sugu_yoru
2020-09-05 00:19:19
5271文字
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青は消えた(カラ十)

フォロワーさんにささげたものです。『青』という色の概念が消えた世界。
2016年10月頃書いたものです。

 信号が緑に変わる。少しぼうっと立っていたら、チョロ松兄さんが肘でボクを歩くように急かす。ボクはスリッパを少し突っかけながら「お」って声を出して足を踏み出した。そのままポンポンと調子めいて足が進んだ。
「緑は進め!」
「はは、そうだね」
 振り返って兄の表情を見ると、チョロ松兄さんは眉をハの字にして笑っていた。何だか切な気に思えて、僕は口を噤む。兄さんは瞳を伏せてボクの隣に追いつくと、ボクが遅れないようにそっと背中に手のひらを当てて来る。
 ボクは何だか後ろ髪引かれる思いで来た道を振り返った。誰かがボクを、ボクらを見ていた気がした。その人は見たこともないような美しい目の、色を、した……。背筋がシャンとしてボクたちをまるで見守るようなのだ。
……だれ?」
「十四松!」
……、はっ!」
「危ないよ、お前。早く渡ろ」
 パッパッパっとチョロ松兄さんがテンポ良くボクを伴って駆けた。緑色の信号は、ボクらを急かすみたいに点滅する。あれ? 信号って……、こんな感じだったっけ? ボクは袖を口元に持ってきて首を捻った。
 渡りきると、チョロ松兄さんがボクの顔から目線を逸らせて、気まずそうに手のひらを握って来た。成人して、しかも往来でこんなことされたこともなかったから。ボクは少し驚いて、繋がれた腕をぶんぶんと振る。
「僕さ、明日面接なんだよ」
「知ってる! だから新しいハンカチと靴下買って来たんでしょ?」
「結構良い企業なんだよねー……、だからさ受かったらさ」
「あい」
「ちょっと落ち着いたらさ。『お前ら』くらい、僕が面倒見てやるからな」
「え?」
 ボクは立ち止まった。手のひらは振り解けた。『お前ら』って。「一体誰のこと?」ってボクは反対側に首を捻る。チョロ松兄さんは言い間違いに気づかないようで、そのままワシワシと家に向かって進んで行く。トト子ちゃんの所で買った、佐渡産の百円のズワイガニが、窮屈そうに袋の中からボクを見つめていた。

 空は曇りで、重たくて白い雲が広がっていた。ボクは一人でそれを眺めている。珍しく煙草を吸いに、おそ松がよっこらせっこら瓦を慎重に降りて来た。あ、靴下の親指部分に穴が空いている。ボク知ってる、それって『オハヨー靴下』って言うんだよ。
「よっ、一人?」
「絶賛!!」
「はは、元気だな」
 かいぐりかいぐり。頭をグナグナと撫でられて、僕は公園のレトリバーのように目を細めて亀のように丸まった。兄さんはボクの首の後ろをぱんぱんと気休めに撫でた。長男って何だかやっぱり格好良いよねぇ?
「ねぇ、おそ松兄さん」
「んー?」
「空ってこんなだったっけ?」
「空ってこんなっしょ、あー今日も白いわね」
 やれやれと言った感じで、おそ松兄さんが白い煙を白い空に向かって吹きかける。何だかとても寂しい気持ちになった。「う…………も」っと。ボクの口から『海』って言葉が出て、おそ松兄さんは驚いたようだった。煙草の灰が零れ落ちて、屋根の上に流れてゆく。
「海は今日も『透明』でしょうよ」
 そうやって、『色』はやっぱり教えてくれないのだ。ボクは海に行ってみようかなって漠然と思った。「……変なこと考えてんなよ?」とおそ松兄さんがボクの首の後ろをわしりと掴んだ。それは有無を言わせない感じで、長男ってやっぱり何だか怖いって思ってボクは大人しく口を閉じた。

