篠突く雨の音が、止むことなく続く場所。男はずっと、その煩わしい世界にある部屋にぽつんと立ち尽くしていた。それがどれくらいの間か考えることも、抗うように耳を塞ぐことも、この世界を壊してしまおうと暴れることも、とうの昔に止めた。ただ呼吸し、ザアザアと耳鳴りにも似た雨音を聞くだけ。男は、何かを待っているような気がしたが、終ぞその何かを思い出す気配もない。それでも口を動かせば、音にはならずとも誰かの名を呼べたような感覚を覚えた。果たしてそれが誰であるのか、男は全く分からなかったが。
それは一つの契機だった。夢の奥底、記憶の深淵の扉をゆっくりと開いて、ずるずると引き摺り込んで行くような、もう一人の自分の手を躊躇もなしに掴むための。
現代に生を受けるよりもずっと昔の記憶の片鱗と出会うのは、決まって夢の中だった。かつて忠節を誓った主は、いつもそこにいた。そこでしか見えたことはなかった。酷く懐かしい、佐和山の城の一室。政務や戦に必要なものくらいしか存在しない、主の私室。そこでは主も自身も、かつて戦乱の世を駆けた頃そのままの姿で、外でさわさわと柳の葉が揺れる風の音を聞きながら佇んでいた。喧騒と騒音に流れる現代とは比べようもなく静かな空間だが、それでも心地よく馴染み深い場所。共にあり続け、最期のその瞬間に見た走馬灯の中にもあった景色。
当初こそ、懐かしさに涙した。だが、気付いてしまった。気付かずにいれば穏やかな過去の夢と浸れていたのかもしれないが、それは無理な話というもの。直ぐに分かる、分かってしまう程、主の傍に居続けたのだから。だが、それに言及しようとする度に、夢から追い出される感覚がして目覚めてしまうのだ。まるで、主が、夢の世界が、それを拒むように。
夢の中の主はいつだって、こちらを見ることも、名を呼ぶこともしなかった。
主はずっと、外を眺めていた。そして唐突に誰かとの思い出をぽつりぽつりと語り出す。それは自軍の誰かであったり、敵対していた軍の誰かであったりと様々で、規則性などない。記憶の残滓を目につく限り拾い上げていくかのような取り留めのない話。誰かに語りかけるでもない、一人語りだ。違和を口にしようとしなければ、主の言葉が途切れる瞬間には夢から醒める。つい先日まで、不規則にそんな夢を見続けていた。
「三成、様」
目を覚まし、主の名を呼べども、現代において出会うことはない。忠節を誓ったその日から変えた名を引き継いだことも、あの穏やかな過去の夢を見ることも、意味があるのではないかと薄々感付いていたが、それでも何も変わらない、変えられない事実は、如何ともし難い痛みをもたらしてくる。
「ねえ三成様、あんたが夢で言ってた奴らはちゃんとこっちにいるんですよ」
呟けど、喧騒に溢れた現代では相手に届くこともない。寂寥は未だ埋まらず、それでも時は続いているだけだ。
佐和山城の私室でただ一人、佇んでいた。外はざあざあと篠突く雨が続いていて、このまま止まぬようでは領内の水害が懸念される。だがその警戒指示ももう出した。いつ止むとも知れず、厚い雲は途切れる気配もない。耳鳴りにも似た雨音は、もう頭蓋の奥底まで染み込んでいるような気さえする。それで良いのだと何かが囁き、そっと耳を塞ぐ。それでも雨音はざあざあと続いて、子守唄のように優しく包んでいった。
格子の付いた窓の先には、柳の葉が雨水に押されて揺れる。記憶の奥底で見たものと、とても良く似ていた。何処までも雨は降り続いているらしいと結論付けたが、硝子に隔てられたこの場所にも、はっきりと雨音が響いてきている。それだけならば、じっと身を委ねても良かったのだが、時折厄介がやって来る。絶望はいつもこの音から始まったのだと、幾度目か数えるのも億劫になる、記憶の奥底からの呼び声。聞きたくないと耳を塞げど、雨音と共に這うような低い唸り声は逃避を許してはくれなかった。奥底から伸びる手が視界を覆うと、いつも胸を裂かれるような痛みが襲い来る。
随分と久しぶりに訪れた佐和山城の在りし日の姿。そこにはやはり、主の姿があった。一つだけ違ったのは、外は曇天、厚く暗い雲は簡単には晴れそうもない。今までは穏やかな天気だったが、夢の中とはいえ変わるものなのか、とぼんやりと考えていた。天気、良くないですねと声をかけようかとも思ったが、それすらも拒むように目を覚ましてしまったらと考えると、言葉など浮かばない。主が口を開くまで、ただ黙して待つばかりしか出来ない己がもどかしい。
その日、主が口にしたのは、主のかつての友についてだった。
