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吾妻
2023-07-05 16:10:23
10745文字
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アークナイツ
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Keep moving forward
女博。俺設定あり。テキーラくんの秘録関連の話です。秘録の内容を踏まえています。
耳の奥で波の音が鳴っている。
寄せては返す漣と、洋上を渡る風。
そして、砂浜で上がる高らかな笑い声。
戦乱の只中で毒々しく咲き誇る偽りの海を遠く離れ、雨の一滴さえ碌に降らない荒野に辿り着いても、なお。
服の裾を掴んで引き留めるように鳴る音は。
一体、どこから聞こえてくるのだろう?
*
ロドス本艦へ足を踏み入れた瞬間、テキーラは唐突に、自分の体が鉛のように重くなったのを感じた。
長期休暇で本艦を離れていた彼を見つけ、顔馴染みのスタッフやオペレーターたちが親しげに挨拶を寄越す。再会を喜ぶ声や、土産をねだる声に応えながら、ここまで見て見ぬふりをしてきた疲労が、最早抑えきれないほど膨れ上がっていることに気がついた。
休暇をもらっておきながら疲れ果てて帰ってくるなんて、社会人失格だな、などと思いながら、いつもどおりに愛想の良い笑顔を浮かべる。
どんなときも人好きのする顔で笑える。そんなしょうもない特技が、今日ばかりはありがたかった。
ここに、あの徒労感を持ち込みたくはない。少なくとも、誰かに気取られたくはなかった。
いつものように笑っていれば、そのうち波音の残響も消えるだろう。先人たちの身に余る期待も、結局知ることのできなかった花の名も、あるボリバル人の死も、顔に出すことなく胸に仕舞い込めるはずだ。
この痛みは、自分で抱えるべきものだ。誰とも分け合う気にはなれなかった。
それでも、この場所に一歩踏み入れただけで、疲れを抑えきれなくなるとは思わなかった。もっとうまく自分を騙せるつもりだった。
(どれだけ気を抜いてるんだか
……
)
行く先を見定めるまでの仮宿として選んだはずの艦に。口元に知らず、自嘲が浮かんだ。
「あっ、テキーラさん!」
向き合うスタッフの向こう側から、あどけなさを残す少女の声が聞こえた。
氷を飲み込んだ心地がした。声の主が誰かはすぐに見当がついたが、久々に顔を合わせるがゆえの気恥ずかしさとは別に、奇妙な居た堪れなさに襲われた。
声の主に
――
というよりは、共にいるかもしれない人物に、だ。
やがて、ぴんと立った耳が見え、軽やかな足音が小柄なコータスの少女を連れてきた。
「お久しぶりです。休暇はいかがでしたか?」
しっかりと背筋を伸ばし、ロドス・アイランド製薬の若きCEOがテキーラの前に立った。
おそらく会議室への移動中なのだろう。細腕にぎっしり書類の詰まったファイルを抱え、アーミヤは記憶と寸分違わない、どこか儚げな笑顔を浮かべる。
「おかげさまで充実した休暇になったよ。お土産もあるから、あとで持っていくね」
「お気遣い頂いてすみません。明日からまた、よろしくお願いします。
――
ね、ドクター」
アーミヤが、自身の歩いてきた廊下を振り返る。
少女の言葉に、ぎくりと体が強張った。腹の底から冷え冷えとした居心地の悪さが広がってゆく。
あんなに会いたかったはずなのに。急に文字通り尻尾を巻いて逃げ出したくなってしまった。
ゆったりとした足取りで歩み寄ってきた防護服姿の人物が、アーミヤに並んだ。
頭をすっぽりと覆うフェイスガードにフードまで被った、どこからどう見ても不審人物の戦術指揮官は、普段通りジャケットのポケットに両手を突っ込んだ姿勢のまま、
「おかえり」
と、マスク越しのくぐもった声をよこした。
「ただいま、ドクター」
精一杯愛想の良い笑顔を浮かべ、上機嫌に返事をする。
再会が嬉しくないわけじゃない。
何故ならテキーラは、この明らかな不審人物を誰よりも慕っている。
上司として、戦術家として。なにより、想い人として。
それでも、顔を合わせるのを気まずいと思ってしまったのは、疲れ果てた自分の姿を見られたくなかったからだ。
(だって、この人には
――
)
隠し事ができた試しがない。
決して短くはない年月をかけて培った笑顔の仮面も役に立たない。
この瞬間も、うまく笑えているか自信がない。バイザーの奥にあるレンズのような目には、今の自分はどんなふうに映っているのだろう?
