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吾妻
2023-05-11 19:02:24
10899文字
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アークナイツ
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テキーラ・サンライズ
急に転がり落ちてしまったアークナイツ沼。勢いよくテキーラくんに転んでしまいました。
女ドクター、俺設定あり、多少の容姿の描写ありなのでご注意ください。
ドッソレスを離れたのは、頭を冷やす必要があると思ったからだ。
俺は、あの街やボリバルについては大抵のことを知っているつもりだけど、裏を返せばそれだけだ。親父の望んだ“解放”に未来がなかったとして、カンデラさんが築いた不夜城の発展だけが、あの国が抱える問題に対処できる唯一の手段というわけでもないはずだ。
龍門からのストレンジャーは、あの街を堂々と腐っていると言い放ったし、その言葉に「まぁ、そうだね」と頷く自分もいるにはいる。だけど、俺にとってあの街は紛れもなく、いずれ帰るべき故郷の一部なのだ。
とはいえ、故郷に対する暴言にいきり立って反論をするには、俺は“外の世界”を知らなすぎるのだ。ドッソレスに落ち着く以前、軍人の真似事をしてボリバルの各地は点々としたけれど、それ以外の場所はからっきしだった。
だから、もっと広い世界を見れば
――
そして外から故郷を眺めてみれば
――
俺のやるべきことや、もっとうまいやり方が思いつくんじゃないか。
そんな漠然とした願望を抱いて、俺はチェンさんの誘いに乗った。
……
正直、ウマい仕事もクビになっちゃったことだし、渡りに船ではあったのだ。俺ひとりなら別にどんな場所でもそれなりにやっていけるだろうけど、そういうわけにもいかなかった。面倒事に巻き込んで、危険な目に遭わせた男に推薦状を書くなんて、チェンさんのまっすぐさというか、お人好しさというか、真面目さというか、そういうものにはちょっと
――
いや、結構びっくりはしたんだけど。
兎にも角にも、俺は社会勉強の仮宿として、ロドスを選んだつもりだった。いずれ帰るべき故郷に、ひとつでも多くの知見を持ち帰るために。
まずもって鉱石病の知識に乏しかったから、最初こそ戸惑いはしたものの、種族や年齢、来歴に縛られないこの場所は、あまりに新鮮で、とてつもなく眩しく見えた。
どの国にも属さないフラットなスタンスは、俺の望んでいる“社会勉強”にはうってつけだと思ったし、荒事と背中合わせの毎日も、ドッソレスシティの日常とさほど変わりはしない。居心地は、悪くはない。
けれど同時に、いつかは去るべき場所なのだろうと、漠然と感じてもいた。
“テキーラ”というコードネームに、深い意味はなかったはずだ。
ロドスに所属するオペレーターは皆、コードネームを持ち、その名で呼び合う。郷に入っては郷に従えという言葉が極東にはあるらしいし、ルールに抗う必要もない。かといって、大層な名前も気が引けるので、その場の思いつきで決めただけだった。
でも、この無意識に口からこぼれ落ちた名前こそが、自分が何者なのかを端的に表している気がした。名は体を表すとは、よく言ったものだ。
俺はきっと、どこまでいってもあの街と無関係にはなれない。
どれほど遠くに行って、どれほど長い時を過ごしても、結局はボリバルの人間だ。
だからいつか、この過酷ながらも眩しい場所を去るだろう。
