パラリ。紙を捲る微かな音が重なるたびに頭の中に新しい言葉が増えていく。新しい言葉が増えると、僕の頭の中に新しい世界が生まれる。
……ううん。新しい世界だけじゃない。見えていなかった世界も見える。だから僕は本が好き。
夢中で読んでいたせいか、喉の渇きが水分補給の時間を告げた。僕は慌てて透明な硝子製の水差しに手を伸ばす。中には輪切りの檸檬とたくさんの氷を入れた檸檬水。味と色のあくせんととして入れた薄荷の葉がいい仕事をしている。蜂蜜のふわりとした甘さもべすとまっちだ。
――檸檬水がこれほどまでに美味しく感じるのもあと少しかな。
まだ暑いとはいえ夏の盛りよりは柔らかく感じる日差し。季節は流れつつあることを告げている。
僕は少しだけ湧き上がる哀愁を飲み込むために、檸檬水へと手を伸ばした。その表面にはたくさんの水滴がついている。ぐらすに口をつけると、溶けて角が丸くなった氷がカラリと鳴った。
夏を名残惜しむにはちょっと気が早かったみたい。まだまだ暑い日は続きそうだね。作物の管理を頑張らなくちゃ。
手の中にある本へと視線を落とし、再び知識の海へと意識を移した。
パラリ。頁を捲った瞬間、肩に重さと熱を感じた。ふわりと香る汗の匂いも不快じゃない。ということは、思い当たるのはただひとり。朝から遠征へ出掛けていた彼だ。
「その字が多いやつ面白え?」
その言葉と声が、僕の予想が当たりだとを伝えた。
「おもしろいよ。ちなみに帰ってきたら先ず最初に何て言うんだっけ?」
「ん。たでーま」
「おかえり」
短い言葉のやり取りの後、互いの唇を重ね合う。短い口付けもいつの間にか挨拶の一部になるほどの時間を、豊前と恋仲として過ごしていた。ドキドキするようなときめきは減ったけど、その分だけ豊前との時間に安らぎを覚える瞬間が増えている。豊前もそう感じていてくれたらいいなぁ、なんて願わずにいられないんだ。
「桑名は本ってやつが好きなんだなぁ」
「うん。僕の知らない世界を教えてくれるからねぇ」
ふーん、と興味があるのかないのか分からない返事をしながら、豊前は僕から離れ本棚を眺めた。
農業の学術書や植物の図鑑なんかがズラリと並んだ本棚を見たところで豊前は面白くないだろうなぁ。中には農業や植物学を主題にした小説などもあるけれど、それもきっと豊前が読んだらちんぷんかんぷんだと渋い顔をしそうだ。……そんな表情も見たいけれど。
「ん?」
「どうかした?」
「いや、桑名にしちゃあ珍しいなと思ってさ」
豊前は一冊の本を持ち出した。可愛らしい女の子と綺麗な男の子の絵が描かれた本。所謂少女漫画と呼ばれる類の本だ。
「ああ、それは顕現した頃に乱がくれたんだよ」
「乱が?」
「うん。人の身を貰い受けたはいいけれど、あまりに儘ならないことが多くてね。畑当番が一緒になったときに話したら、人の心の動きを理解するにはいい教科書だからあげるって」
顕現したばかりの秋。僕は仲間たちに農業についての知識を伝えつつ、人の身として生きることに戸惑っていた。
自分の意志で手足を動かし、自分の意志を言葉として伝える。
それらは農村や本多の人々が当たり前のようにしていたこと。だから簡単だと思っていた。けれど思うようにいかない。自分がやりたいこと、伝えたいことが上手くいかない。そのうちに何故上手くいかないのかが分からなくて、頭の中がぐるぐるに掻き回されてぐちゃぐちゃになるような気がした。
そんなことを伝えたら、乱は「みんなそうだよ」と微笑んでくれた。そしてその日の夕方持ってきてくれたのがこの少女漫画だったのだ。
「にしてもなんで少女漫画? ばとる系の方が良さそうなのに」
「最初は僕もそう思ったけど、実際読み始めたらよく分かったよ。人の子は恋愛を通じて様々な感情に目まぐるしく振り回される。嬉しい、悲しい、楽しい、寂しい。その辺の基本的な感情はもちろん、嫉妬や憎しみ、優越感……。二次的な感情も生まれて悩み苦しむんだ。人の身を貰い受けたということは、自らの中で生まれた感情に振り回されてしまうと理解するにはとてもいい教科書だったよ」
ほかの刀のように戦いで動けない焦り、畑仕事をやりたくない仲間との会話中の苛立ち、傷つけられた時の痛みや怒り。感じたくない感情に振り回されてしまうのは人の身を貰い受けたからこその悩みなのだ。