「あっ、もうこんな時間ですね。ドクター、早く会議室へ行かないと、ケルシー先生に叱られてしまいますよ」
自身の端末で時間を確認したアーミヤが、傍らのドクターを見上げて急かす。
「昨日の今日でまた睨まれるのは嫌だな」
不摂生を咎められたのか、無茶を叱られたのか。どうやらドクターは医療部門のトップに前日にもお小言を食らっていたらしい。ロドスでは日常茶飯事の光景が目に浮かんで、ようやく〝戻ってきた〟のだと実感が湧いてきた。
「そうですね、急ぎましょうか。テキーラさん、私たちはこれで」
丁寧に頭を下げるCEOに「じゃあまた」と笑顔を返して、テキーラはロドスの2トップとすれ違った。
彼女たちのお陰で他のスタッフたちとの会話も途切れ、礼を失しないタイミングで部屋に引き揚げられそうでありがたかった。
ドクターともあまり長く向き合わずに済んだ。次に会う時までは、もう少しまともな精神状態に戻しておかねばならない。あまりに多くのものを背負っている人だから、要らぬ心配をかけたくない。
人の輪から離れ、休暇のためにしばらく離れていた私室へと足を向ける。
うまく取り繕えただろうか、と人知れず吐息をついたところで、ポケットの中で個人端末が震えた。
端末を確認するより先に、確信に限りなく近い予感が来た。それに伴って、口元に自然と苦笑が上がってきた。
(やっぱり、ダメだったかぁ)
あの人の目を誤魔化すなんて、土台無理な話だった。
引っ張り出した端末の画面には、新規のメッセージが一件。
――
夜、気が向いたら部屋に来て。
〝恋人〟からの呼び出しなんて、本来ならば浮足立つ予定のはずが。
正直に言えば、少し困ってしまった。
まだうまく笑えもしないのに。
あの人に会って、一体何を話せばいいんだろうか。
*
疲労や体調不良を理由に、誘いを断ることもできた。
けれど、テキーラは結局、夜半過ぎにドクターの私室を訪ねた。ここで尻尾を巻いて逃げ出してしまったら、二度とまともに彼女と向き合えない気がした。
来訪を告げると「開いてるよ」と促される。
ドアを開ければ、防護服とマスクを取っ払って、幾分無防備な部屋着姿のドクターが、ベッドに腰掛けて書類と見つめあっていた。
テキーラが数歩部屋に踏み込むと、ドクターは書類をベッドサイドのテーブルに置き、立ち上がる。
「ドクター、ただいま。こんな時間に呼び出しなんて、そんなに俺に会いたかった?」
歩み寄ってくる恋人に向かって、テキーラは両腕を広げた。ハグを再会の挨拶代わりにしようと思った。心身ともに疲労困憊の情けない姿を見せたくないという本音はあれど、再会自体はやはり嬉しいのだ。
それに、彼女をこの腕に抱き締められたら、全身にまとわりついて離れない気だるさも、少しはマシになるかもしれないと思った。海の名残を忘れられぬ体に、ぬくもりを分けて欲しかった。
だが、目の前まで歩み寄ってきたドクターは、男の腕に身を委ねはせず、逆にテキーラの片腕を掴んでぐいと引いた。
決して広くはない室内をベッドの方へ引きずられながら、テキーラは喉元まで出かかった「ちょっと大胆すぎない?」という冗談を口に出せずに飲み込んだ。
彼女はきっと、情事に及ぶためにこの手を取ったのではない。確証はないが、そんな気がした。
やがて、ベッドまで導かれたテキーラは、上司兼恋人の「座って」という声に促されて、ベッドのへりに腰を下ろす。
