吾妻
2023-05-19 18:46:32
9071文字
Public アークナイツ
 

SECRET BANQUET

■お誕生日お祝いの話。(話の中身にあんまり関係はないですが)女ドクター、俺設定ありなのでご注意ください。テキーラくんのプロファイル、第二資料の記述を拡大解釈しています。


《お兄ちゃん、今日誕生日だよね。おめでとう》

 外勤に出ている義妹から届いたメッセージを聞くまで、テキーラは今日が何日なのか、すっかり忘れていた。
 朝の身支度を整える手を止めて、卓上のカレンダーを確認する。
 そういえば、今日は五月十五日だったか。

《今年はお仕事で直接お祝いできないけど、ちゃんとお土産買って帰るからね》

 ドッソレスシティを離れてから少々距離ができてしまった義妹だが、彼女の家族思いは相変わらずだ。血のつながりはなくとも――いや、おそらくは血のつながりがないからこそ、ラファエラは『家族』の絆を大切にする。
 喜びも悲しみも分け合えるのが共に生きる『家族』なのだと、彼女は固く信じている。
 確かにそれは、家族のひとつのあるべき姿だろうし、そんな彼女がいてくれたから、サラス家は成り立っていたと言ってもいい。父と息子ばかりでは、もっと無味乾燥な生活になっていたに違いない。
 外勤中にわざわざメッセージを飛ばしてくるとは、きちんと仕事をしているのだろうかと心配をして、すぐに自分で打ち消した。彼女は信頼している人間を絶対に裏切らない。そして今、彼女は『ラ・プルマ』として、指揮官であるドクターに確かな信頼を寄せている。手を抜いたりするはずがない。
「でもまぁ、今日はあいつが外勤に出てて助かったかもな」
 着替えを終えたところで、思わず本音が零れ落ちた。目の前にある鏡の中では、温和そうな青年が苦い笑みを浮かべている。
 義妹の気持ちは嬉しい。ただ、再就職してそれほど経っていない職場で、大っぴらに誕生日を祝われるのは、さすがに気恥ずかしかった。もうケーキに蝋燭を立てるような年でもあるまいし。
 これまでもそうしてきたように、テキーラは新たな職場であるロドスにおいても、幅広く円滑なコミュニケーションを心がけてきた。おかげで人脈もできたし、友人と呼べる人々も増えた。
 だが、わざわざ自分のために、彼らの貴重な時間を割いてもらうのは、なんだか申し訳ない気がした。
 ラファエラは社交的な方ではないので、あちこちに吹聴して回ったりはしないだろうが、彼女がよく手伝いに入るバーでは話題に上るだろう。そして、バーに集う酒好きのオペレーターたちはきっと陽気に祝福をくれるはずだ。
 確かにありがたいことなのに、その様子を想像すると少しだけ気が重くなる。
 誰かのために心を砕くのは好きな方だけれど、誰かに気遣われるのはあまり得意ではない。自分がそんな厄介な性質を有していることに、テキーラは薄々勘付いていた。

 いつだって、もてなす側でありたい。
 主役になんてならなくていい。

 それがきっと、分相応というやつだ。


            *


 心配事のほとんどは杞憂に終わると人は言う。
 実際にその通りだと思う。
 だが、頭では理解していても、最悪の事態を想定するのをやめられない。

 目の前の事象に向き合ったとき、ありとあらゆる可能性を探る癖がついたのは、いつからだっただろうか。
 気づいた頃には、もうこう ・・だった。
 元々勘には自信があるほうで、その導きに従って窮地を脱したことも一度や二度ではない。今では、自分の長所であり、武器のひとつだと認識している。
 けれど、最初に絶望のシミュレーションをはじめたのは、武器にするためなどではなく。
 きっと自分を守るためだった。

 病床で頼りない呼吸をつなぐあの人が、明日の朝もしも目を開けなかったら。
 明日でなかったとしても、明後日はどうだろう。
 次に、父の居場所を尋ねられたら、どう答えるべきだろうか。

 刻一刻と迫る、いつか必ず訪れる終わりについて、何度も何度も繰り返し考えた。
 地獄の底へとつながる穴を覗き込みながら、その瞬間が永遠に来なければいいと祈っていた。
 もしくは、今すぐに父が玄関の扉を開けて『ただいま』と言ってくれないだろうか――なんて。
 ――結局、願いが叶うことはなかったけれど。

