sugu_yoru
2020-08-03 01:35:04
8616文字
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【ヒロカケ】ばくばくと均整は崩れる1


【HIRO SIDE 1】

 六月も後半になった。新緑の色が日にひに濃くなり、伸びた樹々に背の高い車はわずかにぶつかりながら進む。黒いワゴン車の後部座席に座った速水ヒロは、黒いスモークガラス越しに、橙色から藍色に染まる空を眺めていた。
 日が暮れるのが遅くなった。ぽつぽつとやっと街灯がつきはじめる。寮の夕餉に間に合うようにワゴン車が急いでくれている。心地よい振動で、後部座席のヒロ以外の二人は夢の中だ。流れて行く光の筋を目の端に写して、ぼんやりと最近のできごとを頭に巡らせる。

 キングになって、オバレが復活して、大学に入って。もっと生活自体変わるものかと思った。全国各地でのライブ、CM、ドラマ、今まで通り忙しく、そんな中でもたまに母親と過ごしたり寮に泊めてもらったり……、思ったよりも楽しく過ごしている。
 目まぐるしい毎日の中で、風が隙間から通り抜けていくように、涼しさを、寂しさを感じる瞬間ってのは確かにあって、そんなささくれみたいな痛みはもう慣れっこになってしまったようだった。
 十王院カケルは速水ヒロに対して相変わらず礼儀正しかったし、ほとんどキャラを崩すということがなくて、それは自分たちで選んだ道とはいえ正直心地よく、彼がそれで良いならヒロもそれでいいと……、思えなくもなかった。
 黒い移動車は地味で、その後頭部席でオバレの三人丸ごと揺られていると、どこかに拉致されてるんじゃないかって妄想に発展してしまう。だまりこくったヒロをそのままにして、幼なじみの二人はようやく目を覚ましたようだった。
「ふあぁ、良く寝た。もうこんなとこまで来たね、カヅキ」
「ん……、だな」
「ねぇ知ってる? もうすぐ通る高架下なんだけどね」
「ん? なんかあそこあったっけ?」
 ヒロはぼうっとしながらも、二人の他愛のない話にこっそり耳を傾けた。神浜コウジの瞳が、黄色く透けて悪戯っぽく煌めいている。
「なんかそこでUFOの目撃があったってネットで騒いでてね」
「コウジそれネットで知ったのか?」
「いや、いとちゃんが言ってた」
「あー、そう言えば空になんか黒いゴミみたいのが浮いてる写真、この間あんとわかなから時間差で届いたなぁ」
「それカヅキなんて返したの?」
「え? 『すごいなー!』って」
「心がこもってないなぁ」
「『バーニング!』も入れたら良かったかな」
 カヅキがそう返すのが面白くて、思わず吹き出してしまった。そうしたらコウジが肘でこちらを突いてくる。ちょうど車も右に曲がったので、尖ったその部分が酷くヒロに突き刺さった。痛いのに笑いが止まらない。
「ふふふ、ゴメン……!」
「あー、ヒロ起きてやがった!」
「狸寝入りー!」
と二人が嬉しそうに笑う。ヒロはそれをくすぐったく感じて話を元に戻した。
「で、高架下が何だって? カヅキが普段いるとこ?」
「いや違う、次信号渡ってくぐるところだろ?」
「そうそう」
 赤信号で止まっていた車が、コウジの相槌とともに走り始める。ヒロも何だかわくわくしてしまって、黒っぽい硝子越しに空を見上げる。すぐに灰色の屋根の下に突入してしまって、その時に『音』が聞こえた。
 哀しいような、愛しいような……。音楽というより誰かの歌声に聞こえた。それが誰か知ってる仲間の歌声にも聞こえた。
「!」
「どうしたんだい? ヒロ」
「い、ま聞こえた? 二人とも」
「何がだ?」
「誰かが歌ってた、とっても綺麗な声で」
「誰かの携帯鳴ったかー?」
 カヅキが首を傾げるし、コウジも「んー、ヒロ疲れてるのかもね」と返して軽く頭を撫でてくれた。こういうの、こういうことがあった時に。去年まではすぐに連絡する相手がいた。でも今は、していいのかなって弱気にも思う。

