無窓居室
2023-09-13 22:26:56
4659文字
Public 午餐 その後
 

テーブルフラワー

「午餐 その後」「間食 その他」「ティータイム あるいは湖畔で朝食を」に続く話。次で完結します。


 手元のスマホに何度も目を落とし、日時と時刻を確かめる。待ち合わせ場所のビルの屋上から見下ろす街は、さながら光の谷間だった。聳え立つオフィスやホテルや商業施設の明かりの足下には自動車のヘッドライトが川のように流れ、その淵にも似た周辺には無数の人間が行き来している。
 失望、嫉妬、鬱屈、疾しさ、呵責……有名な犬の像のある広場やスクランブル交差点、坂への道を急ぐ人々の群れは、外界のきらびやかさと反比例するように一人一人が他人に言えない裏側を隠して、あるいは自身でも気付かないまま、素知らぬ顔をしているのだろう。眺めていて飽きることがない。
 彼女にも見せてやりたい眺望だった。きっと人間達が内に抱えるカオスより、それを包む肉の方に関心のある彼女は端から取って食おうとするのだろうが。それを捌きながらお気に入りの焼肉店にでも案内しようと思っていたのに。もちろん人間界で合法な店だ。
 ブラックはもう一度スマホに表示される時刻を見た。そして足元のコンクリートを蹴ると、翼に下界からの明るさを受けながら宙へ舞い上がった。人工の光と大気の汚れに圧されて星もろくに見えないこの街に、空を見上げる人間は多くない。


 きさらぎ駅の森は蒼く静かだった。頼りなく横たわる線路と無人駅一つの他に人の気配の痕跡すらない森の上空では、月も星々も冴え冴えと輝いている。その月明かりを頼りにブラックは待ち合わせの相手を探した。
 かつては偶然に辿り着くことしかできなかった禁断の地も、マスターSから異世界を移動する能力を得たブラックにとっては隣町のようなものだ。今では訪ねることはわけもないし、〝力〟を込めた招待状を送れば相手を自分の居る世界へ呼び寄せることもできる。ブラックのスマホは異界からの着信や各種連絡手段に対応していた。だからこそ、待ち合わせの時間に相手が連絡もなく現れないことが問題になる。

 魔界の支配者ともあろう者が、デートをすっぽかされて相手の棲家にまで押し掛けることになるような、情けない経験ができるとは驚きだった。この調子で苦杯と呼ばれるものの味をもっと知りたいと思う。恋という、初めての遊び場に足を踏み入れた興奮がブラックを驕りの極地へ導いていた。
 アカネの、燃えるような激しい気性と打つものを焼き尽くす拳の威力に反して、常に冷たい瞳と声が脳裏に浮かんで消えることがない。優雅な物腰の奥に黒い炎を秘め、常に好奇心とそれを満たす快楽に我が身を炙らせているブラックとは逆に、彼女の内は久遠の氷だった。
 だからブラックはより大胆に、より極端に、恋する男の愚かしさを体現するのだ。相手がデートに一時間遅れただけで、自分は捨てられたかもしれないと燃え立ってしまうくらいでなければ彼女と溶け合うことはできない。捨てるもなにも言質の一つも取れていない関係だとしても、だ。

 この形態模写には、撮影仲間の人間の小学生の行動が実に参考になった。さとしの同級生の女の子に対する恋心には、まるで道化がその芸のために命を捨てるようなところがある。他人のためにあそこまで阿呆になれるというのは、一種の精神的な自殺行為だ。自死を少しも悲劇的でなく、徹底的に滑稽に成し遂げる卓越した才能。
 やってやろう、と思う。この模写を本物と少しも変わりなく成し遂げられたとき、自分と彼女のどんな裏側が見られるのか、楽しみで仕方がない。