 何度もシミュレーションを繰り返したおかげで、母の弔いは滞りなく済んだ。
 予めリストアップしてあった手続きを淡々とこなしているうちに、時間はあっという間に過ぎ去っていった。
 弔問に訪れた人々が故人のために涙を流し、遺された幼い息子を慰撫してくれている最中でも、涙の一滴も流さずに笑顔を浮かべていられた。そんな自分を、頭の片隅に住み着いたもうひとりの自分がずっと薄情だと罵っていた。思い返してみれば、きっと当時の自分は相応のショックを受けて、感情が麻痺していただけなのだろうけれど。

 実際に、当時のことを克明に覚えているかと聞かれれば、答えはノーだ。
 白昼夢のようにおぼろげな断片が、あちこちに散らばっているばかりで。

 ただ、あの夕暮れ時。主を喪った部屋に差し込む黄金色の光の中。
 彼女が大事にしまい込んでいた家族の写真を見つけた瞬間の、うまく言語化できない感情を、今でも忘れられずにいる。


            *


 想定したような問題は何一つ起こらず、つつがなく一日が終わって、定時過ぎ。
 個人端末に連絡があった。
「はいはい、もしもし――
 食堂に向かおうか、このまま自室に引き揚げようか思案しながら廊下を歩いていたテキーラは、相手も確かめずに応答して、

《今日のこの後の予定は?》

「えっ、ドクター?」
 名乗りもせずに、急に本題に入った声を聞き、思わず立ち止まってしまった。
 いや、彼女以外にありえない。声を聞き間違えるはずがない。それでも。
 このタイミングの連絡に、少なからず動揺した。
《取り込み中か? だったら改めるけど》
「いや、大丈夫。全然平気。ドクターこそ、今日は取引先と会合だったんじゃ……
 ロドス本艦は、先日からとある移動都市に停泊している。現地に新たな事務所を開設する計画があり、今日はその関係者との会合が行われる予定だった。
《アーミヤをあまり長く酒の席に付き合わせるわけにもいかないから、早めに切り上げたんだ。今さっき戻ってきたところ》
「そっか。お疲れ様」
《それで、先程の話だけど……
 促されて、思い出した。彼女は雑談のために連絡を寄越したわけではないのだ。
《もしこの後時間があるようなら、自室に戻る前に私の部屋に寄ってほしいんだ》
「あ、うん。特に用事はないから大丈夫。これからそっちに向かうね」
《ありがとう。大した用事じゃないから、そんなに時間は取らせないよ》
 じゃあ、またあとで。
 あまりにもあっさりと通話が切れたので、端末を手にしたまましばらく廊下に佇んでしまった。
 仕事の話――ではないはずだ。彼女はとんでもないワーカホリックではあるが、よほどのことでもなければ部下に対して必要以上の労働を強いたりはしない。
 ならば、プライベートの話? 確かに彼女とはごくごく親しくお付き合いをしてはいるのだが、一般的な恋人同士とは少々事情が異なっている。
 恋人である前に、彼女はあくまでテキーラの主人だ。
 本来ならば前提が逆なのだろうが、こればかりは覆しようがない。
 いかなる困難に直面しても、迷わずに行く先を示す指先。彼女が何の憂慮もせずに采配をふるえるよう補佐することが、他の何よりも優先される……はずだ。時折欲望に負けることもないわけではないが、自分の我儘が彼女の歩みを妨げるのは本意ではない。
 彼女を一人の女性として確かに愛しているし、想いに応えてもらってもいる。
 それでもやはり、仕事があればそちらを優先するし、共に過ごす時間だってそれほど多いわけでもない。それでいいと思っている。
 だからこそ、戸惑った。
 彼女が今日、業務時間外に連絡を寄越したことに。そして、その内容が『私室に来てほしい』だったことにも。
 急に落ち着かない気分になった。
 甘い疼きと言い知れぬ不安が混ざり合う。
 都合のいい期待をしかけて、即座に振り払った。最悪の事態を想定するのは得意でも、幸福な未来を思い描くのは苦手だった。望みが叶えられなかったとき、より虚しくなるだけだと知っているから。
 大した用事ではないと、彼女自身が言っていたじゃないか。
 外部の人間との会合で気疲れもしているだろうし、あまり待たせても仕方がない。
 端末をポケットにしまい込み、テキーラは上司の私室へと足を向けた。