女の手が、被りっぱなしだったパーカーのフードを下ろし、耳と額の間に差し込んだサングラスを抜き取る。そして、されるがままになっているテキーラの髪に細い指先を差し込んで
――
梳くように、撫でた。
手つきは優しかった。
ふわふわとした髪を、なめらかな毛並みの耳を。ドクターの指が頭の形に沿って撫でていく。
言葉一つないのに、その指先に労りが込められているのが痛いほど伝わってきて、テキーラは自然と口元を綻ばせた。
「
……
慰めてくれてるの?」
一撫でされるごとに、体から強張りが抜けていく。虚勢が剥がれ落ち、隠そうと躍起になっていた心の柔らかい部分が剥き出しになる。
限りなく無防備な状態なのに、不思議と不安は感じなかった。
「慰め方なんて知らないから、これで合ってるか、私にはわからないけど
……
」
少しだけ困ったような顔で笑って、女はもう一度、テキーラの頭を頭頂部から後頭部に向かってゆっくりと撫でる。
「そんなに酷い顔してた?」
「それなりにね」
彼女の手も、声も、穏やかで温かい。あまりに心地良くて、気づけば目を細めていた。
里帰りをしてからというもの、心に刺さって抜けない棘があった。
懐かしい痛みだった。ドッソレスで暮らしていた頃は、毎日のように味わっていた類の。
享楽の楽園が放つギラギラとした輝きに目を奪われているうちに、いつの間にか、あちこち引っ掛けて傷を作ってしまうような。
快楽と同量の絶望と諦念が、あの街の至る所に根を張り、流された血と飽くなき欲望を吸い上げ、棘の生えた蔓を伸ばしていた。
いつだって、その棘にどこかを掠って、傷ついている。堪えきれないほどではない痛みが、じわじわと存在を主張してくる。
幸福と不幸は、決して切り離せないのだと。少なくともこの街では、背中合わせのようなものなのだと、突きつける。
久しぶりに真新しい傷を作って、正直もっと嫌な気分になるかと思っていた。
欲望の坩堝を離れ、社交辞令や酒がもたらす酩酊とも疎遠になって、自分も少しくらいは変わったのではないかと考えていた。
だが、違った。
何も。何ひとつ。変わってなどいなかった。
エルネスト・サラスは、あの街に、あの国に、相変わらず憤ることができた。不条理に腹を立て、争いが生む犠牲を嘆き、停滞する偽りの海に懐かしさと遣る瀬なさを感じた。
諦めることなど、とてもできそうになかった。
(俺は結局どこまで行っても、ボリバルの人間なんだ)
耳元で繰り返す波音がどこから聞こえてくるのか、本当はもう気づいていた。
あの音は、この体の内側で鳴っている。
血潮のように。
きっと生きている限り、鳴り止むことはないだろう。
「
……
何があったか、聞かないの?」
額を撫でた掌に、甘えるように鼻先を擦り寄せて、問い掛ける。
「君が話したいなら聞くけど」
「
……
俺は多分、いつかボリバルに帰るんだろうなって思ってさ」
里帰り中に起きた出来事を仔細に話そうか、一瞬だけ考えて、結局やめた。
何もかも曝け出したところで、この胸の痛みや徒労感まで共有できるわけじゃない。
だから、端的に、今この心を占めている事柄を伝えることにした。
「君は元々そのために、ロドスに入職したんだろう?」
「それはそうだけど
……
」
大して驚く素振りも見せず、さも当然のようにドクターが返してきたので、ほんの少しだけ、胸の内側がひやりと冷えた。