* * *

【KAKERU SIDE 1】

 車に乗り込んだ瞬間にネクタイを緩めた。会社のことで、少し根を詰めているかもしれない。こんなに父親を困窮させているのは久し振りな気がしていた。
 そういえば華京院学園に無理を行って編入した時もちょっと困っていたかもしれないな……。しかしどうにかしないと国外へ追放されかねない。ここが踏ん張りどころだなと思う。
「そう言えば知っていますか? 一男様」
「へ? 何?」
「この先の高架下でこの間、ちょっとしたUFO騒ぎがあったんですよ」
「あ、それ知ってるよ。こないだなんかネットでも騒いでて、この先なのかー、もしかして通る?」
「通りましょうか?」
「え、いいの? 頼むよ~」
「了解です」
 まだそこそこ若い男性の運転手は、どこか嬉しそうに信号のところで右折した。思わず後部座席で苦笑する。寮につくのがますます遅くなってしまうが、たまにはいいか。
 車の窓から外を眺めると、空は曇り空で星すら見えない。もし未確認飛行物体がいたらすぐ分かるくらい薄暗い空だった。そしてスラーっと高架下の交差点を抜ける時に、はっきりとメロディラインがカケルの耳に届く。
……、今の聞こえた?」
「はい?」
「今、誰かが歌ってたでしょう?」
 顔を運転席に突っ込んで指摘するが、運転手はちょっとビックリしたように赤面して「いや、何も」と答えるだけだ(もしかしたら社内のファンクラブの一人なのかもしれない)。
「? 僕ちゃんだけに聞こえたのかにゃー……
「専務、どんな歌声でしたか」
「男の人の歌声だと思うんだけど」
 何だか泣いてしまいそうに切ない声をしていた。全く違う歌、声ではあったが何となく速水ヒロのことを思い出した。『プライド』を歌う彼を見るときに、同じような感傷に襲われることがあるからだ。
「ヒロすわ……
「専務?」
「いや、ごめん。寄り道させちゃって、帰ろっかぁ」
 そう言うと運転手がミラー越しに安心した笑顔を向ける。車は旋回して、今度こそ寮に向かうのが分かった。何だか自分だけに聞こえたのが嬉しいような寂しいようなそんな心地でカケルは座席に深く凭れた。

 ばくばくと均整は、音を立てて崩れる。

* * *

 二人は特に何かあったようには周りには見えなかっただろう。それぐらいに表面上隠すのが上手いところは似ていたと思う。元々、神様みたいに勝手に尊敬して心酔していた、独りよがりな愛情だった。今が健全で正しい姿なのだと思っていないと、生きてなんていけませんて。

「あ……
 寮に入ると、管理人室の手前にオバレの三人が立っていた。三人揃ってとはまた珍しい。山田リョウが「おかえりー」って間が延びた声でカケルを迎え入れる。三人もこちらに振り返って笑顔が花咲いた。
「お、カケルー」
「やあ!」
「元気かい? カケル。帰ってくるの遅いねぇ」
 そう次々と声をかけられてそのきらめきに圧倒される。泣くとかとはまた別の意味で目がつぶれそうに感じる。フラフラと革靴で二、三歩後ずさった。
「うっ、まぶしい!」
「何が?」
「もう、夜だよ?」
「はい、そうなんスけどね……
「カケルおなか空いてない? 何か軽く作るけど一緒食べるかい?」
「ああ、でもミナトっちがきっとご飯用意してくれてるので」
「わーいいねぇ」
「そうなんですよ」
 友達のこと褒められるの嬉しい。少し照れながら三人の元へ向かうと、神浜コウジがまるで女性をエスコートするように自分の左脇に招き入れて、先にキッチンへ行けるようスマートに誘導してくれた。思わず少しだけ振り返って、速水ヒロの顔を見る。パチリと目が合うが、まるで幼女のようにニコッと微笑まれて耳が熱くなった。