            *


 ドアの前で来訪を告げると、「開いてるよ」と声が返ってきた。
 操作パネルに触れれば、扉はあっけなく開かれる。
 作り付けの作業デスクとは別に、簡単な食事ができる程度のカフェテーブルが部屋の中央に置かれていて、部屋の主は二脚ある椅子の片方に座っていた。手元の端末に目を落とし、熱心に何かを読んでいる。
 実に見慣れた光景だが、一つだけ問題がある。
 室内にはかすかにソープの香りが漂っており、部屋主はいつもの防護服ではなく身軽なシャツ姿なので、おそらくはシャワーを浴びたあとなのだろう。それはいい。
 問題は、肩のあたりまである髪の毛が、まだしっかりと水気を含んでいるということだ。一応首にタオルがかかっているのだが、軽く拭いたのかさえ怪しい。
 十中八九、髪を拭いている途中で端末に仕事の連絡が飛んできて、そちらのほうへ気を取られてしまったのだろう。
「ドクター……
 思わず溜息がこぼれた。
 実のところ、このような場面に出くわすのは初めてではない。一度や二度でもない。むしろ、それなりに遭遇率が高い。彼女は仕事のこととなると、全てを後回しにしてしまう悪癖があるのだ。研究者気質と言えば聞こえがいいが、放っておくと睡眠や食事をおざなりにしてしまうので、周囲の人間が気を揉むことになる。
 室内に踏み込むと、背後で扉が締まる。時刻はまだ宵の口。廊下にはロドスに暮らす人々が生み出す生活音が響いていたが、それらが一気に遠ざかった。
 ドクターの私室とはいえ、別に防音設備が充実しているわけでもないのに。彼女と向き合うと、周囲の音をあまり感じなくなるから不思議だ。彼女が持つ静謐な雰囲気がそうさせるのだろうか。
 普段はマスクに隠されている、つくりものじみた整った顔立ちを見つめた。よく磨かれた硝子玉のような瞳は、手元の端末画面に向けられたまま動かない。
 美しい絵画を前にした心地で、思わず見蕩れた。だが、ぱたぱたと毛先から大粒の滴が落ちているのを目の当たりにして、我に返った。
「ちゃんと拭かないと風邪ひくってば」
 大股に歩み寄り、上司の背後に回り込んだ。肩にかけられているタオルを手に取り、水気をたっぷり含んだままの髪をわしわしと拭いてやる。
「ケルシー先生に叱られるのはドクターだからね」
……叱られるのは嫌だな」
「でしょ? ちょっと待ってて、今ドライヤー……
 ある程度タオルドライを終えて、本格的に乾燥に取り掛かろうとしたところで、テキーラはテーブルの上に置かれているボトルに気がついた。
……どうしたの、これ?」
 細長い三角錐状のシルエットには見覚えがある。見覚えなんて生易しいものではない。ロドスに所属する以前は、頻繁に目にしていたものだ。
 この“酒”がどのようにして誕生し、どのように作られて、どのように流通しているのか。数ある銘柄の差異は、価格帯は、アルコール度数は、味は。おすすめの飲み方は。
 幾度となく様々な人々に説明してきた。今でも求められればすぐさまあの頃のように解説できるだろう。
 容赦なく拭かれて乱れ切った髪の毛のまま、ドクターがテキーラを振り返った。
「これを君に渡したかったんだ」
「貰い物?」
「いや、取り寄せた」
これを ・・・?」
 俄には信じがたく、ドクターの顔とボトルとを見比べてしまう。
 テキーラがこのボトルを目にしたのは、大体が接待の席だった。市長の右腕としても、武器屋の店主としても、どこに出しても恥ずかしくなく、誰に出しても失礼に当たらない上等な ・・・酒として。
 この銘柄はドッソレス産のテキーラの中でもとりわけ高級な逸品で、個人が日常的に嗜むには値が張りすぎる。接待の席や贈答用に使われるのがほとんどで、だからこそ、ドクターも誰かから贈られたのだと思ったのだが。
 取り寄せた? わざわざ? これを?
 なんのために?
 予感はある。あるけれど、素直に受け入れる気になれなかった。
 なぜなら、その予感はあまりにも自分に都合が良すぎる。
 幸福な未来を思い描くのは、得意ではないのだ。

「誰かに贈り物をするのは慣れていないから、随分悩んだんだけど」
 必死に甘やかな期待を振り払おうとしている男の心情など知りもしないで、女の指先がボトルの独特なラインをなぞる。
「君は酒が好きだし、コードネームにするくらいだから、これも嫌いではないだろうと踏んだんだ」