そう思ったら心が楽になった。と同時に農作物の成長を感じたときの喜びや蜻蛉切様に褒められた時の感激、篭手切たちとれっすんをした後の達成感などのぽじてぃぶな感情もあることに気が付いた。それと、もうひとつ分かったことがある。それは――。
「この、きょおかしょ? から教わったのはそれだけか?」
豊前が不満そうにこちらを覗き込んだ。ちょっとだけ尖らせた唇が愛らしい。
「さぁ? どうかな?」
僕にしか見せない表情をもう少し見たくてちょっとだけイジワルを言ってみる。そしたらプイッとそっぽを向いて拗ねてしまった。
「ごめんごめん。ちゃんと教えるよ。知りたいんだよね?」
むぅーっと頬を膨らませながら豊前がゆっくり振り返る。
「わーってんならサッと言えって」
眉間の皺も愛おしい。でもやっぱりない方がいいかな。
僕は眉間の皺を伸ばすように指でなぞってみる。そしてそのまま、柔く巻かれたような癖毛を撫でてみた。
「本に教えられたよ。恋という感情が存在すること。そして僕の心に芽生えている豊前への感情は恋なんだって」
豊前の膝枕が心地よいこと、そこから眺める景色が普段より輝いて見えること、豊前が他の誰かといるときの寂しさや胸の痛み、豊前が出陣したあと無事に帰ってくるまで不安で畑仕事すら手につかないこと。それらはすべて僕の中に芽生えた恋愛感情に起因していることを知った。
それに気が付いたら豊前が欲しくて欲しくてたまらなかった。僕のあとに顕現した松井が豊前の名を呼ぶだけで、嫉妬から苛立ちを覚える日もあったっけ。
思い通りにならない現実も感情も抱えながら、豊前と想いが通じ合ったあの日のことは鮮烈な記憶として忘れることが出来ない。「ここ」にいる「僕」の大切な歴史になった。
僕は目の前にいる愛しい相手の頬にそっと触れてみる。
「でも、本は教えてくれなかったな。触れたら温かいことも、近づくと安らぐ香りがすることも。そして、このままひとつになってしまいたいくらいに離れがたくなってしまうことも」
「少女漫画は全年齢だからな」
「んもう。折角ろまんちっくな雰囲気を作ったんに」
ぷくぅっと頬を膨らませたけれど、最初にイジワルしたのは僕だったね。豊前なりの意趣返しかもしれない。
「ははっ。わりーわりー。で、この話はどうなるんだ?」
「女の子も男の子も気持ちがすれ違ったりするけど、ちゃんと結ばれて幸せになるよ。最後は結婚式の場面だった」
「へえ。はっぴいえんどってやつか。俺らみたいだな」
はっはー! と豊前が笑う。でも僕は笑えない。
確かに僕達も気持ちのすれ違いなんかを経て両想いになった。ふたりで過ごすことが当たり前になってからも久しい。でも。
「僕達は、はっぴいえんどじゃないよ」
「え?」
怪訝な表情を浮かべた豊前が不安に襲われるより先に、僕は豊前を抱きしめる。
「終わらせない。幸せなまま、ずっと一緒にいたいから。ずーっとずーっと一緒だよ」
分かってる。僕達が一緒にいられるのはこの戦が終わるまで。戦が終わらなくてもどちらかが、もしくは共に折れてしまえばそこまでだって。
でもね、人の子も結婚式で永遠の愛を誓うでしょう? 永遠なんてないことを知りながら、神の前で誓うんだ。それはきっと誓いではなく願いなのだと思う。死がふたりを分かつ瞬間のその先も一緒にいられますように、という強い願い。
だから僕にも願わせてほしいんだ。この幸せな日々が明日も続きますようにと願う日を永遠に繰り返すことが出来ますように、と。
「そう……だったな。ずっと一緒ちゃ。俺達はずーっとはっぴいっちゃね!」
「そうだよ。ずーっとはっぴいだよ」
抱きしめ返す手から豊前の気持ちが伝わる。きっと僕と一緒だ。
僕達はいつか来る「ふたりの結末」を見ない振りして先延ばししながら、願い、信じてしまうんだろう。『今ここにある幸せが明日も続きますように』。そう祈る明日がやって来ることを。
愛を誓う人の子のように唇を重ね、豊前を味わう。互いの吐息と水音が響く部屋に、檸檬水の氷が溶ける音がカラリと混じった。
時の流れに抗うように、暑い日々はまだまだ続く。そう告げるみたいに。
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