乱数はもう機嫌が最高潮で、ニコニコ笑いながら最後の一欠片となった白桃のタルトを口に放り込んだ。幻太郎は甘味地獄に来てくれた恩もあるものだから、もうそれ以上何も文句は言わなかった(支払いは編集さんがして行ってくれたらしい)。
二人はカフェの前で別れると、乱数はその足で酒を買いに向かう。幻太郎がまだ視界の先にいるのにこれみよがしにタクシーを呼んで、高級スーパーへと向かった。乱数の冷蔵庫には、必要最低限の物しか入っていないことが多いからだ。
* * *
タクシーを下りながら少し買いすぎたことに後悔する。有栖川帝統はジャブジャブとした日本製のビールが好きみたいなので、リッチテイストの生ビールを六缶も買い込んでしまった。ヨロヨロとタクシーから下りると、その荷物を受け取る長い腕があった。
この季節のせいなのか、少し日に焼けている。乱数が買い与えた、冬場に着ているコートに似たレインコートを羽織って、中にはいつから着ているのか分からない黒いTシャツを着ている。それでも夏の帝統はそれほど臭くない。公園などで水を浴びているせいかもしれない。
「もう着たの? はやくない?」
「暑さが限界だった」
「はは、違いない」
少し車内から出ただけで、乱数の耳の脇から汗が頬を伝って、「四十度馬鹿にできねぇな」っと思った。日射がやばい。ふらつきかけるのを帝統が控えめに支えてくれる。「ありがと」とにっこり笑いかけると、また警戒を忘れたような笑顔が満開に降ってくる。
「この男、何度痛い目にあっても懲りない」
と些か呆れながらも一緒にタワーマンションの入り口へ向かった。今はこんな風に通いの猫みたいだが、有栖川帝統はそれほど人に心を許すタイプではなかった。それが自分と同じ感じがして、乱数は帝統のそんなところを気に入っている。
「もー帝統ってば久しぶりじゃない? 幻太郎のところばっかり行っちゃってさ」
「幻太郎のとこばっかじゃねぇ、理鶯さんとこだって行ってる」
「そうじゃなくて、僕のとこ来ないって言ってんの」
「んー……」
がさがさと荷物を持ったまま、エレベータの壁に背を預ける帝統は、借りてきた猫みたく大人しかった。「おまえんち広くて落ち着かない」というような言葉は、なぜか帝統からは聞いたことがない(彼の出生を予想すると、それは当たり前かもしれない)。
「その、だってお前しつこいんだもん夜」
と、エレベータから出るときにごにょごにょと言い残して先に出て行く。青いボリュームのある髪の毛に隠れている耳が赤い。それで乱数は何を避けられていたかに気づいて、「なるほど」と頷いてから彼の後を追った。
「も~何でそんな嫌がるかなぁ、幻太郎には抱かせてるんでしょう」
「一宿一飯の恩があるからな」
「そんな言葉知ってることにびっくりなんですけど」
「乱数、俺別に馬鹿なわけじゃねぇからな」
「バカじゃん」と口の中で呟きながらニコニコと相手を見上げると、急にこちらを意識し出したのか赤面した。おやおやと思いながら、荷物を持った腕にするりと腕を回す。健康的な肌、乱数の白さと違ってまるでサバンナの獣みたいな……。
「乱数」
「誰も見てないよ、ホラ! 人っ子一人いないでしょ?」
乱数が言うように、まるでラブホテルで客同士が遭遇しないような感じで、乱数のタワマンの廊下には生き物の気配すらなかった。荷物を持たせて、乱数を腕に引きずった帝統は酷く歩きずらそうにしている。
「僕にだってあるでしょうが、『一宿一飯の恩義』」
「おめぇ一回で終わらねぇじゃねぇか」
「じゃあ一回だったら良いの?」
「……飯食ったら考える」
「あはは、帝統ぅ手堅いねぇ」
そう言いながら指紋認証で乱数は自室の扉を開ける。先に促して帝統を入れるが、後ろ姿の帝統はガシガシと頭を掻いて調子を崩したようだった。乱数は殊更無邪気を装って帝統の背中をボンボン押して廊下を進んだ。
「とりあえずお風呂行ってきて、お風呂」
臭い、くさい! と今更叫ぶようにしながら帝統をバスルームに押していくと「莫迦を言え、昨日水浴びしたばっかりだぜ」と唇を尖らせる。チューしたろうかい、などと不埒な考えが一瞬浮かんだが、せっかく家に引き入れたのだ警戒して帰られたら困る。
「服が臭いんですぅ~」
と真実を告げて脱衣所に押し込めた。「バスタオルはどれ使っても良いし、下着は下の棚のところに未使用のがあるから。脱いだ下着は洗濯機入れないでね、捨てるから脇のゴミ箱の中でいいよ」と扉越しに声をかける。
「え~、もったいねぇ」
「どうせ穴空いてるんでしょう?」
「ケツのとこ一個だけだぜ」
「ブー残念~、僕の家でそんなもの着るのは許しません」
「チェー……」
帝統がそれでもゴソゴソと服を脱ぎ始めた気配がしたので、乱数は踵を返して台所へ向かった。買ってきたビールなどを、一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫に一つずつしまっていく。Uber Eatsを頼む用のタブレットを机の上に持ってきて置いて、ふと気になって寝室に向かう。
あらかた片づけたつもりだったが、まだ『匂い』は処理しきれず、部屋にはまだグリーンアップルの匂いが立ちこめるようだ。乱数は消臭スプレーで部屋中をシュッシュして、エアコンの機能で『換気』を押すと、掛け布団とベッドのシーツを手早く変えた。
乱数は小柄だが身体的には男だし、女性も男性も家に連れ込みがちなので、こういったことぐらいなら難なくできる。使用済みのシーツは、一時的に広い寝室の隅にある、籐でできた大きな籠の中に放り込む(帝統が風呂から上がったら洗濯機に放り込むことにする)。
徐々に部屋中の甘ったるい匂いが薄れてきたと感じたところで、少し疲れてしまった乱数は綺麗にベッドメイクしたベッドの上で丸く倒れ込んだ。部屋が浄化された心地良さで、少しウトウトしてしまうと、意識がなくなる直前でバターンッと寝室の扉が開いた。
「お、もう寝てんの?」
「帝統ぅ、はやくない? ちゃんと髪の毛とか洗ってる?」
「洗った」
<続く>
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