 ちょっと待ってよ、と喉元まで出かかった。
 困るよ。
 期待せずに生きていきたいんだ。
 誰の手も煩わせずに。
 ひとりでなんでもこなせるように。
 明日か、明後日か。母の死に怯えながら、父の帰りを待っていたあの頃の自分が、まだ心の片隅に蹲っている。
 期待して、待ち続けて、祈り続けても。望みが何一つ叶わないことだってある。
 伸ばした手が空振りするくらいなら、はじめから伸ばさないほうが気楽だ。
 自分の願いなら、自分が叶えたほうが健全で、確実だ。だから。
 これまでずっと、そうしてきたのに。
 彼女を前にすると、今までやれていたことが何一つうまくできない。
 欲望を抱き、希望を託して、手を伸ばしたくなる。
 これ以上与えられたら、ダメになってしまいそうなのに。

「俺のために?」
 結局、期待を殺しきれずに、問いかけてしまった。
「誕生日だろう?」
 当たり前のように彼女が答えたので、今度は何も言えなくなった。
「君があの街に複雑な感情を抱いているのは知ってるし、純粋に好みの問題もあるから、受け取ったあとの扱いは任せるよ。処分してもいいし、バーに持ち込んでも構わない。ただ、どんな処遇にするにせよ、一杯ご馳走してくれないかな。飲み方に明るくなくて」
……ドクターが飲むの?」
「君がわざわざ名前の代わりにするものを知りたくなったんだ」
 きっと彼女は本来、そこまで飲酒が好きな方ではない。アルコールは、彼女の唯一絶対の武器である思考を鈍らせるから。
 たまにバーに顔を出すこともあるけれど、正体がなくなるほど酔っ払ったのを見たのはほんの数回だけだ。
 それでも、“テキーラ”を知りたいという。
 これが殺し文句じゃなくて、なんだというのだろう。

 急激に腹の底から込み上げてきた正体不明の感情に翻弄される。甘ったるい疼きのようで、鈍い痛みのようでもある。
 言語化できない感情は苦手だ。対処法がよくわからないから。
 けれど、今持て余しているこの感情は、あの日母の部屋で味わったものとは違っていた。
 そして唐突に理解をした。
 あのときの自分はきっと、寂しかったのだと。

……言ったことなかったよね?」
 誕生日の話なんて、ドクターの前では一度もしなかったのに。
 無理に祝ってくれようとしても申し訳なくなるだろうし、仕事に忙殺されてそれどころじゃなくなってもお互い苦い思いをするだけだろうから、わざと話さなかったのに。
「入職の際の職務経歴書に書いただろう?」
「書いたけど……まさか全員分覚えてるの?」
「さすがにそこまで記憶力に自信があるわけじゃない」
 ただでさえ、一度綺麗さっぱり忘れているんだし、とドクターは少し得意げな顔をした。どうやら彼女なりのジョークのようだが、なかなかに反応に困る。
 だがそうなると、ドクターはわざわざ個人的にこちらの誕生日を調べて覚えていてくれたことになるのではないか?
 覚えているどころか、わざわざ贈り物の手配までしてくれたとなると、それはそれで、随分と胸に来るのだけれど。
「おおっぴらに祝われたいわけじゃないだろう? だからこれは、君と私の秘密だよ」
 わざとらしく唇の前に人差し指を立てて見せる。
 濡れたままの髪はまだぐしゃぐしゃに乱れたままだというのに、口の端に浮かんだ笑みがやたらと蠱惑的で、思わず息を呑んだ。
 ぽんぽんとよくもまぁ、殺し文句ばかりが飛び出す口だ。適切に欲しいものを欲しいタイミングで与えられるとバグってしまう。これでは、人心掌握術『卓越』と言われるわけだ。ほとんどが計算ずくだとは思うが、時折天然っぽさを出してくるので色々と心配になる。
 朝からずっと、アンニュイな気分を引きずっていたけれど、いつまでも難しい顔をしているのがなんだか馬鹿らしくなってきた。
「じゃあこれ、ドクターの部屋に置いておいてもいい?」
 特徴的な形状のボトルの頭を指先でつついて、問いかける。
「別に構わないけど。持ち帰らなくていいのか?」
「ふたりだけの秘密なんでしょ。だったら、ふたりで飲まないと」

 最悪の事態を想定して行動するのは、自分を守るためだ。
 寂しがりで甘えたがりな本性を、誰よりも自分が一番わかっているから。
 縋りついて、もたれかかったあとに失うのが恐ろしいから。
 でも――
 君のほうから差し出してくれた手を握り返さないなんて、そんな勿体無いことはできない。
 たとえいつか終わりが訪れて、身を裂くような痛みを味わうのだとしても。その痛みすら、きっと愛おしく思える。
 それほどまでに、君を必要としている。
 自分でも恐ろしくなるほど、切実に。