「あーもう暇だねぇ? 兄さん」
 ボクの唯一の弟。トド松。凄く久しぶりってか、一緒に釣り堀に来るの初めてなんじゃないかなぁ? でもボクはそれが言い出せずに、トド松の脇で椅子の上に胡座をかいて、ぶらぶらと釣り竿を揺らした。
……兄さんちゃんと餌つけてる?」
「ぜーんぜん?! エサいんのぉ?!!」
「いるよー、まぁ手紙よりはマシだけどさ」
「手紙?!!! トド松ぅ、馬鹿なこと言うね!!!!」
「もう、もう止めてよ。兄さんに言われたくなーいー」
 しっしっとばかりに前を向けと促される。酷いなぁ。ボクは餌をつけ忘れた釣り針の先をじっと見つめた。水は緑っぽく濁っていて、その先は良く見えない。
……そういうこと、してた人がいたのっ! それだけの話だよ」
「えー誰ー?! だれー?! トッティ友達多いっすな!!!」
 あれでしょ? えーっと、そーっと『ツヨシ君?』って脳内で考えてたら「『アツシ君』だよ」って横でトド松がため息を吐いた。すんげぇ、ボクの弟ってばエスパーなんだ。
「ねぇ、兄さん」
「なぁに? トド松」
……寂しくない?」
「それは、トド松の話じゃなくて?」
 ボクが聞き返すと、トド松が大きく目を見開いた。その丸い目元が雫で見る見る覆われて行く。トド松はそれを振り切るように瞳を伏せてから顔を背けた。
「なぁんで僕がぁ? 僕何でも一人で楽しめちゃうタイプなんだからね!」
「でも今日はボクを誘ったじゃなーい!」
……っ」
「楽しいね? トド松」
「五月蝿い」
 魚、逃げちゃう。と答えたトド松の声が震えてた。ボクは餌がついていないのにボクの釣り竿の周りを黒いシルエットがくるりと回るのを見た気がした。トド松が言う通り、魚は水を跳ねさせて、そのまま僕らから遠くへ逃げて行った。

 夕飯の後、父さんが新しく買ったサングラスを兄弟で面白おかしくいじっている。西武警察に出て来そうな、ブルドックみたいな大きい垂れグラサン。何だか、サングラスって他に家にあった気がするんだ。
「ねぇ、それじゃなくってさ。もっと三角形の、格好良い奴うちになかったっけ?」
 ボクだけ立って、他の兄弟は座ってた。一松兄さんだけ、その場にいないのが少し気になったけれど。ボクの言葉に、卓袱台に座る、三人の兄弟が揃って顔を上げてボクを見つめていた。
「そんなのないよ」
「記憶違いじゃない?」
「それはそれで、格好良いかもね」
と言って、三人はそれぞれスマフォを見たり、求人雑誌を見たり、テレビを見たりゴロゴロし始める。ボクは何故だか悲しくなって、父さんの垂れ目のサングラスを卓袱台に置いて項垂れた。

「十四松」

 襖を半分くらい開けて、そこに一松兄さんが顔を半分だけ出している。名前を呼ばれただけで『ついて来い』という意味だってボクは分かるもの。
 そのまま兄さんに連れられて階段を登った。二階に上がると、そこには大きな模造紙が広げてある。「何? 何?! 何コレ?!! 何スンノ?!!!」って叫んで傍にしゃがみ込む。
 兄さんは僕と向かい合うように座り込んで、真っ白いプラスチックのパレット(きっと百円均一の物だ)と水を入れた黄色くて四角いバケツを傍らに置く。
 黒ジャージから取り出した、銀色の水彩絵具のチューブに巻かれていた紙の色は見たこともない色だった。目も覚めるような綺麗な色で、それが兄さんのポケットから出てきた瞬間に、あたりの色がグレイッシュに見てしまうほど美しい色だと思った。ボクはこの色の名前を知らない。だのに、何でだろう、見ているだけで涙が出てしまうように胸を掴まれる。
 懐かしいような、焦がれるような、この気持ちの名前も知らない。ボクはいつも開けっ放しで注意されがちな口を思わず閉じてしまうように息を呑んだ。そうしたら目の奥が痛んで雫がぶわわっと出てきた。
 まるで、イヤミの出っ歯のように誰かに後頭部を叩かれたような唐突さでバタタと零れ落ちて、それでいてそれは壊れてしまった蛇口みたいに止めることが出来ない。
 せっかく綺麗だった真っ白い模造紙の上に、灰色のシミをいくつも作る。「兄さん……」って、少し弱って声を出したけれど、一松兄さんはボクを少し一瞥しただけで、パレットの白にその美しい絵具をひねり出した。実際のその絵具の色は、それこそ心が爽快になるような、霧が晴れるような美しさを持っている。
「兄さん、それ」
「これ? 何でだろう持ってたんだよね。多分、お前のために持ってたんだと思うよ」
「ボク?」
「見ててみ」
 そう言ってその色の傍に出したのは『黄色』、ボクの色だ。水と筆で掻き混ぜられると、何と『緑色』になった。チョロ松兄さんの色だ。それを兄さんは白い模造紙に遠慮なく塗って行く。
「森だ」
「森だね」
 四方をもりもりと塗って行って、一度筆を洗うと、今度は『赤色』をパレットに出した。それを先程の綺麗な色と混ぜ合わせると『紫色』、一松兄さんの色になる。
「これの、色の割合を変えて、水足したりすると……
「『ピンク色』!」
「そう、俺たち下の三人には必要な色だよ」
「何で忘れてたんだろう」
「でも思い出したんでしょ?」
 いつの間にか、模造紙の中には空が広がっている。夜の空。ああ、そうだよ。空ってこんな色だったよ。まるで森の中で星が瞬く空を見上げているような絵が出来上がった。
「お前が、忘れたくないと思ったんじゃない?」
「強い、色だね!」
……優しい色だよ」
 優しい、色。ねぇ、この色。ボクのこと知っているの? ねぇ、ねぇ。ねぇってば。ボクはこの色が好きだった? いや、違う。『誰』のことが、好きだったの?