互いに友だと思っていた頃の記憶を拾い上げたのか、主は酷く穏やかな声音でその名を呼んだ。そこには、己の知らない主の記憶だけがぽつぽつと落とされていく。共に出陣し、競うように先鋒をこなしたこと。茶会での作法の違いを徹底的に叩き直したこと。雑務の合間を見計らうように私室を訪ね来たこと。連鎖的に残滓が浮かぶのか、その日の主は特に饒舌だった。視線は相も変わらず鈍色の天へと向いたまま、時折口許が僅かに綻ぶのだけは、目に焼き付く。
もう過ぎたことだ、あれから随分長い時間が経ったと、叫びたくなる。それと同時に、こうして穏やかに語る程に主が内側へと招き入れた男に対する苛立ちが浮かんでくる。主はこんなにも信頼していた。なのにあっさりと主の側を離れていった、傷付けた男に。男も主を友だと思っていたのだろうが、その感情さえも欺くように離れていったのだ。その痛みを主が再び拾い上げてしまったならば、この城から見える空は泣き出してしまうような気がした。間の抜けたような政務や軍務をする時は、らしくもなく落ち込んでいるのだ。主が男についてそこまで語りが進んだ時点で、現代では感じなくなって久しい雨の予兆を示す匂いが鼻腔をくすぐる。それ以上は聞きたくない、主をまた傷付けたくはないという思いと同時に、好奇心とでも言うべきか、主と男についての話をもっと聞きたいという感情が絡み付く。
「三成様、それは」
結局、主の語りを止めようと口を開いたが、やはりこの場所はそれを拒む。肝心な部分など言わぬうちに、まるで突風に体を押されたように、景色は遠ざかっていった。その風は、勢いに反して何故か優しさを感じさせながら。
アラームの音が耳に届いた。今日は休日のはずじゃ、と枕元を探り元凶を見てみれば、解除し忘れたままだっただけのようだ。決して早くもないが二度寝を決め込もうかとも考えるも、夢の中の出来事を思い出して止めた。これ以上、主があの男に関する話をしている姿など見たくもない。自分の知らない二人の話には、今ならば興味があるのだが、記憶を掬い上げるようにかつての話をしている主が、また男の裏切りを拾い、傷付く姿だけは、見たくなかった。
身形を整え、朝食について考えていると、呼鈴が鳴る。今日は約束も何もないはずだったが、ひとまず玄関へと向かった。
「先日、隣に越してきた者です」
玄関先にいたのは、夢の中で主が語っていた男だった。確かに今までだって、夢の中で主が名を出した者とはこちらで再会している。しかし、それでも夢を見たすぐ後になど今までにない早さだ。いつもは早くても数日、数週間の後がせいぜいで、だから全く心の準備は出来ていなかった。思わずチェーンを外し、玄関扉をがばっと開く。我ながら無用心な行いだと思うが、それでも彼には問いたかったのだ。勢い良く開いた玄関扉に、男は目を丸くした。それからこちらを見ると、さらに溢れんばかりに目を見開いた。その反応に、男にもかつての記憶があるのだと確信した。
「お前は……!」
「あんた、三成様と会ったことは!?」
あまりにも唐突で不躾な行動だったが、こちらの問いかけの意図を察してくれたらしい。男は哀しげに目を伏せると、首を左右に振った。夢でしか会わぬ主は、かつての友の前にさえ姿を見せていないらしい。これから少し話をしないか、と男が言うものだから、じゃあ上がってとだけ返した。
雨脚はさらに激しさを増していた。このまま一面を水浸しにしてしまうのではないかと思う程に。いつの頃からかは忘れてしまったが、いつも雨が降っている気がする。もう何年も何年も。晴れ間を見たことも終ぞない。光を湛えたものも皆、ここを離れていった。光を湛えたもの、それは何だったか。自問して手を伸ばそうとすると、記憶の深淵に押し留められる。それでももがくように手を動かせば、深淵は気泡となってぱちんぱちんと弾けていく。その音は段々と、屋根から落ちる滴のそれへと姿を変えていった。
滴の落ちる音を雨音の合間に聞きながら、ふと瞬きをした間に頭蓋に流れ込む奔流は、果たしてどれが正しいものなのか分からなくなる。そもそもそれが現実だったのかさえも。穏やかな光、痛烈な光、喪失の影、絶望の深い闇、様々なものが駆け巡っては消えていく。その瞬間に感じる寂寥は、きっと孤独というものなのだと思う。今、雨音の続くこの場所で、己は確かに孤独なのだから。
