高山地帯の空気よりも湿り気を帯びたようなそれは、セイ・フウレイが初めて体感した村の外の世界だった。彼の夜の深い闇に溶け込むほどの黒髪と同じ色の目に、どんな外の世界を写そうとも無意味なのだろうという諦念を浮かべるその様は、生まれてからまだ六年というには大人びた印象を周囲に与える。今、セイは生まれ故郷の高山地帯のあるエスト地方にいた。ただ、高山に比べれば湿潤で平坦な現在地は、故郷のあった西端ではなく、エスト地方の中心部に広がる平野だ。乾燥し、緑も少なく閉鎖的で閑散とした故郷とは違い、緑地が広がった人の集まる開放的な町。周りの賑やかな声もセイにとっては、何の意味も持たない、言葉ですらない雑音のように聞こえていた。にこやかに通り過ぎる人々が同じ世界の人間には思えず、まるで薄い皮を隔てたものに思える。前を歩く、セイを此処まで連れ出した男すらも。
赤茶色の石を敷き詰めた道を、痩せ細った裸足のままセイは進んでいく。セイと同じ黒髪の人間が多い往来で、先導する男の白金の髪は目立つ。彼の名もセイは聞いた気がしたが、雑音のようで良く分からなかった。ただ、痩せこけた手を優しく包みながら、着いておいで、と言われたことだけは、はっきりと認識していた。だからこうして、この道を歩いている。
男の思惑など、殻の中に閉じ籠ったセイにはどうでも良いことだ。その先で彼に殺されたとしても、売り飛ばされようとも、恐ろしいけれど仕方のないことなのだと。生まれ落ちたその瞬間から、双子の兄を殺した、兄殺しだと疎まれ続けたセイは、自分が大罪人なのだと思い込んでいたのだから。
「此所が今日からお前の住む場所だよ」
道の突き当たりで足を止めた男の声はセイには何を言っているのか理解が出来なかった。ざあざあと雑音が混ざった声がする、とは分かったのだが、その声に一体何か意味が存在するのかどうかは分からない。そもそも男の姿も白金の髪以外だって、セイの目には朧気な人の形をしたものに見えている。彼の世界は酷く矮小で、けれどそれを守るように幾重もの壁で深く遠くに閉ざされていた。
朧気な人の形をしたものが、先へと進む。セイはそれに合わせて、ただ足を動かすだけだ。骨に皮膚が張り付いただけのような足は、ただ着せられていただけの大人用の上衣が半分を隠すだけで、袖は不恰好に肘まで捲り上げた程度。魔のものの力を得た人間たちに村を襲われ、一人だけ逃げ延びたままの姿だ。そのみすぼらしく汚れた姿のセイは、踏み込んだ先の綺麗な木板の建物の中では浮いていた。その建物の美しさすら、セイの目にはただ何となく輝いた場所にしか写らない。
「此処で待っていておくれ」
通された部屋は、革張りの黒いソファーが四角い木製の机を挟み向き合って並んでいた。そこに一人だけ残されたセイは、しばらくじっと立ち尽くしていたのだが、何となく落ち着かなくなって、部屋の隅、窓のある壁とは反対側の壁へと身を寄せるように踞る。それが今までのセイの中の日常だった。あちこちの穴を板で修復しただけの、床もない地面が剥き出しのまま、珍しく雨が降れば雨漏りするような物置小屋の中、明かり取りの窓とは反対側の壁に身を寄せ、じっとしているだけ。食事など数日に一度、食うにも食えぬ野菜の端が少しだけ、毎日与えられたのは砂混じりの水。
兄殺しの大罪人と罵られ、母が生かせと言うから生かしてやっているだけだと言葉を吐かれた。その母の姿を、セイは記憶に残していない。窓から射し込む麗らかな陽光を避けるように身を縮こまらせたセイの脳裏は、いつの間にか村での日常へと引き戻されていた。
「待たせてしまったね」
扉が開き、何か雑音混じりに声が聞こえた、とセイが認識した瞬間、ヒッと喉を引き攣らせたように息を呑み、それ以上後退できるわけでもないのに必死に後ずさろうとし始めた。もはや条件反射のように、怯え、目を見開いて男と、連れ立ってやってきた老齢の男の方を見上げているセイ。はくはくと口を開閉させるも、声は出ない。彼をここへ連れてきた男も、セイの声どころか名も知らなかった。それでも、男はセイをここへ連れてきた理由を持っていたし、痩せ細りほとんど骨と皮だけの体で憔悴しきり、一人さ迷っていた彼を放っては置けなかったのだ。
「よほどの環境に居たのか」
「衣服からしてあのコートウ山脈の集落の子供です。魔のものたちの襲撃を受けたという時期と彼を見つけた時期はほぼ同じです」
「なるほど、あの集落か。……ひとまず彼を、ここへ慣れさせなければね」
男たちの会話は、今のセイにとっては恐ろしいことを話しているように思えている。逃げるべきだとセイの脳は警鐘を鳴らすが、反面で逃げたところでまた捕まりもっと酷い目にあうのだと諦めてもいた。身に覚えのない、顔も知らぬ兄を殺した罪に対する罰なのだろう。それが理不尽なことだとセイは思いもせず、世界の全てがこの罪を知っているのかもしれないとすら考えていた。
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