そう短めに伝えると、何か言いかけた言葉を遮るように扉を閉めた。ジャケットは車内に預かってもらい、ネクタイを引き抜きながら歩き出し、高架下に近づくころには小走りになった。……しまった、マスクのせいで呼吸がままならない。
ゴホゴホと厭な咳をして、身体を二つに折り曲げると、誰かが駆け寄ってくる気配がした。来るなくるなと思って、思わず片手をそちらの方へ突き出す。その指先を、冷たく細い、まるで女性のように繊細な手のひらに拾われる。
それだけで、嘘みたいに苦しいのとか、辛いのとか。我慢していた感情が全て報われるような、圧倒的に救われるような……、そんな心地になって思わず顔を上げた。するとそこには思ったよりもひどく近くに速水ヒロの顔があって、困ったように眉を下げていた。
「……どうしたんだよお前」
「ヒロすわ」
「まさか来るだなんて思わないから俺、メッセージ送っちゃったよ」
なんだかごめんね。そう、本当に申し訳なさそうに言ってきたもんだから、息が止まりそうになる。『普通』を保てないのは最早カケルの方で……、だってあの時『莫迦だ』と思った速水ヒロと同じような行動をしているじゃないか。
「でも、嬉しいよ」
「……!」
「来てくれて、うれしい」
頬をバラ色に染めて、微笑む彼をみたのは久しぶりな気がした。いやそれが自分に注がれたのが、ということだ。カケルは何か言いかけて、というか言ってやりたくて、背を丸めながらも「まだ聴こえますか?」とようやく尋ねた。
「音? 聴こえたよ」
「はい」
「聴き行く? 多分まだ間に合うと思う」
ヒロはそう言ってカケルの手を引くと、高架下に向けて二人は歩いて行った。夜の空間の中で、気味悪く真っ黒な口を開けているようにも見える。カケルは駆けてきた運動のせいだけではなく、心臓が早鐘を打っていたが、涼しい風になぶられながら一歩いっぽとそこへ向かっていく。
「こっち」
ヒロはニッコリと笑いかけると、その暗闇へカケルを導いていく。カケルは、片手は神様を、片手は心臓を握りながら縺れる脚を叱咤して、どこか期待するような気持ちで後に続く。実はこの先の道路は、ガスの工事で通行止になっており、車は一切通らなかった。
ねぇ、宇宙人聞こえてる? 自分はもう彼を選んでもいいんじゃないか、彼の邪魔にはならないんじゃないだろうか。もうヒロの気持ちは前とは違うかもしれないのに、前カケルの元へ来てくれたことを、朝焼けの中抱きしめ合った事実をお守りのように思い出して、握られていた手のひらに、カケルの方からも指先を食い込ませた。
コンクリートの筒の中に入って、握られた腕がだらりと落ちる。速水ヒロは少し俯くカケルを目の前にして、どこか眉を下げて見せた。「ひ……」カケルが名前を呼びかけると、ヒロは「しぃ……」と人差し指をこちらの唇に当てて、目線を上にあげた。
真っ暗な高架下の中、均等にライトが歩道を照らしていて、それで『きこえて』って心の中で望んだら、本当に音が聞こえた。カケルには歌声に聴こえた。どこか低い、ハスキーなその歌声は、目の前の憧れの人の声質にひどく似ていた。
「……聴こえる」
「良かった、聴こえるね」
「はい」
カケルはそれが聴けたのが嬉しくて、顔を綻ばせるとヒロを見上げた。ヒロもそれに嬉しそうにするが、どこか痛みを耐えたような瞳を伏せた。
「ね。ちゃんと願えば聴こえる」
「は……ぃ」
「お前、今日これからどうするの?」
「……ヒロすわんこそ、今ドラマの撮影中じゃないんですか?」
「そうだけど、今夜は撮影もないし、明日はオフだったりもするよ?」
「あ、そうですね。でもだからってこんなところに」
「お前だって、一緒でしょう?」
「はい、その」
何とも歯切れの悪いやりとりのあと、カケルは恥じらって長い睫毛を伏せた。すると、正面に立ったヒロはなんとも言えない表情に顔を歪ませて、耐えきれないようにこちらを抱きしめてくる。「ごめん、ごめんね」と耳元で聞こえて、その振動に心底腰が震えた。
「俺」
「っ……」
「おれ、『しあわせ』になりたいんだよ。それって駄目なことなのかな?」
「だ、めじゃないですよ」
「だったら……!」
「ヒロすわ、『僕』は……」
いっそ清々しいほど素直に一人称が変わってしまって、それに気づいてカケルは赤面する。
「ねぇ、カケル」
「はい?」
「俺、キングになったよ」
「知ってます」
見ていたから……。その返しが酷く心許なく、まるで夜の重たい暗さに溶けていってしまいそうに思えた。湿度がどっと上がった気がする。ヒロの心臓がばくばくと脈打っている。胸同士を合わせるなんて、まるで心臓の中を初めて人に見せるかのように勇気が必要だった。
「別に、誰かとの恋愛はなんにも足枷にならない」
「……っ」
「だって、俺もう一人じゃない。みんなもいるし、お前だっていてくれるでしょう?」
いつの間にか、頭上から流れる歌が止んでいた。肩越しにどこか必死に自分に注ぐ言葉は、ずっと彼がそうであれば良いと、そうであってくれと願っていた内容で。涙がぎゅっと柑橘を絞ったみたいにくしゃくしゃの顔から流れ出して参った。
「うぅ……っ」
「好きだよ」
そのまま囁かれて触れた唇は冷たかった。「も~なんで人生でこんなブサイクの時にぃ」とカケルはヒロの肩に顔を埋めて照れ隠しをするが、「そ? お前が可愛くなかった時なんてある?」と王子様模範解答みたいなことを言ってくるのが速水ヒロだ。
思わず笑いあって、抱きしめあう二人にはもうあの歌声は聴こえてこなかった。
もしかしたら恋心が呼び合っていた音なのかもしれないな、なんて気障な結論に至ったのは次の朝になってからだ。カケルは寮の自室のベッドに沈む、真珠みたいに綺麗な大学生の髪の毛をわずかに顔から避けてベッドから降りる。
「わわ……」
するりと意外に逞しい腕がカケルの細い腰に回る。時刻はまだ午前五時手前だ。「もう、起きるの?」とポヤポヤとして聞かれたので「シャワー浴びてきます」と顔も見れないでやっとこさ答えた。すると、「まだ駄目」っと速水ヒロはカケルの腰あたりにグリグリと額を擦りつけてくる。
「ちゃんと昨日の返事して、俺に『好き』って言ってくれたならいいよ」
だなんて言い出すものだから。それからカケルが絞り出すように「すき」と答えるまでたっぷり一時間を要した。件の高架下には、UFOの代わりに青年のカップルが度々目撃されるようになり、数年後二人は電撃入籍をして世間をあっと言わせるのだ。
あとはもう、笑うだけの人生だ。
<おしまい>
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