確かに彼女のいう通りだ。テキーラは初めから、ロドスに骨を埋めるつもりなどなかった。食い扶持と社会勉強のために選んだ職場だった。
けれど、今となっては“それだけ”ではないのだ。
彼女との関係も、最初こそなし崩しに、半ば事故のようにもつれ込んだものではあったが、一時の気の迷いや遊びのつもりはない。
心の底から恋焦がれて、息も出来ぬほど溺れている。
だからこそテキーラは、自分の変わらぬ
――
変えられぬ信念を、厄介だと思う。
彼女の傍を離れたくないと願う気持ちに偽りはない。いずれやってくるであろう別れを思って、少しくらい寂しがったり、引き留めてくれたっていいのに、と拗ねたい気持ちも本物だ。
だが、それ以上に。
時が来れば、自分はきっと、あの国と向き合わずにはいられなくなるだろうと、確信もしていた。
たとえ、何を引き換えにしても、故国に背を向けて逃れることなど、きっとできはしないのだろうと。
思いを馳せるほど痛みを与えてくる故郷なんて、いっそのこと忘れてしまえたら。完全に無関係になって、新たな人生を送れるなら、どんなに幸福だろう?
だが、そんなことはできない。できるはずもない。
たとえ、どれほど遠く離れても、どれほど長い時が経っても。
自分はボリバルの人間なのだ。
今回の休暇で、テキーラはその事実を嫌というほど思い知った。
思い知ったからこそ、後ろめたくもなった。今、こうして慈しむように撫でてくれる恋人の手を、本当に掴むべきだったのか。
要らぬ負担を彼女に強いただけではなかったのか。
「私にとって、君と過ごす時間は他の何物にも代え難いものだよ。それだけは、覚えておいて」
「
……
え?」
テキーラは、思わず伏せていた目を上げた。
真っ直ぐに見下ろしてくる女の瞳は、澄んでいて美しかった。
こんなふうに見上げるのは珍しいから、現実感が薄かった。まるで、夢の中にいるような、奇妙な浮遊感があった。
「でも、それと同じくらい、未来を見つめている君の瞳が好きなんだ。故郷のことをつぶさに見つめて、考え続けている君が好きなんだよ。だから君が、自分で選んだ自分の道を歩むのを、誰かが阻むのは許容できないんだ。たとえそれが、私自身であっても」
頭を撫でていた手が頬に滑り落ち、親指の腹が目元を撫でる。
これまでに彼女から掛けられた中で、最も熱烈な愛の言葉だと思った。
〝遊ばれている〟とか、〝一時の慰めにされている〟なんて、考えたことはない。こちらから差し出す敬意と愛情に、ドクターはきちんと応えてくれていた。けれど、こんなに直接的な〝感情〟を言語化されたのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。
「それに君は、いざ決断したら前に進むことしかできないだろう? 目指す先にどんな嵐が待っていても、どれほど痛い思いをするとわかっていても、きっと飛び込んでいってしまう。
……
それでいいんだ。互いの手を掴んで、戒め合っているだけが、幸福じゃないはずだ」
だから、〝自由に選んでいい〟と、彼女は言うのだ。
いつか、時が来て、未来への選択を迫られたなら。
顧みる必要はないのだと。
それは決して、〝どうでもいい〟からではなくて。
〝愛している〟からなのだと。
両腕を持ち上げて、目の前に立つ恋人の細い腰に絡め、抱き寄せた。薄っぺらい腹部に顔を埋める。
何か言うべきだと思うのに、胸の内でいくつもの感情が入り乱れて、うまく言葉にならない。
