濃紺の星空と月が覗いていて、アスファルトの上をペタペタと裸足で歩いている。歩いていると言うより小走り? いやもう走っているに近いかも知れない。白い麻の浴衣を着ていた、もしかしたら合わせ目が逆になっているかもだが、胸元が大きく開いていて、良く分からなかった。掻いた汗はかいた先から、夏物の浴衣の生地に吸われて消えてゆく。
長い赤い髪は、いつの間にか振り解けてしまったのか、太刀花ユキノジョウの背中でバタバタと揺れていた。これは夢なのか現(うつつ)なのか……それすら曖昧になる。瞼を閉じるとキラキラと星が煌めく。眩しくて段々と走るスピードが衰えた。
パタパタとたたらを踏むように立ち止まる。目の奥が星の光りで差すように痛んで、その痛みに耐えながら、今ここがどこであるのかぐるりと見渡して、寮の方向へむかって、トボトボと歩き始めた。
「おかえり~ん」
「……今、帰った」
「外どうだった?」
「星の光が眩しくて、目が潰れそうなくらいだった」
「そ」
出迎えた十王院カケルは、シルクのベージュの半袖のパジャマを着ていたが、それと揃いのナイトキャップをその日は被っていなかった。玄関に佇むユキノジョウの足下に甲斐甲斐しく跪いて、散歩から帰って来た犬の足を拭うように、少し熱い温度のホットタオルで足の裏を綺麗にしてくれる。
「汗掻いたなら、ちゃんと身体を拭いて着替えるんだよ?」
カケルは今度は乾いたタオルで赤い髪を掻き分けると、浮いた汗を拭ってくれる。そのまま促されるように自分の寝室へ向かわせられると、そのまま敷いてくれた布団に力なく横たわった。
「ユキちゅわん」
「……」
「寝ちゃった?」
カケルは薄い肌掛けを上からかけてくれて、ユキノジョウは意識を深いところへ落としてゆく。彼が夢遊病になって暫く経つが、こうやって起きて待っていて、面倒を見てくれるのはカケルだけだった。ユキノジョウはそれを、好ましく感じている。その彼が小さく呟くのが聞こえた。
「外だけどね……今日は曇り空で、星なんて一つも出てないよ」
君と、曾根崎心中
「『男』の気持ちを、知らねばなりません」
「男……、自分がですか?」
正座で姿勢を正しつつも、今までたおやかに努めようと思っていたが、思わぬ言葉に正座した足がわずかに崩れた。
「先生、僭越ながら自分は男なのですが」
「それは知っています。今回の演目は『曾根崎心中』。徳兵衛のお初を想う気持ちを慮(おもんぱかる)ってくださいと、そういう意味です」
「まだ稽古初日ですが」と、一瞬彼らしくもなく言い訳しかけたが、「分かりました」と口では素直に返してしまっていて、心の中で舌打ちした。そのまま稽古も終了してしまい、なんとなく『怒られた』みたいな気持ちでトボトボと帰路につく(ユキノジョウだってそんな日はある)。
「あんれ~? ユキちゃんどったの?」
少し後ろ。往来でお互い制服ではなく出会うのは珍しい。カケルは仕事をしてきたのか、駱駝(らくだ)色の品の良いスーツの上着を脱いで、腕に掛けている。徒歩なのは珍しいな、とユキノジョウはそう思った。
「稽古の帰りだ」
「いつもよりちょっと早くない?」
「不勉強だったようで、師匠を困らせてしまったんだ。ちょっと考えさせていただくために、早く終わった」
「ほぅ、それこそ太刀花にしては珍しい」
カケルはよほど驚いたのか、ユキノジョウへの呼び方が苗字だけに変化した。何か、シリアスな場面で、『ついウッカリ』みたいな感じで飛び出すそれが、ユキノジョウは嫌いではなかった。彼にとって特別になった心地になる。
「『曾根崎心中』っていう悲恋を今度演るんだ」
「ふうん、あとで調べるね」
お愛想でも何でもなく、そう言えば調べてあとで何かしら声を掛けてくれることを知っている。そんな彼のことを好ましく思っている。しかし、その夜から太刀花は夢遊病になってしまったのである。
気づくと夜の縁に立っていた。初めてのときは雨が降っていて、足の裏は水で濡れていた。寝間着も髪もしどしどに濡れていて、何かが足りない、なにか大切な物を喪失したような、脱力感だけが身体に残っている。
寮に力なく帰ると、カケルが寮の入り口で一人で待っていた。他の候補生は皆先に眠ってもらったと言う。だから他の寮生も恐らく知っていただろうが、西園寺レオがたまに控えめに心配した眼差しを寄越すくらいで、具体的にそれを指摘する子供は居なかった。
<続く>
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