三郎が変なことを言うものだから、鍵を掛けるようになって数日。夜半に唐突にムラムラ来た。その感覚は久しぶりなもので。山田二郎は十七歳という年齢の割に、他のこと(スポーツ・萬屋の手伝い・ラップバトル)で発散しているせいか自慰が拙かった。
「ぅ、くそ」
なんか、どうやってやっていたかもすっかり失念してしまっている。全く上手くいかず、イライラムラムラしてきてしまった。何か困った時ってどうしていたっけ? そうだ! そうだそうだ……。
「にぃちゃ……」
苦し気に息を吐いた刹那、ガチャガチャガチャッと乱暴に鍵を開ける音がして、「二郎、大丈夫か?!」とその場に立っていたのは弟の三郎ではなかった。枕を抱きしめているというのに、だ。
「……っ」
そこに立っていたのは兄の一郎だった。山の中で遭遇した熊のように一時停止して、二郎と暫し見つめあった後くるりと背を向けた。すると、ガチャッとまた鍵の音がする。その大きな背中がずどんと重い空気を背負っているので、二郎は思わず小さく兄を呼んだ。
「に、にぃちゃん」
「わりぃ、二郎……、あぁ~何つーか」
「いい、いい別に良いから」
そう言って腕を伸ばすとカラカラと窓を開けた。まだ別に達してはいないが、自分の汗の匂いで部屋がむせ返るように感じたからだ。「ご、ごめんね? 変なとこ見せちゃって」と謝らなくてもいいのに謝ってしまうと、やっと一郎はこちらに身体を向けた。
「いや、俺が悪い。何かお前が苦しんでる声が聞こえた気がして勘違いした」
「ゴメン! 勘違いさせて!!」
「だから、俺が悪かったって……!」
思わず互いに怒鳴るようにしてしまって、顔を真っ赤にさせたあと二人は何でか笑い出してしまった。それでようやく一郎は近づいて来て、二郎の傍にずどんと腰を下ろしたもので、ベッドが大げさに揺れた。
「で、で……。兄ちゃん一体どうしたの? 枕まで持っちゃって」
「あー……」
「鍵まで開けちゃって」
「その、何だ……」
一郎にしては歯切れが悪い。もしかして夜通し説教とか言うアレだろうか。二郎は、最近した兄を怒らせそうなアレやコレやを脳裏に浮かべて、またダラダラと汗を掻いた。一郎は枕を抱きしめるようにしてボフリと二郎の横に寝転がる(ナニコレ、可愛い!)。
「お前ら、最近二人でいっつも寝てるだろ? 鍵掛けて」
「あー兄ちゃん知ってたんか、それ三郎が……」
「俺も寂しくなったってか、『川の字』したくなったってか」
「三郎呼んで来る?」
そう言って立ち上がりかけた二郎の真っ直ぐな手首を、一郎は寝転んだまま掴んで引き止めた。「いや、今日はいい二人で」って呟いた声が、いつもより低かった。そして瞳が赤く、潤んでいたのが二郎の記憶に残っている。
* * *
「ゆ、め……?」
二郎が目を開けると、目の前にも一郎がいたもので混乱した。覗きこんできたのは夢の中でも一緒のベッドの上にいた長男だった。昨夜の記憶の続きかもとも思った。しかし今度の一郎は少し心配そうに眉を寄せて、ベッドに腰をかけてこちらを見下ろしている。
何か言葉を発しようとしたら、それを遮るようにぺたりと額に大きな手を置かれた。肌と兄の手との間に何か薄い物が張られてる。きっと熱を冷ますシートだ。額に置かれた指が冷たい。二郎はそれに億劫に手を上から被せて、「兄ちゃん、外。雨でも降ってた?」と聞いた。
「バッカ、お前馬鹿……」
「肝が冷えた」と続けて、馬鹿でかいため息と共に顔を覆ったものだから、二郎は慌てて声を上げた。
「え、あれ? 今って夜?」
「うん、ちゃんと目ぇ覚めたな。起きれるか? ちょうど昼だ」
「ひ……る? おれ、学校は? 今日って平日?」
「まだ昼にもなんねぇよ、電車で通学中にぶっ倒れて帰ってきたんだよ。大分混乱してんな」
「三郎は?!」
思わず一緒にいた弟を心配して腹筋で跳ね起きる。するとちょっとびっくりしたように目を丸くしてから、一郎が肩にずしりと両手を置いた。そのまま、また横にさせるようにゆっくりと力を込められて、二郎は気力のなさにそれに従うしかなく、ポスリとシーツの海にまた沈む。
「落ち着け、三郎は大丈夫だ。大分渋ったが学校へ行ったぜ」
「アイツ、俺のことここまで運んできたの?」
「いやぁ、それがなぁ。お前を送り届けて三郎も『休む』っつったんだけどさ」
そう答えて、一郎は少し歯を見せて困惑したように頬を掻いた。
「うん」
「毒島さんが諭してくれて、二人でさっき出て行ったぜ。毒島さんがお前を運んでくれたんだよ」
「毒島ってハマのぉ?! え、何で?」
「コラ、そんな顔をしてんじゃねぇよ。お前のことおぶって萬屋まで連れてきてくれたんだぜ? なんか東都のいくつかの駅に、大量のアライグマが出たとかで調査してたらしいんだ。罠を仕掛けて帰るところだったんだと」
「そ……そうなんだ、理解が追いつかねぇ(食べるのかな?)」
「今はあんま考えんな」
そう言って、また額に重たい手のひらを置いてくれる。それがなぜか安心感に繋がって、押し出されるように涙がジワリと滲んだ。それを見下ろして、一郎はなぜか一瞬押し黙って、そばにあるテッシュで彼にしては大人しい仕草で涙と汗を拭ってくれる。
「昼飯粥なんだけど、食べれそうか?」
「た……」
『べれる』と続けようとして、胸をまた気持ち悪さが駆け上がる。嘔吐しそうになって口元を覆うと、「無理かも」と言って瞳を閉じた。すると「まぁ~仕方ねぇか」と一郎は笑って、エプロンをしたままゴロリと二郎のそばに寝転がった。
二郎は、あの日の夜を何となく思い出してしまって、頭の片隅で「三郎がまたいない」と少し後ろめたいような寂しい気持ちにもなった。その間にも一郎がよしよしと二郎の頭を撫でつけてくれる。
「お前は寝とけ」
そう言って、手のひらの代わりに絞りすぎてガッチガチになった濡れタオルをドシリと置かれた。二郎はその衝撃でまたベッドに深く沈んだ。そうでなくても何だか身体が熱くて力が入らなかった。
<続く>
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