「それに、ここに置いておけば、訪ねてくる口実もできるしね」
 冗談めかして言ってから、今度こそ浴室へドライヤーを取りに向かった。いつまでも髪の毛がぐちゃぐちゃのままでは可哀想なので。
……いつ訪ねてきてもいいと言ってるのに」
 温風を吹きかけられながら、ドクターは少々不満げに唇を尖らせる。
 ドクターはそう言ってくれるけど、これはこちらのプライドの問題なのだ。自制しておかないと、すぐに欲望に負けそうになる。どれほどの執着を向けられているのか、きっと君は知らないんだ。
……そんなに甘やかされたら、離れられなくなるよ」
 ドライヤーの音に紛れ込ませるように小声で吐露すれば、
「それでもいいよ」
 再び手元の端末に視線を戻したドクターが、何の迷いもなく、そんな言葉を寄越すので。
 いよいよ困り果ててしまった。

 はるか先を見つめるドクターの澄んだ眼差しが好きだ。
 その道行きを邪魔するものは、たとえ自分だって許せそうにない。
 それでも、たとえ限られたひとときであっても、君の眼差しを独り占めすることが許されるのだとしたら。
 想像するだけで、胸が苦しくてたまらなくなる。

 毛先まで丁寧に乾かしてからドライヤーを切ると、室内に沈黙が満ちる。
 ドクターは、端末を手にしたまま喉をそらして、背後に立つ男を見上げた。
……どうかした?」
 心まで見透かされそうな眼差しに、微笑みを向けたつもりだったが、うまく笑えたか自信がなかった。
「今日は随分と静かだから」
 いつものようにべらべらと喋る余裕がないくらい、浮かれて、感極まっているのだが、それを直接伝えるのは気恥ずかしかった。
「ドクターのこと、大好きだなって思って」
 だから、俗っぽい告白で誤魔化すことにした。
 大きな瞳が一度驚いたように瞠られて、そのあとで柔らかな笑みを含んだ。
 下から伸ばされてきた細い腕が、男の首筋を撫で上げて、項へ回る。
 引き寄せられるままに屈み込んで、反らされた顎に手を添えてから、逆さまの唇に自分のそれを重ね合わせる。
 薄く開いた隙間から舌先を滑り込ませて、いつもとは違う場所を丹念に辿ると、互いの唇のあわいで熱っぽい吐息とくぐもった声が溶けた。
「とびきりの一杯をご馳走してあげるから」
 柔らかな唇の形をなぞるように舌を這わせてから、自分しか映っていない瞳をまっすぐに覗き込む。
「今日はこのまま、泊まってもいい?」
 大した用事ではないと言っていたけれど、プレゼントを受け取って、このままさよならなんてできるわけがない。
 誕生日にかこつけて、精一杯、色っぽいお誘いをかけたつもりだったのだが。
「私もちょうど、このまま君を帰すのは惜しいと思っていたところなんだ」
 不敵な笑みから繰り出されたカウンターをまともに食らって、テキーラは思わず難しい顔で唸ってしまった。やっぱり、どうやっても勝てる気がしない。
 いや、もう勝てなくてもいいと、思ってしまっている。

 いつだって、もてなす側でありたい。
 主役になんてならなくていい。
 それがきっと分相応なのだと、ずっと言い聞かせてきたけれど。
 ドクターに甘やかされるのはそんなに悪くないなと、思えるようになってしまったのだ。

「グラスとか、必要なものを取りに行ってくるから、ちょっと待っててね」
 すっかりと乾いた髪を梳いて、テキーラは恋人の傍を離れた。
 私物のショットグラスと、塩と、ライムあたりがあればいいだろうか。
 質の良い銘柄だから、下手にカクテルにするよりも、そのまま飲むほうがいいだろうか。強すぎるようなら、ロックでもいい。
 考えを巡らせながら廊下へ続く扉へ向かうと、
「エルネスト」
 コードネームではなく、本名で呼び止められた。
 開いた扉のへりに手をかけて、部屋主を振り返る。
「誕生日おめでとう」
 告げられた祝福の言葉は、妙にくすぐったく耳から体へ染み込んだ。
「うん、ありがとう、ドクター」
 お礼を返して廊下に出ると、余韻もなにもなく、背後で扉が閉まる。
 必要なものを調達したらすぐに戻ってくるのに、なんだか名残惜しくなってしまって、そんな自分に驚いた。
 ソワソワと、心も体も浮足立っている。こんな誕生日はいつぶりだろう。
 本来、平静さを欠くのは好きではないはずなのに、今日くらいは悪くはないかと思ってしまう。

 おそらくはこれも、愛のなせる業――というものなのだろう。


【終わり】