そう
――
思っていた、のだが。
*
「ドクター、頼まれてた報告書だけど
……
」
踏み込んだ室内は暗く、デスクライトばかりが煌々と輝いていた。
時刻は既に深夜を回っている。どう考えても不健康そうな部屋で、主は何をしているのかというと、白々としたライトに照らされたデスクに突っ伏して、静かな寝息を立てていた。
ちょっとしたうたた寝というよりは、急に電池が切れてしまったという表現のほうが適切だろう。ロドスを支える三本柱はオペレーターとは比べ物にならないくらい激務で、とりわけこの部屋の主は自分の健康に無頓着だ。
俺は入り口側に立ち尽くしたまま、ドクター
――
この部屋の主人で、ロドスの中心人物で、それ以外は謎だらけの女
――
を見つめた。
シャワーでも浴びたのか、いつもの防護服姿ではなく飾り気のない白いシャツを羽織っていて、肩口あたりにこぼれかかった白髪ほどに色素の薄い髪は、まだ僅かに水気を残している様子だった。
放っておくと、食事も睡眠も忘れてしまうたちで、危機的状況でもなければ、体の方が限界を訴えて意識を落とす。今日もその類の電池切れなのだろう。
デスクの上にはさも重要そうな書類が広げられたままで、セキュリティ的にどうかと思うのだが、そもそもこんな夜更けに私室の鍵もかけないのは不用心すぎるんじゃないだろうか。
外見だけで正確な年齢がわからない種族もいるので一概には言えないが、少なくとも見た目上は妙齢の女性なのだから。
とはいえ、俺は彼女のことなんて、まったくと言っていいほど知らないし、ひょっとすると彼女自身も自分のことなんてほとんど知らないのかもしれない。
彼女はいわゆるコールドスリープ処置の後遺症で記憶障害があり、目覚める以前の出来事を何も覚えていないのだそうだ。
側から見ていると、とてもそんなふうには思えない。普段はラファエラに劣らぬほどぼんやりしている様子なのに、周囲の変化には恐ろしく敏感で、戦術指揮は完璧。外出時は常に防護服を身につけていて、表情が読み取りづらいのも相俟って、とんでもなくミステリアスな存在だ。
なんとなく声をかけられないまま、机に突っ伏した細身の女の姿を改めて眺める。
何の特徴もない
――
特徴のなさすぎる身体を。
ドクターには、先民なら誰しも持っている種族特有の身体的特徴がない。
尻尾も角もなければ、
天使
サンクタ
のような光輪もない。特徴を持たない、非凡ないきものだ。
だから、見た目で種族を判断することなんてできないし、それが余計に彼女の特異性を高めているようにも見える。彼女が常に身に纏う防護服は、身体を守る以上に、その唯一性を隠すためのものなのかもしれないと、近頃は考えるようになった。
(
……
って、いくら相手が寝てるからって、こんなふうにジロジロ観察するのは行儀のいい振る舞いじゃないな)
彼女との間に、他人にはおおっぴらに言えないような秘密がないわけではないけれど、それはそれ。
第一、このままにしておくと風邪でもひかれたら大変だ。とりあえず、起こしてベッドに寝かせた方がいいだろう。
(でも、寝つきがいい人じゃないからな
……
)
一度起こすと、今度は眠れなくなるかもしれない。ぐるぐると思考して、動けずにいるうちに。
静まり返った室内に、甲高く電子音が鳴り響いた。
呼び出し音
コール
を上げたのは、ドクターがデスクの上に放り出した端末だった。
「どうかした?」
今の今まで寝息を立てていたとは思えない落ち着きで、ドクターが応じる。突っ伏していた顔を上げ、まだ乾き切っていない前髪を掻き上げる。