男と話をしたが、主の所在の手掛かりになりそうな情報はなかった。夢に出ていなくとも現代にいる者はいるらしいのだが、主と関係の深い者は今のところ目の前の男しか見付からない。そして何よりも、彼は夢で主と見えたことはないらしいし、過去を夢に見ることもないのだと言う。あの佐和山の夢はただの偶然なのかとも考えたが、夢で主の語った男との記憶を伝えれば相違はなかったらしくいたく驚いていた。自分の知り得ない記憶を夢に見ると言うのは、あり得そうもない。
主をもっとしっかり探そうにも、学業を優先させなければならない身ではたかが知れている。ましてや過去の記憶でのみの繋がりなど、不審に思われてしまうだろう。男は仕事の都合で引っ越してきたらしく、それとなく探してみるよと協力的な言葉を貰った。素直に喜ぶべきなのだろうが、かつての記憶が勝手に警鐘を鳴らすものだから、複雑だった。
「仕方がないさ。ワシもそのせいで困ることがたくさんある」
きっとあの時代でなければ、主も男も、そして自分や主の右も、関係が変わるのだろうと思わせる笑みだった。連絡先を交換し、自分の持つ連絡先にまた一人、かつての記憶にある、記憶を持つ者との繋がりが増えた。肝心の人たちとの繋がりは、まだない。
こうして日を置かずに夢で佐和山を訪れるのは初めてだった。己が無意識にでも望んでいたのか、それとも主が、夢が呼んでいたのか。思うようにはいかないことばかりで、歯痒い。外は雨がしとしとと降り、じめじめとして己を引き摺り込んでしまいそうな程に陰鬱だ。それでも主は同じように佇み、じっと外を眺めていた。一体いつになれば、主はこちらを向き、名を呼ぶのだろうか。ふと、佐和山の城に、過去に、主は縛られているのではないかと思った。誰よりも真っ直ぐに忠節を誓い、疑うことも迷うこともなく進んでいた主だからこそ、過去の記憶に雁字搦めになっているのではないかと。
主は、そんな己の考えを悟ったわけではないだろうが、彼の尊敬する人とその唯一無二の友について口にした。
天気とは裏腹に、主の語り口は輝きに彩られていた。主にとって、誰よりも上にある存在。世に響いた恐ろしさなど無かったかのように、主が語るその記憶は栄華を誇る穏やかなものばかりだ。力強く世を牽引せんとした、覇王。そして知を駆使しその手助けをした右腕。主は覇王の左腕だった。その力強い導きが、あの頃の主を作り上げたといっても過言ではない。尊崇、盲信、様々に主を評する言葉を耳にしたこともあるが、彼自身はそんなものに興味を示さなかった。欲したのは、ただ覇王の力となること、それだけ。見返りなど求めぬ無欲な欲を持った人だ。
鬱陶しい雨音など打ち消すほど、主は一際活き活きと終わらぬ語りを続けている。陶酔の視線の先には、きっとあの二人の背が並んでいるのだろう。自分はそんな主の背を長いこと見つめていた。早く隣に、主の左に並び立つために。そうして勝ち得た場所は、今はもうない。主の視線の先に居るであろう二人も、覇王と右腕としての存在は、もうない。こうして夢で語られているのだから、きっと新しく現代で生きているのだろうが、主の語る二人はいない。もう、何もかもが終わり、礎となっている。主の肩を掴み、恥も外聞もかなぐり捨て、頼むから気付いてくれよと泣き叫びたかった。
降り続く雨は、止みそうもない。沈鬱な感情に呼応するように、静かにしとしとと大地を濡らしている。主は尚も、覇王とその右腕についてうっとりと語り続けていた。
雨は止むことがあるのだろうか。ざあざあと耳に響く雨音は、何処に居ようとも絶えることはない。横たわる身が外を見ることを許さずとも、耳にははっきりと雨音が聞こえてくるのだ。ここのところ、とても大きな喪失感が胸を襲う。自分は何かを失ったのだろうか、足元からぼろぼろと瓦解していく程の大きな何かを。ぽっかりと開いた穴の奥底からは、やはり記憶の深淵から這い出す手が伸びてくる。この穴も、記憶の深淵で生み出されたもなのだろう。深く、さらに深くの、他の誰も届くことのない、凝った濃く粘つく闇の沈殿する場所で。
神々しく輝く絶対的な光すらも届かない、ただ雨音だけがひっきりなしに響くだけの、自身が触れることすら拒絶してしまいそうな深淵の底。不穏がもたらす肌寒さに逃げ出してしまいたくなる。根幹から揺さぶられて、自身すら全て脆くも崩れてしまう予感がした。それでも、伸びた手は優しく、そして無慈悲にもその奥底へと引き摺り込むのだ。もう二度と、目を背けることなど許さないとでも言いたげに。