 伊佐貫トンネルに穿たれた山の、ちょうど頂上付近に差し掛かったとき、斜面に赤い影を見つけた。たったそれだけのことが浮かれているブラックには運命のように思えた。
 音もなく離れた場所へ降り立つ。アカネは山の斜面に立ち尽くして夜空を見上げていた。その様子はブラックよりよほど切実に何かを待っているように見える。自分を待っていたのなら良いと、ブラックはあり得ないことを夢想した。

「アカネさん」

 背後から声を掛ける。少しくらい驚くと思っていた相手は少しも動じず振り向いた。

「来たのか」
「アナタが来てくれないので」
「うん」

 アカネの口調には鋭さが無く、辛辣な言葉を予想していたブラックは拍子抜けする。どんな冷淡な台詞でも今の自分なら甘く飲み干せるのにと少し残念に思った。
 アカネの力強いがいつもどこか怠そうな冷めた目つきが、緩く首を絞めるようにブラックを捉える。絞扼のイメージによる眩暈と陶酔感をわざと混同して満足した。ニタニタと笑うブラックをアカネは特に見咎めない。この男の得体の知れない反応はいつもの事だとでも思っているのだろう。

「何を待ってたんです?」

 オレちゃんを待たせて、と言外に含める。わざと遅れて気を引くような陳腐な駆け引きでもしてくれるというなら、ブラックるも全力で受けて立つのだが。

「お前に会いに行くかどうか自分が決めるのを」

 アカネの口調は無垢だった。ほとんど莫迦のような物言いだ。人間と違って知恵の実を食べたことのない種族なだけある。
 己の恥部を隠し罪から逃れようと足掻き続ける人間達の愛おしさと、ただ鬼であるから人を食い力を振るうアカネとの、何という違いだろう。違っていながらたとえばさとしの阿呆ぶりとアカネの莫迦さ加減とは、なぜか符合をもってブラックに奇体な感動を与えるのだ。それは悪魔には到底踏み込めない領域だ。きっと、本物の恋の力を借りたとしても。

「自分で自分の考えることが分からないなんて、変だろ?こんな事は初めてだ。笑ったらいい」

 あっさりと言うアカネは、自分が何者かなどと考えない。人生の選択にも関心がない。何のために生きるかなど求めない。手下の鬼達の統率は取っても、他人からどう見られるかには興味が無いだろう。他人を必要とすることも、他人に求められようとすることもない。
 だから彼女の幸せは食欲を満たしたり闘争本能を解放するような、潔癖なほどに本能的なことばかりだった。天使から悪魔へ堕天したブラックとも違い、アカネは生まれながらの、そしておそらく不変の鬼だ。
 善と理性を信じていた天使Bが自由と混沌に耽溺した結果の姿である自分の前で、アカネがあまりに生まれ持った役割に忠実なので、ブラックは嫉妬に近いものを抱いた。生まれながらの運命から彼女を引き離してやりたくなった。アカネに禁断の果実の味を教えるのは自分だと思った。
 人喰いの本能を封じ、暴力を自分だけに向けさせ、女としての肉体を暴いて、その裸の身を恥じるようになるまで蹂躙してやるつもりだった。アカネがブラックに無花果の葉の役割を求めるまで。〝己〟というものが存在する限り消えない寄る辺なさから逃れるために縋りついてくるまで──。


「それは?」

 洒脱な会話としては沈黙が長くなり過ぎた。笑えと言われたのでブラックは真顔になって、アカネの手の中にある一輪の白い花を視線で指す。アカネはさもつまらないものを見せるように親指と中指で花の茎を摘んで寄越した。

「そのへんの草だよ。珍しくもない。でもお前はこういうの好きかと思って」

 花は小さな星を集めて丸めたような形状をしていて、星空の下で見るとなおさら趣があった。ちょうどその光に透かすように眺めてから、ブラックはアカネに向き直る。

「もしかして、デートに持って来るプレゼントに悩んでくれていたり?」

 冗談めかした探りの文句に、アカネは意外にも素直に肩を竦めた。

「昔から肉の匂い消しや食あたりを防ぐのにも使う草だ。お前よく変な肉を食ってるから腹を壊さないようにこの辺りの獣を仕留めて持って行こうかとも思ったけど、そこらの動物じゃお前は喜ばなさそうだから」
「とんだ悪食扱いですね。オレちゃんアナタに貰える物なら何でも嬉しいですよ」
「一番困るやつだな」
「それは確かに」