《ドクター、ちゃんとシャワールームを出られましたか? 寝る前には一言連絡をくれると言っていたのに、もうこんな時間なので、もしかしてどこかで倒れているんじゃないかと
……
》
ドクターにはとりわけ過保護な小さなコータス嬢の声が漏れ聞こえてくる。本来なら彼女だって寝ているべき時間なのだが、ロドスのCEOはドクターに負けず劣らず働き者だ。
「ああ、ちょっと資料を読み込んでいたんだ。すっかり時間が経ってしまった。今まで起きていてくれたのか、アーミヤ? すまないね」
よくもまぁ、息をするように嘘が出て来るものだ。CEOの読み通り行き倒れていたというのに、まるで何事もなかったかのように。
いや、デスクに散らばった書類を見るに、寝落ちするまでは本当に資料を読み込んでいたのかもしれないが。
《いえ、私も急いで片付けたい仕事があったので。ドクターが無事ならいいんです。根を詰めすぎず、ちゃんとベッドで寝んでくださいね》
「ありがとう。アーミヤも無理せず、出来るだけ早く休みなさい」
《はい。では、遅くに失礼しました。おやすみなさい》
「おやすみ」
優しい声音で就寝の挨拶を告げたのち、ドクターの指が終話ボタンをタップした。
寝乱れた髪を手櫛で整えて、小さくあくびをした後で、ようやくこちらに向き直る。
「不法侵入かな?」
まだ幾分眠気を残した目元に、からかうような笑みを浮かべて、ドクターが言う。
「頼まれてた報告書、お届けにあがりました」
手に持ったままだったファイルを掲げてみせると、ドクターは僅かに目を瞠る。
「早かったね。明日でも構わなかったのに」
「そんなに大した仕事でもなかったし、やるべきことが手元に残ってるの、あんまり好きじゃないから」
「確かに君には簡単な仕事だっただろうけど、今日は外勤に出ていたんじゃなかった? アーミヤにも言ったけれど、根を詰めすぎるのもよくないよ」
やけに白い腕が差し出される。
「行き倒れてた人に叱られてもなぁ
……
」
差し伸べられた手にファイルを手渡しながら、片頬だけで苦笑した。そっくりそのまま返すっての。
「てっきり君は、私の顔を見にきたんだと思ったけど」
受け取った報告書に素早く目を走らせながら、とんでもないことをなんでもないように投げつけてきたので、一瞬反応が遅れてしまった。
いやだなぁ、急に何を言い出すんだか。普段なら完璧な笑顔を浮かべて即座に言い返せていたはずなのに、うまくできなかった。少なからず、図星を刺された自覚があるからだ。
「もう寝てたら出直すつもりだったよ。
……
その、施錠されてたら。っていうか、もう夜も遅いんだから、鍵くらいちゃんとかけないと。不用心でしょ?」
「ロドスの中に危険などないさ」
その声は確信に満ちていて、ドクターがロドスに向ける絶対的な信頼が伝わって来るようだった。普通なら、いい話だなぁと感激して見せる場面だけど、何故か急に、胸のうちがチリチリと騒いだ。
確かにドクターはロドスのトップだし、多くの人間から信頼されているし、彼女にとってここは世界で一番安全な場所かもしれないけど、好意と害意が共存することだってないわけじゃない。そんなこと、君だってよく知っているはずなのに。
「
――
確かにこんな場所で寝てしまったのは私の落ち度ではあるけど、そもそもこんな時間に訪ねてくるのは、君かアーミヤくらいしかいないしね」
「
……
」
そのとき。
あまりにもわかりやすく、とてつもなく現金に、膨れ上がった苛立ちが萎むのがわかった。
「
……
本当に?」
この時間帯に君を訪ねて来るような無作法な男が、自分の他にはいないのか?
