めっきり涼しくなった。雨に濡れたら風邪だってひくだろうに、朝愚兄が傘を持っていたか怪しい。中学校の入り口で、大きく黒い『こうもり傘』と言った具合のそれを開くと、山田三郎はゆっくりと駅へ向かった。
……こんな時、偶然会えないかなって願うと本当に叶うものだから不思議だ。駅で会った兄の二郎は少しだけしか濡れておらず、三郎は何だか拍子抜けした。「傘、持ってたの?」と、思わず子供っぽく尋ねてしまって『しまった』と顔に出た。二郎はそれに知らないフリをしてくれる。
「持ってない」
と真実を告げて、「ダチに駅まで送ってもらった」と重ねて答えてくれた。ふーんっと興味なさそうなフリして並んで改札へ向かう。「お前、降りたら入れてくれよ」と二郎が独り言みたいに呟くが、「何に? 扶養に? 将来稼げない予定だから?」と早口に返してやった。
「ば……、おめぇ。ちげぇよ、傘に……」
「忘れたお前が悪いんじゃないの?」
ケラケラと笑ってやれば、「じゃあ、いいよ。走って帰るから」と言って、乗る車両まで変えようとするものだから、思わず腕を掴んだ。「同じ家に帰るのに、馬鹿みたいだろ?」と頬を膨らませると、「じゃあ傘、やっぱり入れてくれよ」と二郎は少し頬を赤らめて唇を尖らせる。
「いいけど、傘僕に持たせろよな」
「それは、俺の腰が折れるんじゃないのか」
「ゆくゆくは曲がるし折れるんだから、手間が省けていいんじゃないの?」
そう言いながら、身震いすると、あまり混んでいないのに身を寄せる。そうすれば二郎が黙ることを知っていて、実はわざとの『身震い』だったりする。二郎は何だか諦めたようにため息を吐いて、中途半端に捲り上げた腕が、三郎の腕にくっつくように傍に立った。
一駅越えると、ようやく座ることができた。まだ夕方手前なのに、外はどんよりと暗かった。薄暗がりの中、それでも白い空からの光が二郎の産毛を光らせる。三郎は、気づけばその横顔に見惚れていて、投げ出された二郎の華奢で大きな手のひらに、上から自分の手を被せていた。
「……どこか」
「んー?」
「誰も僕らのことを知らない、どこかに行けたらって……」
「三郎」
電車が揺れて、おぼろげに繋いだ二人の腕が揺れる。思わず本音が零れ落ちてた。涙は零れない。正直、諦めてしまっている。
「それは、兄ちゃんが心配するんじゃねぇの?」
「お前、『兄貴』に呼び方統一するんじゃなかったの?」
「う、うるせえな。そうそう、兄貴が」
その名前を出されると、三郎の意識だって、本能みたいな欲望から切り離されて、家族に寄り添う気持ちに戻っていく。憤りを隠すように二郎の指をぎゅうっと上から握り込むと、すぐ上の兄はそれを何か違う気持ちと勘違いしたみたいだった。
「まぁ決勝が終わって、俺らが圧倒的勝利をおさめた後にだな」
「……まずは三人で祝勝会」
「そらそうだけど、それが終わったらお前の行きたい所どこでも連れてってやるよ。二人きりで」
『二人』というのが大切だということ。言わなくても二郎はそれに気づいていたようで、『二人きりで』って言ってくれた。繋いだ手の先が暖まる。三郎の胸の内も熱くなり過ぎて、鼓動の音までも兄に聞こえてしまわないか心配になった。
それと同時に電車がスライドするようにホームへ滑り込んで行って、三郎は先に腰を上げた。雨は少し止んできてしまっていて、「ホームから降りるころには土砂降りになれ」って強く念じて瞳を堅く閉じた。ホームの入り口へ階段を上がる途中で、三郎の真横でポンッと軽快な音が鳴り響く。
「ん」
最早、傘をささなくても良いくらいの小雨だったが、二郎はそのまま三郎に傘を渡して、その丸みの中へ、当たり前のように潜り込んだ。二人は互いに文句を言いながら、そのまま傘におさまって家へと急いだ。
<おしまい>
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