傾けてくれる愛情に、礼を言うべきか。
この関係性にもつれ込んだことを一瞬でも後ろめたく思った、己の薄情さを詫びるべきか。
「
……
まぁ、君としばらく会えなくて、寂しかったのも事実ではあるけど」
堂々巡りの感情に翻弄されているうちに、別の爆弾が降ってきて、テキーラはさらに混乱した。
今それを言う? さらに両手でわしゃわしゃと髪を撫でられて、素直に喜びまで湧いてきてしまった。
「俺に会いたいって思ってくれてたの?」
「君は人のことを何だと思ってるんだ」
顔が見たくなって、腹部から頭を持ち上げようとしたら、逆に抱き込まれる形で阻まれてしまった。
「私の伝え方が悪いせいもあるだろうけど、君も大概疑り深いな」
「
……
ごめん」
ドクターもそれなりに気恥ずかしいのか、と思えば悪い気もせず、素直に細腕に身を委ね、もう一度恋人の腹部に顔を埋め直した。
(だって、振り向いてもらえるなんて、思ってもみなかった)
じゃれつくのを許容してもらうくらいが関の山だと思っていた。
共に過ごす時間を喜んで、会えない空白を寂しがってもらえるなんて、そんな都合のいい話、あるはずないと決めつけていた。だから時々、面食らう。
「
……
俺も、ドクターの理想が叶った未来を見てみたいよ。ロドスにいるのは、そのためでもあるんだ」
「君と私の夢がどちらもこの大地を相手にしている以上、全く別の方向を向いているわけじゃないし、触れられる距離にいなければ助け合えないわけでもない。
……
これは別に、離れたいって言ってるわけじゃないから誤解しないように」
「うん、わかってる」
「つまり、そうだな
――
どれほど離れていたとしても、君が助けを必要としていたら、私は君を助けるだろうし、運が向いていないと思ったら、君が私にしてくれたように、幸運を君に届けてあげる。たとえ、君がこの大地のどこにいても」
「ドクター
……
」
「君は知らないかもしれないけど、私はこう見えて悪巧みが得意なほうなんだ」
「
……
知ってるよ」
声が震えそうになるのを、笑い声で何とか誤魔化した。
もし、とんでもない不運に曝されていたら、持てる力の全てを使って、状況をひっくり返してでも幸運を届けたい。
そう願ったのはテキーラが先だった。
かつて彼女に伝えた誓いを、まさかそのまま返してもらえるとは思わなくて、普段はやたらと動く舌が碌に動かなくなってしまった。端的に言えば、感極まってしまって、胸の内で暴れる感情を落とし込む言葉が見つからない。
「それに私は、できるだけ早く隠居できるように働いてるんだ。だから、やるべきことを済ませたら、のんびり自由に過ごせるかもしれないし」
「そんなの、誰も許してくれないでしょ」
彼女ほどの傑物を、周りが放っておくわけがない。
本人が望まずとも、表舞台に引き摺り出されてしまう。それほどの稀有な才能を有している人だから。
それに、彼女が危機に晒されている生命に対して手を差し伸べずにはいられない人間である以上、何もかもを終わらせて隠居なんて、夢のような話に思えた。
「私の能力なんて、必要とされなくなるほうがいいんだよ」
戦術指揮の腕前も、政治的手腕も、必要とされないほうがいい。争い事や駆け引きが日常的に行われない方が、健全に決まっている。
確かに、理想を言えば、そうかもしれない。
だが、もしそんな未来が実現したとして、彼女はどこへ行くのだろうか?
