所となっていた。

 先輩に口酸っぱく「近寄るなよ」と言われた件の離れを前に、松野トド松は冷や汗を垂らしながら一通の手紙を手に立ち尽くしていた。馬鹿でも入れると名高い荒れすさんだ高校をつい数日前に卒業してすぐ、トド松は松野組に入ってきた。染めて波打つ髪をカチューシャで抑えた頭を挨拶で向き合ったおそ松が面白げに見ていたことが印象的だった中、何を考えてそうしたのか、トド松はチョロ松の直属として扱われている。同じ松野という姓を以って血縁なのかと他の構成員に散々に囃し立てられたが、そんな繋がりはトド松が知る限りでは存在しない。ただ連んでいた仲間の一人が入ると言うから付いてきただけだったのに、トド松はチョロ松から雑用を言い付けられる位置に一人だけ抜擢されたのだ。
 離れの呼び鈴を鳴らして出てきた奴にこれを渡せと手紙を渡されてやってきた離れは、トド松が思っていたよりも綺麗で人が暮らせるような平屋の小さな建物だった。握った手紙が手汗で濡れないうちにと、トド松は意を決して呼び鈴を鳴らす。指が震えていたのは仕方のないことだ。他の構成員たちに怪談話かのような口調で語られた印象が強すぎた。鬼が出るか蛇が出るか、どうやら松野の祖先は鬼らしいだとか、やけにぶっ飛んだ噂ばかりを聞かされ続け、怖い話が心底苦手なトド松が気にしない筈がない。
 一度だけ鳴らした呼び鈴に応えはなく、トド松はもう一度だけ鳴らした。チョロ松に「寝汚いのしかいないから、なんなら連打してもいいよ」と言われてはいたが、今のトド松にそこまで遠慮のない行いをする度胸はなかった。本来のトド松の性根は、単なるビビりだ。二度目の呼び鈴の後、もう一度鳴らすべきかと逡巡している内に離れの中から人の足音が聞こえてきた。聞き耳を立てるに、どうやら一人分らしい。おそ松が出ればそれでいい、何か言われたらチョロ松に頼まれたのだと言って用事を済ませてしまえばいいのだ。
「おそ松に何か用事か?」
 果たして出てきたのは、赤をよく身に付けているおそ松とは違う、青く染め抜かれた着流しを身に纏った男だった。太い眉を下げた柔和な笑みを浮かべていて、その顔はおそ松によく似ている。ぽかんと呆けていたトド松だったが、不思議そうに首を傾げた男に呼びかけられて、慌てて我に返った。
「っとぉ、チョロ松サンから手紙っす」
「チョロ松から? おそ松宛か?」
「ちょっと分かんないッス。これを出てきた奴に渡せって言われて来たんで」
「そうか……。悪いが玄関の中でちょっと待っててくれ。おそ松を叩き起こす」
 真っ白な封筒を受け取った男は、トド松を離れの玄関の中へと招き入れた。緊張し、恐る恐る足を踏み入れたそこは、石の敷かれた三和土と、木目調の下足入れが置かれている以外は殺風景なものだった。男がサンダルを脱いで建物の奥に進んでいくのを見送ったトド松は、次いで「あでぇっ!?」と叫ぶおそ松の声が耳に届いて思わず身を竦めた。どうやら男はおそ松に対して随分と気安い仲らしいが、トド松にとっては気が気でない。それから程なく、何事か言い合っている声もわずかに聞こえたが、その内容まではトド松の耳に届いてこなかった。
「よお、トド松ぅ。お仕事ご苦労さん」
「お、おそ松さん、チィーッス!」
「なはは、やっぱ面白いねお前。とりあえず戻ろっか」
「え、あ、う、ウィッス!」
 それから玄関に姿を見せたのはおそ松だけで、先程の男は彼を見送ることもしないらしい。赤みがかった黒地の羽織と深紅に染め抜かれた着物を身に纏うおそ松は、いつも屋敷で見かける姿と寸分の違いもなかった。母屋に戻る道すがら、おそ松はいつになく饒舌で、きっと他にはチョロ松とあの男しか知らないであろうことをトド松に聞かせてくれた。と言っても、あの男の名前がカラ松だということと、彼が離れで暮らしているということだけだったが。
 それでも、得体の知れない怪物でも出るんじゃないかと言うほどの話を聞かされていたトド松にとって、幽霊の正体を知った安堵が勝る。あのカラ松という男は、柳のようと言うよりはしっかりとした身体つきをしているが、極道屋敷に似合わず人好きのする穏やかな笑みをした人間がいるのだと分かっただけでも十分だ。
「カラ松の話は俺とチョロ松の前でだけな」
「ウィッス! 誓って言いません! なんなら血判状だって作ってイイっす!」
「面白いけど血判状はなくてもいいよぉ」
 おそ松が口外を禁じた理由こそ知らないが、トド松はとにかく頷いた。なにせ、未だ極道のことなどろくに知らない、下っ端の小心者だ。目上の、しかも組長という立場の男の言葉に背けば殺されるのではないかとすら思っている。
 トド松の反応にいちいち愉快そうに笑うおそ松の後に付いて母屋に戻ると、眉根を寄せたチョロ松が待ち構えていた。緑色の着物を着て、黒縁の眼鏡をかけた彼がそうして不機嫌そうに立っているだけで、トド松は心の中で必死に命乞いをしていることを彼もおそ松も知らないだろう。
「お帰りトド松。部屋に戻っていいよ」
 チョロ松のその言葉に、トド松は腰を折って一礼してから充てがわれている部屋に戻っていった。果たしてあの手紙の中身は何だったのか、離れにいたカラ松という男はいったい何者なのか、聞いてみたかったことも山とあったが、何せトド松は入ったばかりの下っ端だったし、命は惜しい。もしかしたらそのうちチャンスが来るかもしれないと思い直すことにした。





「良かったのか? アイツ、トド松だったか。オレに会わせて」
 すっかり夜の帳が下りた頃、離れにやってきたおそ松は、早々にカラ松から問いかけられた。これまで頑なにチョロ松以外の人間と引き合わせて来なかったおそ松が、カラ松に出迎えを任せたというのは殆ど初めてだったのだから、彼の疑問ももっともだろう。玄関を入って早々に脱いだ羽織をカラ松に押し付けながら、おそ松は愉しげに目を細めた。
「あいつはね、チョロ松と同じ場所まで上がってもらうの」
「そいつはまた、苦労するだろうなあ」
「誰が?」
「お前も、チョロ松も、トド松もだな」
「俺もぉ?」
 そんな会話をしながら和室に入ると、そこには布団が敷かれている。着物のままでそこへ転がるおそ松を口で窘めながら、カラ松は衣紋掛けにおそ松の羽織をかけてやった。そのまま、押入れから深い赤に染められた浴衣を取り出して、布団の方に投げて寄越す。
「そうやって着物を皺にしたら、おそ松を説教する奴が二人に増えるってことだろう?」
「ちぇー、着替えろってことかよぉ」