「『青』」

「そう『青』」
 一松兄さんが立ち上がる。ベランダに向かう大きな窓を、両腕で思い切り開いた。外は宇宙空間みたいだ。惑星が本当にすぐ傍に見える。青い空は煌めくようで、そのずっと向こう側に、『あの人』がいるってボクにはすぐに分かったよ。
 空には青を、あの人には……、一体何をあげたらいいんだろう? 「行かなくっちゃ」と言ったボクに、少し寂しそうに一松兄さんが頷いた。ベランダに登って、柵に足を掛けた瞬間、二階の部屋になだれ込むように三人の兄弟が押し入って来る。
「僕はちょっと心配なんだよなぁ」
「まぁ向こうにも僕たちはいるだろうし、大丈夫じゃない? それともシコ松兄さん一緒についてく気?」
「なっ、僕だってそこまで野暮じゃないよ」
 トド松とチョロ松兄さんが口論している。その二人の間で、おそ松兄さんが何だか眉を下げて鼻の下を擦った。「いやー引き止めようとは思ったんだけどね」とちょっと元気ない声で言った。
「俺、てか俺たちってばさ。やっぱそういうの、向かないみたいだわ」
 そう言っておそ松兄さんがボクの背中を押す。ボクはあっという間に宇宙空間に身体ごと飛び出してしまって、最後にこちらに手を伸ばして来たトド松と手を握れなかった。
「向こうの俺らにも宜しくな! 十四松!!」
「また、逢える?! 兄さんたちとトド松に?!!」
「また逢えるよ十四松……っ!」
 ボクらが生まれ育ったボロい一軒家が、星々に混じって小さくなって行き、あっという間に見えなくなってしまった。ボクは最後に「またね」って手を振って前を向き直す。
 すると、青の向こう側で「……ぃま……つ」って僅かに聞こえた。低く、美しい声だった。それが宇宙空間に凛々と響いて、ボクに迫って来る。
 ドキドキする、わくわくする。だってこれから逢えるのは『あの人』でしょう? ボク本当に好きだったんだよ。本当だよ?
「か」
 ああ、憶えているじゃないか。あんなに好きだったのだ、忘れていたことの方が嘘みたいだった。姿が見えない内から手のひらを袖の外に出してめいいっぱい伸ばす。
「カラ松にぃさあーん!!!」
「オー! マイリルじゅぅしまーつ!!!!」
 声と同時くらいに青いボクとお揃いのパーカーを着たカラ兄さんが、ボクとそっくりな顔したカラ兄さんが、袖を捲った逞しい腕をボクに向かって伸ばしながらこちらに突っ込んで来る。
 無重力の中些か乱暴にボクらは抱き合って止まった。ガハハと笑いが止まらない。ボクは涙が出そうに嬉しいのに、ずっと笑ったままでカラ松兄さんに尋ねる。
「カラ松兄さん! 今までどこ行ってたのさー?!」
「オー、マイリル……、それはこっちの台詞だぜ? 俺がさっきまでいた世界では『黄色』って概念すらなくなってたもんさ、ボーイ」
「うは! ウッケる~!! こっちもね『青』がなくなってたんだよ、ウケるでしょぉ?!」
「それは……笑えないな」
「どーしてこんなことになってんの?」
「うーん、俺が思うに、俺たちは互いに互いを諦めようとしていたんだろう。それで世界が別れてしまった、そんなところじゃないかな?」
「うーん、うーん。全然分かんない!」
「はは、じゃあ仕方ないか……
 カラ松兄さんはボクを持ち上げるようにして、下から恭しく触れるだけのキスをした。僕らの身体はまるで地球みたいに見える青く美しい星に向かって落ちている。
 きっと、その先には四人の兄弟が待っていることが確信出来た。「ああ、良かった」と頭の中で考えながら、ボクは柔らかいカラ松兄さんの唇に答えるのに夢中になる。
 宇宙空間では青い世界と黄色く煌めく星々が、ボクらが恋に落ちて行くのを、ずっとじっと見守っているように感じられた。

<了>