煙のように姿を消して、二度と人々の前に姿を現さなくてもおかしくない。
見失ってしまったら、二度と見ることの叶わない幻。そんな、ある種の儚さを感じて、テキーラは細い腰に回した腕に力を込めた。
「じゃあさ、何もかもが片付いて、ドクターが隠居しようかなって思えたら、その時は、俺と生きてくれる?」
「
……
いつになるかわからないのに? そんな不確かな約束をしてもいいの?」
「それでもいいよ」
「
……
君は物好きだな」
「だめ?」
「いいよ。君にあげる」
「愛してるよ、ドクター。君が、こうして俺のそばにいてくれるときも、たとえどこか遠くに離れたとしても、俺は君を愛してる。ずっと」
頭を撫でる女の手を捕まえて、指を絡めて握った。
その手を引いて、屈ませた恋人の唇に、下方から噛みつくようにくちづけた。
間近に迫った美しい瞳が、一瞬だけ大きく瞠られて、すぐに笑みを含んで細められる。
「大好きだよ」
息継ぎの合間に囁いて、テキーラはもう一度、主人であり恋人でもある女の唇に舌先を這わせた。
***
渇きを覚えて、目を覚ます。
寝台からは、他人の
――
それでいて、やたらと落ち着く匂いがした。
もはや見慣れた〝船室〟は、しかし、しばらく空けていた自室ではない。
熟睡しすぎたせいか、意識が混濁気味で、眠りに落ちる前後の出来事を思い出すまでには、やや長めの間があった。
「目が覚めた?」
ベッドからさほど離れていない位置から声が掛かった。
壁に寄せられた簡易デスクについて、部屋の主はディスプレイと向き合っている。
作り物じみた端正な顔立ちに、黒縁の眼鏡が装着されて、一層怜悧で硬質な雰囲気が漂っていた。
「随分熟睡していたみたいだけど」
「
……
ここしばらく、あんまりよく眠れてなくて」
「寝る前に考え事をしても、憂鬱になるだけだよ」
「そういう研究結果が?」
「いや、私の経験則」
毒にも薬にもならない会話をじゃれつかせながら、テキーラは状況を整理する。
室内はまだ薄暗く、デスクの上では卓上ライトが灯っている。おそらくまだ夜明け前だろう。自分はちゃんと衣類を身につけているし、特有のだるさも感じないから、そういう行為に及んだわけじゃない。
ただ単純に、慰められて、労られて、持て余すほどの情愛と約束を与えられて、寝かしつけられた。それだけのことだ。
「俺はドクターほど、考えることがあるわけじゃないよ」
「君は、目の前の物事に向き合わずにはいられない人間だから」
「
……
」
テキーラは、うつ伏せに寝台に転がって、腕のうちに枕を抱き込みつつ、思案する。
いつかの言葉の残響を、手繰り寄せる。
――
君が、自分で考えて行動できる人間だから。
もう随分昔のように感じる。初めて直接、彼女の指揮を受けた日のことだ。
まだほとんど言葉も交わしていないテキーラに対して、戦術指揮官が下した評価がそれだった。
(きっと、あれが始まりだった)
ロドスに至るまで、テキーラは〝誰かの追随者〟としてのポジションを守っていた。
型破りな市長の右腕として、はたまた、愛国心に燃える父親の腹心として。
ドッソレスの在り方にも、父親のやり方にも、飲み込みきれない苦味はあった。自分なりに、どうするのがベストなのか、散々思考を巡らせはしたけれど、義憤を振りかざして立ち向かうには、先をゆく人々が起こした波が高すぎて、乗り越える技量も、ぶち当たる覚悟もなく、波打ち際で立ち尽くすしかなかった。
結局、できたことと言えば、笑顔と話術で誤魔化しながら、〝抜け道〟を探すことばかりで。
人々はそんなテキーラを見て、〝いかにもドッソレスシティの住民らしい〟生き物だと思っていたことだろう。父親でさえ、息子が享楽的な日常に毒されていると信じ込んでいたくらいだ。
(いや、優柔不断に答えを引き伸ばしていたのは事実か)
抜け道が、自分なりの答えが見つかるまで。息を殺して、身を潜めていただけ。