覇王とその右腕を語る主の夢を見てから一週間が経った頃、隣人から当の二人を見付けたとメールがあった。ただ、やはりというべきか、主とは会っていないのだと言う。そして、主の右とも呼ばれた人とも。焦燥か苛立ちか、どうにも見付からず手掛かりすらもない現状に歯軋りをしながら、心の何処かであの夢を頼るばかりで、己の記憶とは殆どと言っていい程に向き合ったことがないのだと気付いた。ただ、脳裏にこびり付くはっきりとした記憶ではなく、深い場所に沈められたぼやりと朧気な記憶と。
終焉はきっとそこにある。主と、その右、そして左の己が迎えた、かつての終わりが。見たくないものだと仕舞い込んでしまったかのように、ただ死という感覚だけははっきりと抱えていたが、それが果たしてどのような状況にあったことなのか、考えたこともなかった。それと向き合えば、もしかしたら主は自分を見てくれるのだろうか。宛ても確証も何一つなかったが、何もせずただ主の語りを待つばかりの己が情けなく、現実でさえ受動的にならざるを得ないのだ。だからこそ、きっと自身と向き合うことで、何かを掴みたかった。
賭けだ。懐かしいその響きは、自身のかつての記憶を震えさせた。歓喜にも似た衝動。かつても、そして今も、主の為に己を張るのだ。
「島左近、入ります」
瞼を閉じる直前、かつてのようにそう口にすれば、視線の先には戦場の景色が広がったような気がした。
そこは佐和山城ではなかった。勝利を求め、雄叫びを上げながら敵へ向けて進軍していく人々。地鳴りにも似た、彼らや馬、兵器の動く音。懐かしさすら感じる、血や砂埃に満ちた、そこは正に戦場のど真ん中だった。ただ今までの夢と違うのは、人々に己の姿は見えていないということ、己の姿は現代での衣服であることだ。甲冑を纏い、刀や槍を持つ人々が己の身をすり抜けていく様は、少し滑稽に思える。
そしてこの戦場には、きっと三人が揃っているのだろう。藤色に染められ、大一大万大吉を黒々と示した幟が掲げられている。敵対は、と視線を巡らせているうちに、勇ましく鼓舞するかのような法螺貝の音が大気を震わせた。それに呼応するかのように一層激しさを増す争いに釣られ、その中心を目掛けて思わず駆け出した。この戦いを己は知っている筈なのに、肝心な部分はどうしても思い出せない。布陣は頭に浮かぶ。だが相手も結末も、靄がかかったかのようだ。
とにかく、ひたすらに兵達の流れに乗るように、駆け抜ける。風が背を押す感覚に、既視感。この風は、佐和山の夢から己を押し出したものと同じだ。
淀んだ奥底に沈んだ己を、いつもの手が抱え上げた。胸に開いた空虚のさらに奥から、不安定に明滅する朧な光が呼んでいるような気がした。果たしてそれが何なのか、誰なのかは分からないが、酷く懐かしい光だ。雨音は相変わらず鳴り止まず、ただひたすら耳許を掠める。当たり前に存在する音と、視界に新たに飛び込んできた光。あの絶対的な光や希望の光すらも届かない場所にありながら、己の傍にあるもの。
きっと自分はこれを知っている。
口が動いたが、結局それは何を呼んだのか分からない。また、何かを呼ぶように、口が勝手に動くかと思ったが、吸い込んだのは空気ではなく水に似た闇だった。苦しみにもがけども、手は容赦なく己をこの闇の中へ押し留める。肺腑にまで水が満ちようかとも思う。明滅する光が段々と霞み、雨音もがぼごぼと鳴る水の音に掻き消されていった。
辿り着いたのは、敵の本陣だった。掲げられている紋は、葵。主のかつての友だった男のものだった。本陣の近くにはその身から煙を上げながら尚も立ち上がろうとする戦国最強と呼ばれた彼の腹心がいる。その足元には、主の右と己が倒れている。きっともう事切れるのを待つだけの、屍に似たものでしかない。
そしてその先、本陣の中心には、主とかつての友がいた。主は返り血か己の血かも判断がつかぬほどに紅く染まっている。この光景を見て、漸く自分の記憶に仕舞い込んでしまった後悔が奔流のように身体中を駆けた。
「くそ!これじゃ、俺は何のために!動け、動けよォ!」
霞む視界の先で、主は追い詰められていた。己の体はもう、武器を持つどころか動かすことすら出来ない。死も目前に迫っているのだ、主を助けることも守ることも出来ないまま。大穴、切り札、そんなものを目指してみたがどうだ、結局は捨て札にしかなれなかった。主はこんな無様な己をどう思うのだろうか、主はこんな無慈悲な裏切り同然の行いをどう思うのだろうか、主は何を思って死に行くのだろうか。思考は融解し、脳髄から流れていくようにまとまらない。視界も役立たない。死が、己を襲う。
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