「こんな嘘、ついても仕方がないだろう? 君こそ、そろそろ白状してくれないかな? 『ストレスで死にそうだ』って」
「
…………
」
今度こそ絶句して立ち尽くしていると、報告書を読み終えたドクターが書類から顔を上げてこちらを見た。固まっている俺を見て、口の端を緩めて、楽しそうに笑った。
「君は本当にわかりやすいな」
「そんなこと、ロドスに来るまで言われたことないよ
……
」
ポーカーフェイスも、嘘も、いい人のフリも。波風を立てずに世渡りする術も。それなりに自信があったはずなのに。
ロドスに来てから
――
いや、あの金と欲でギラギラと輝く双つの太陽を戴く街で、規格外にパワフルな女性二人に嫌というほどぶん殴られてからと言うもの、自分のペースを保てなくなってしまった。
完璧な笑顔の下にしまい込んでいた、行き場のない感情を。愛国心と現実にもみくちゃにされた、ドロドロとした混沌を。
なんとか取り繕おうとして、表面上はうまくやっているはずで。でも。
「ススーロが君を心配していた」
ドクターが挙げたのは、ロドス所属の医療オペレーターの名前だった。
あどけなさすら感じさせる可憐な容姿からは想像もつかないほど強い芯を持った女性で、自らの責務を果たすためならば、自身よりも上の立場の者にさえ臆せず正面切って意見ができる人物だ。
使命感が強く、直球でつっけんどんな物言いが目立ち、とっつきにくそうにも見えるのだが、とにかく実直で裏表のない、良い医者だ
――
と、思う。
良い医者というものは往々にして鋭い観察力を備えている場合が多く、ススーロも例外ではない。
そして、戦場を誰よりも高く広い視野で
――
それこそ盤上遊戯のように
――
眺める目の前の指揮官も、医者たちに負けず劣らずの“目”を持っている。ススーロ女史が抱いている懸念くらい、とっくの昔に把握しているはずだ。
ドクターが何を言わんとしているか、さすがに察しはついている。
それでも、惨めったらしく悪あがきがしたくなって、いつも通りに笑顔を作った。
「源石にあんまり近づきすぎないようにって忠告された話?
外勤
しごと
中も気をつけてるし、扱う武器もできるだけ源石の加工品は取り扱わないようにしてる。もしも感染について心配してるなら
――
」
「
エルネスト
・・・・・
」
「
……
」
こんなタイミングで、わざわざ刻みつけるように。名前を呼ぶのは反則じゃないだろうか。これじゃ、べらべらと言葉を並べて相手を煙に巻く、俺の常套手段も意味をなさない。
何より、防護マスクを通さない剥き出しの両目が、射抜く強さで見つめてくるから、喉元まで出かかった空疎な弁明を飲み込むことしかできなくなった。
「ススーロは君の、そういう顔を案じているんだ」
「
……
俺はこの顔で世渡りしてきたんだよ」
いつものようには、もう笑えなかった。
口元に浮かんだ笑みはぎこちなく引き攣っていた。
温厚で、人畜無害な。誰の敵にもならない笑顔で、騙し続けてきた。
いずれ背くことになるだろう雇い主や、妄執に成り果てた愛国心を後生大事に抱えている父親。それから。
父の博打に付き合ってやろうと腹を括ったはずなのに、
義妹
ラファエラ
のように盲目的になれない自分自身のことも。
反骨心や敵意、嫌悪や絶望に似た何か。
心の奥底に溜まった、ネガティブな情動すべてに蓋をして、目を背けて、見えないフリをしてきたのだ。
自分が何を望んでいるのか。この先、どこへ向かいたいのか。
とっくの昔に答えは出たはずで、だからこそ今、
ロドス
ここ
にいるのだけれど。
ありのままをあるがままに。万人に見せびらかして歩くには、笑顔の仮面を被るのに慣れすぎた。
往々にして、ニコニコしていたほうが物事はうまく進む。この身のうちに棲む、言語化の難しい混沌を表に持ち出したって、碌なことはないんだから。
そうやって、荒波が起こる前に器用に立ち回って、優柔不断で臆病な本性を見破られないように隠してきたんだ。