そうして振る舞ううちに、いつの間にか人畜無害な仮面を被るのに慣れてしまった。波風を立てず、「まあまあ」と円満に物事を収める術ばかりうまくなった。
胸のうちにしまい込んだ停滞への苛立ちを、表に引っ張り出す方法がわからなくなっていた。
『為すべきことを為さないのなら、もうそれは自分ではない』と、あの日、チェンは言った。その言葉は、彼女が振るったどの拳よりも重く、痛烈に、エルネスト・サラスの心を殴りつけた。だからエルネストは、彼女の誘いに乗ってロドスへ赴こうと思えた。
そして、辿り着いたこの艦で出会った〝ドクター〟は、エルネスト
――
テキーラが胸の奥に押し込め続けてきた本性を、あっさり看破してみせたのだ。
目の前の物事に向き合わずにはいられない。何を為すべきか、考えるのをやめられない。
ドクターと出会って、テキーラは、そんな自身の厄介な本質を思い出した。
そしてようやく、とうの昔に見つけていたのに、直視できずにいた〝答え〟に、手を伸ばす覚悟ができたのだ。
「ほら、また考え事をしてる」
ドクターは揶揄うような笑みを浮かべ、顔から眼鏡を抜き取った。それをデスクの上に置き、代わりにミネラルウォーターのボトルを手に取って、テキーラに差し出す。
途端に、喉の渇きを思い出した。本当に何でもお見通しだな、などと頭の片隅で考えながら、礼を言って受け取る。
「
……
もしかして、ずっと起きてたの?」
ボトルの中身を半分ほど空にしたあたりで、視界の端に欠伸を噛み殺すドクターの姿が映った。
まさか彼女は早めに起き出したのではなく、一度も入眠しなかったのだろうか。
「朝までに送りたいメールがあってね」
添付する資料を整えていたんだ、と付け加えて、女は椅子の背もたれに体を預けて伸びをする。引き伸ばされた腹部から腰にかけてのラインが記憶よりも薄くなった気がして、テキーラは眉を顰めた。
これは眠りに落ちる前に腹部に顔を埋めた時も思ったのだが
――
「
……
痩せた?」
「
……
ん? どうかな? あんまり自覚はないけど」
今の今まで『翌日までの仕事がある中、わざわざ時間を取ってくれていたのか』と、申し訳なくも思っていたのだが、そもそも不健康な働き方が標準装備の上司であることを思い出した。
長期休暇に入る前は、出来る限り雑務の処理を手伝い、理性が限界になればベッドに押し込むなどの涙ぐましいサポートをしていただけに、自身の不在中に彼女がどんな働き方をしていたのか、あまり考えたくなかった。
「
……
ドクター」
「君に呆れられるのも久しぶりだな」
「俺にくれるって約束でしょ。ちゃんと大事にして」
寝起きの、半ば理性が働いていないテンションで、随分と図々しいことを口にした。
ドクターは一瞬目を瞠って、その後で小さく吹き出した。
「幸い、夜明けまで時間がありそうだし、一眠りするとしよう。
――
寝かしつけてくれる?」
キーボードを叩いてメールを送信し、ドクターが立ち上がった。恋人に明け渡していたベッドに、乗り上げてくる。
「もちろん」
占有していた寝台にもう一人分の場所を空け、夜具を捲り上げれば、さも当たり前のようにドクターが腕の中に潜り込んでくる。
肩と首の間に擦り寄せられる頭。形の良い額に軽くキスを落としてから、苦しくない程度に抱き込んだ。
触れ合った場所から、鼓動が伝わる。
まるで、寄せては返す波のように。彼女の体にも、血潮が流れている。
間を置かず、腕の中から静かな寝息が聞こえ始めた。
このまま歩み続ければ、いつかは別れる道かもしれない。
それでも、この音を。ぬくもりを。
決して忘れはしないだろう。
耳元で鳴り続ける波音のように、彼女の鼓動もまた、最早自分の一部に違いないのだから。
「おやすみ、ドクター」
聞こえるのは、穏やかな呼吸と鼓動だけ。
静謐の中、心地よいリズムに身を委ねて、テキーラは目を閉じた。
【終わり】
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