 道理で来る途中の山の斜面に熊や猪が倒れていたはずだと納得する。獲物をそのまま差し出せば原始的な求愛の仕草にもなっただろうに、それを躊躇って花を一輪きり抱えていた想い人──ブラックは既にそう決めていた──の姿は甚く心をそそった。都心の高層ビルのてっぺんへ熊や猪を抱えてやって来る相手の姿も、それはそれで見ものだったろうが。

 気取って花の香りを嗅ぐ真似をする。肉の匂い消しに使われるというだけあって強い匂いが鼻を突き、思わず顔を顰めた。

「何やってるんだ」
「おや、やっと笑いましたね」

 苦笑したアカネを見て、あくまで意図的な演出だったように装う。それを知ってか知らずかアカネは笑い続けた。口元から覗く牙も、尖った爪も、月と星明かりに照らされるままにして、少しの屈託も無い。

「お前はどうかしてる。わたしに戦い以外の何の面白味がある」
「アカネさんはそう思います?このオレちゃんに正常な判断力がないと?恋に盲目になっていると?」
「そうは言ってない」
「カーッカッカッカ!!面白いひとですね!だからやめられないんです!」

 相手がうんざりしているのでブラックはますます図に乗った。アカネの魂を陵辱したいという欲望がブラックの恐れと裏腹でないと誰が言えるだろう。今やブラックに天使Bの面影がほとんど無いように、悪魔としてのブラックの本質も明日変わってしまわないとも限らない。悪魔を殺すのは銀の十字架でも聖水と棕櫚の葉でもなく、白痴の聖人の如き阿呆な人間、もしくは無原罪の鬼の娘の爪の一掻きかもしれない。

「この時間からだと店には間に合わないでしょうから、せっかくアカネさんが用意して下さった肉でオレちゃんが何か作りましょう」
「血抜きが中途半端だから熊は匂うかもなさっきの草が群生してるところがある。先に寄るか?」
「なるほど、香辛料は肉料理に欠かせませんからね。それに匂いは別として、あの花に囲まれているアカネさんはとても美しいでしょうし」
「大丈夫かお前」

 スマホから夕食を取るはずだった店の予約のキャンセルを手続きすると、連れ立って山道を歩き始める。目的よりも過程を楽しみつつある自分をブラックは理解していた。
 試しに作ってみた恋をするための心臓に本物の血が流れ込み、そこに鬼の爪が、思っていたよりも近く迫っているようだ。取り返しのつかない事をしようとしている。どちらにとっても。だからこそやめる気にならない。

 ふと、ブラックが足を止めた。先ほどの会話で彼の正気を怪しんでいたアカネが怪訝そうに振り返る。

「どうした?」
「キスしませんか」
「何だ急に」
「した事がなかったなと思って」

 アカネは不安を通り越して白けたような顔をしたが、背を向けることはなかった。

「今じゃなきゃ駄目なのか」
「星が綺麗なので。それに、夕食にさっきの草を入れるなら食前の方が良いかなと思ったんですよね」
「あぁ……

 納得してしまえばアカネは思い切りが良い。目を閉じ、頤を少し上向かせてブラックを待つ。
 「さっさとしろ」という声が聞こえてきそうだが、それも可愛らしいと思いながらブラックはアカネに渡されたままの花を服の中へ仕舞った。そこでは花は萎れずにいつまでも生きていられる。懐の内にも頭上にも星がある。
 木々の葉がレースのように縁取る夜空の下で、二人の影が重なった。魔界で最強の悪魔ときさらぎ駅の鬼のリーダーとの、冒険の始まりはそんなささやかな触れ合いだった。


 2023/08/26