見破らないでほしい。
正体を見抜かれないうちは、きっとお互いに和やかな取引ができる。
けれど、同時に。
こんな上っ面のごまかしに騙されずに、何もかも全部見抜いてほしい。
そんな矛盾した欲求に囚われる。
俺みたいな小手先だけの意気地なしの化けの皮くらい、あっけなく見破れるような人にぶつかりたい。
本当はずっと、ここに辿り着くまでずっと。毎日ギリギリの綱渡りばかりで、神経は尖るし、胃は痛むばかりだった。
だから、チェンさんやリンさんに真正面からぶん殴られたときは面食らって、これまで完璧に被ってきた仮面にヒビが入ってしまった。
ロドスに来てからも、ススーロ女史をはじめとする観察眼に優れた面々には難しい顔をされるし、俺なんかよりよっぽどボリバルを知ってる教官殿には値踏みするように見られるし、何より。
「
……
そんな目で見られたら、困るよ」
その目に見つめられると、身動きが取れなくなる。
皮膚を貫いて、骨まで透かして、実体のないはずの胸のうちまでも見通すような。
全身を余すところなく解析でもされているような、空恐ろしさと居心地の悪さ。あとは。
どうしようもないほどの安堵。
君はこんな俺に騙されない。だから、もたれかかりたくなる。
日々の生活の中で、自分でも気づかないうちに降り積もって、足取りを重くするネガティブな感情を全部、ここで下ろしたくなる。
でも、面と向かって言えるわけがないじゃないか。
“いい子のフリに疲れて、甘やかされたくなった”、なんてさ。
「実は、そろそろ訪ねてくる頃だと思っていたんだ」
よく磨かれたレンズのようにこちらを見据えていたドクターの双眸に、悪戯っぽい笑みが滲む。
「
……
後学のために、なんでバレたか聞いていい?」
「ここ数日、誰かと話し終えるたびに、溜息をついていた」
「
…………
マジ?」
「私は必要ならいくらでも嘘をつくけど、今はついても仕方がない」
全く自覚がなかった。わかりやすすぎて恥ずかしくなる。普段ならポンポンといくらでも出てくる軽口も、何一つ思いつかない。
悔しげに黙り込んでいる俺を見て、ドクターが小さな声を上げて笑った。
珍しいこともあるものだ。
業務外
オフ
の彼女は仕事中に比べれば幾分か無防備な姿も見せるが、今日は妙にハイになっている。
そのとき、不意に頭に過った予感があって。おそらくそれは、外れてはいないだろうという不可思議な確信が生まれた。彼女ほどではないにしろ、俺は俺でそこそこ自信があるのだ。人を見る目というやつに。
「もう寝たほうがいいんじゃない、ドクター?」
肉体的なものか精神的なものかはわからないけれど、彼女は疲れているのだ。ハードなデスクワークに加えて、オペレーターの命を一身に背負う戦術指揮を絶え間なく行う人間が、疲れないはずなどない。
「寝ようと思ってベッドに入ると、どうにも眠れなくて困る」
いつもマスクに隠されている形の良い唇が、わずかに尖る。彼女のむくれ顔を見たことがある人間が、ロドスにはどのくらいいるんだろう? 皆無ではないだろうが、多くもないはずだ。その事実が優越感をくすぐった。
そっと手を伸ばして、まだ水気を含んだままの髪に指を滑らせた。
(俺はこの人を、どうしたいんだろう)
深夜に私室に出入りするのも、防護服に守られていない身体に触れるのも、実のところ初めてではないし。
事務処理能力か、人当たりの良さか、それともイカサマの腕前か。俺の持ち物のどれが有用なのかはわからないけれど、ドクターも俺を気に入ってくれている
――
と、思う。
彼女を信頼しているし、みっともなく弱れば甘えたくもなるし。
あまりにも正確無比な戦術指揮や、巧みな交渉手腕を前にすると、頼もしさと同時に恐れも抱く。
そして、全てを委ねたくなる。
この人がいれば何もかもがうまくいくんじゃないか
……
なんて。胸の奥から急に湧き上がる、万能感にも似た高揚を感じるたびに、考える。
それは本当に、たった一人に委ねていい希望なのか。
だって、今こうして向き合っている彼女は、あまりにも頼りなくて、その気になれば簡単に組み伏せてしまえる。
これまでにも幾度か、煩悶をぶつけるように、従順な飼い犬の顔をかなぐり捨てて牙を立てたこともある。純粋に、一人の男として彼女が欲しいと思ったからでもあり、どのくらい我儘を言えば拒絶されるのか試したくて、チキンレースに臨んだからでもある。どちらも抗いがたい衝動だった。
ドクターは怒らなかったし、怯えもしなかった。夜の海のように静かに受け入れて、拒まなかった。儀式じみた交歓のあとで、寝かしつけられたのは俺の方だし、翌朝にはひどく後悔もした。
それでも懲りずに、ここに来てしまう。
きっとどうかしているのだ。
デスクの上に置かれたままの、折れそうなほど華奢な手の上に、恐る恐る自分の掌を重ねてみた。
息を殺してドクターの出方を窺ってみたけれど、整ったその顔には、驚きも拒絶の色も浮かばない。その気になれば、敵どころか味方だって欺き通す嘘をつける人だと、さほど長くない付き合いの中でも重々承知だ。それでも、拒まれていないのだと信じたい。
(確証のない希望になんて、縋らないたちだと思ってたんだけどな)
夢や理想より、目に見える確かな現実に重きを置く人間だと自負していた。だから親父みたいに愛国心に殉じることも、ラファエラのように真っ直ぐに誰かを信じることもできずにここまで流れてきた。
それが、この有様とは恐れ入る。
目に見えない情を、信じたいと願うなんて。
「あったかくすれば、よく眠れるかもよ?」
まるで取引でもするかのように誘いをかけると、大きな瞳がかすかに瞠られる。
「
……
手助けは要る?」
ダメ押しとばかりにさらに一歩踏み込んだら、不健康な輝きを発するデスクライトの光を跳ね返すドクターの瞳が、やわらかな笑みを含んで細められた。
「噛みつくのは程々にしてくれると助かるんだけれど」
「
……
あはは、善処するよ」
そうは言っても、あんまりアテにならないんだよな、俺の理性ってやつは。
素直にぶんぶんと振ってしまいそうになる尻尾をなんとか抑えつつ、身を屈めて。
すっかり冷えたドクターの唇に自分のそれを重ねた。
*
結局、それほど
待て
・・
が出来たわけでもなかったな。
つけっぱなしになっているデスクライトの光に、ぼんやりと浮かび上がる白い素肌には、じゃれついた名残がいくつも残っていて、憂鬱な気分になった。
肝心なときに詰めが甘くて我慢弱い自覚はある。切羽詰まると、ついつい獰猛で欲しがりな自分が顔を出す。いつになったらもっと余裕が身につくんだろうか。力加減がわからない子犬でもあるまいし。
そもそも、俺たちの関係には指揮官とオペレーター以上の名前はついてない。だから、こんな時間にこんな場所でこんなことに及ぶのは、本来ならあり得ないはずなのに。うっかりと足を滑らせて、境界線を踏み越えてしまった。
全ての関係性に名前や意味が与えられて、健全に機能するべきだ、なんて。そんな綺麗事を言うつもりもないし、誰に咎められたわけでもない。
それでも、この関係性に居心地の悪さを感じているのは、きっと自分自身が納得していないからだ。
形や名前が欲しいのか、証が欲しいのか。自分のことなのによくわからない。
俺はきっと、ドクターのことがひとりの人として、女性として好きなんだと思うけど、正直これ以上の関係を望むのは欲張りすぎる気もしているし。
なにより、こんなのフェアじゃない。
俺ばっかり、甘やかされてる。
(役に立ちたい、なんて。傲慢かな)
すぐ近くで静かな寝息を立てているドクターの頬に、そっと触れる。滑らかな肌の感触。
別に、俺なんかいなくたって、きっと君は困りもしないだろう。作戦を遂行するのも、護衛をするのも、俺じゃなくたって構わないはずだ。
むしろここには、俺なんかが逆立ちしたって敵わないような人材がゴロゴロいる。そんな優良物件のバーゲンセールみたいな場所で。自分の価値を、存在を、唯一無二のものとして認めてもらいたい、なんて。
いつから俺はそんな、分不相応な夢を見るようになったんだろう。
わずかに隈のある目元を指先で辿りながら煩悶していると、ドクターがうっすらと目を開いた。朧気な光の中で、大きな瞳が鏡面のように輝く。
「難しい顔をしているね」
起こしたことを詫びるより先に、寝起きのかすれた声でドクターが言った。
「
……
そうかな」
いつもどおりに笑おうとして、あまりうまくいかなかった。彼女の前では、笑顔の上手な被り方を忘れてしまう。
「君のそういう顔を見ると、安心するよ」
やたらと白い腕が伸びてきて、華奢な指先がこちらの頬に触れた。
「別に、そんなに無理して笑ってるわけじゃないんだけどな
……
」
確かに俺にとってコミュニケーションは武器であり防具だ。剣を振るうより先に、話し合いで解決できたほうがスマートだと思ってもいる。笑顔は、そのために磨いた武装ではあるけれど、周囲の人間観察力に優れた人々が心配してくれるほどには、無理をしているつもりはない。
「知ってる。でも、たまには素に戻る時間があってもいいだろう? 私も、君も」
「
……
あれ?」
急に予感がして、すぐ傍まで這い寄ってきていた眠気が飛んでいった。
今の今まで、自分ばっかり甘やかされて、フェアじゃないって思っていたけれど、もしかしたら。
勘違いだったらめちゃくちゃ恥ずかしいけど、とてつもなく好意的に解釈していいんだとしたら。
“ここでなら、素の自分でいてもいい”と、ドクターも思っていてくれるんだろうか。
俺なんかとは比べ物にならないくらいの重圧を背負って、大勢の命を預かりながら、常に冷静に数多の難局を潜り抜ける。天才とも化け物とも呼ばれる君が、それでも、うっかり落としてしまった過去の影に絡め取られそうになっているのを、俺は知っている。
望まれた役割を果たせているのか。
払われた犠牲に能う価値があるのか。
深く暗い懊悩と逡巡が、常にその背に負ぶさって、枷のように絡まりついていても、なお。
振り返りも、立ち止まりもしない。
平然と顔を上げて、前だけを見据えている。
だからといって傷つかないなんて、生きている限り、あるわけもないのに。
そんな当たり前の事実を、つい忘れそうになる。
彼女だってたまには、何も背負っていない時間を過ごしてもいい、ということも。
「
……
俺でいいのかな」
こんな贅沢な時間を共有するのが、自分で構わないのだろうか?
うっかり懐いてきた、じゃれあいの力加減を見誤った犬に押し切られたわけじゃなく?
「これでも、共寝の相手はちゃんと選んでる」
いやに回りくどい言い方だったけれど、ドクターらしいといえばドクターらしいし。
視線を逃して目を伏せたのは、照れ隠しに見えた。
ちょっと都合のいいことばかり起こりすぎじゃないか? 夢でも見ているのかもしれない。
あまりのことに理解が追いつかずにいると、ドクターの頭が胸元に埋まってきて、余計に混乱した。鎖骨のあたりに押し当てられた額が、ひんやりと冷たい。
「寝かしつけてくれないのか?」
くぐもった声が心臓のすぐ近くで聞こえて、なんだか。
なんだか、いろんなことが、どうでもよくなってしまった。
――
もう、いいか。たとえ夢だとしても。
夢を見ることが罪でもあるまいし。
「仰せのままに」
薄い背に腕を回して引き寄せる。冷えて熱を失った額に唇を寄せた。
どれほど遠く離れても、きっと俺はいつまでもボリバルの人間で。
最期に骨を埋めるのは、あの土だと思っている。
だけど今、吹き荒れる嵐に真正面から突っ込んでいく
艦
ふね
に乗り、暗い夜の只中にいる。
いずれは去る場所だったとしても、今だけは。
闇の涯を指し示す君に、幸運を届ける者でありたい。
行く末を見届けたいんだ。
せめて、この夜が明けるまで。
【終わり】
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