 速水ヒロと十王院カケルは、約一年前に身体の関係があった。ほぼ夏の間だけ、二ヶ月くらいのもんだったが、若い二人はそれなりに身体を重ねたし、お互いしか見えなくなって、ひどく愚かだったと思う。未来が見えないと言うか、自分が特別になってしまう速水ヒロに不安を感じてしまったのはカケルのほうだった。
 このままでは速水ヒロが、自分が好きだった速水ヒロでなくなってしまうとすら感じた。だから自分の方から終わりを告げた。ズルいカケルは、忘れ形見のように最後に肌を合わせてからだったけれど。この記憶を抱いていけるなら、いっそ死んでしまってもいい……、だなんて思えた。思春期の一時の気の迷いに違いない。
 それを告げて、仕方ないとばかりに微笑んだヒロの顔がどことなく安心して見えたのは気のせいだっただろうか。とにかく、裸のまま乙女座りをして、うつむいて、目ばかり乾いてしまったように。カケルは涙なんて一つも出せなかった。
「あれで、良かった」
 良かったよかった。活躍するヒロを眺めて、何度も自分が納得するように言い聞かせていた。ただ、彼がほしいもののために努力することを、惜しまず協力できたなら。だって、何だってやってあげたい。誰より頂点に立つあの人の姿がみたい。ただ、それだけ。
 自分の気持ちなんて二の次で良いんだって、それは何だか矛盾している気もする。でも、どうか必死にそれをして。そうして、あの気持ちを忘れないでいて。
 とりあえず彼のためにできることを全部した。彼が王冠を被るところで、瞳がつぶれてしまうかと思った。通路を渡ってみんなのところへ向かう。それまでにどうか、涙よ止まってくださいってそう念じながら、それでも早足に会場に向かった。

「わーオムライスだねぇ、今日は。美味しそう!」
 コウジがカケルの肩越しに冷蔵庫を覗いて感嘆を上げる。流石ミナト、サラダやフルーツなどプレートに全部納まるように作って用意してくれていた。冷蔵庫から持って行くだけで食べられる。カケルはそれを持ち上げてオムライスだけチンすると、食堂に向かう時に丁度ヒロがキッチンへ入って来た。
「コウジ! 何か手伝おうか?」
「あ、頼もうかな。カケル、飲み物は持ってるかい?」
「あ、おれっち鞄にミネラルウォーターあるんで」
 はやく退出したい。ヒロがすれ違う時に「とっても美味しそうだね」って微笑まれて、「とっても美味しいんですよん♪」と浮かれて返すことができた。二人は何やら背後で楽しそうに会話をはじめるし、カケルは逃げるように食堂へ向かった。
 食堂では、仁科カヅキがテレビ番組をザッピングしている。彼なら言えると思って、「カヅキさん、すいませんけど僕ちゃんまだ仕事が残ってて、部屋でこれ食べますね」って丁寧に伝えた。
「おー、残念だな。鞄持てる?」
って男前に心配してくれる。カケルは一度テーブルにプレートを置いてから、鞄とそれを器用に持ち直して「ジョブっすよん」って笑って食堂からも逃げて二階へ向かった。自室を開けるときが、実は一番大変だった。

 机の上に、「今日までに聴いて感想をくれ」と言われている涼野ユウの楽譜とCDが置かれていて、メモに走り書きした感想を清書して渡さなきゃなとぼんやり考えるが、とりあえず熱い内に鷹梁ミナトが作ったオムライスをいただくことにした。
 口の中でぱらぱらとケチャップご飯がほぐれて、疲れも一緒にほぐされるようだった。バターの香りが食欲を誘って、あっという間に食べ終わってしまった。鞄からミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干すと、スーツ姿のままベッドにうつ伏せに飛び込んだ。
 「とっても美味しそうだね」だって……。声、あんな間近で聞いたの久しぶりだった。そう思ったら、食熱のせいなのか何なのか。体が急にカッカと熱くなった。もぞりと右手を下肢に這わせる。自慰自体久しぶりな気がする。
 まだ硬くなっていないそこをシャリシャリする生地の上からきゅっと握る。刺激に期待して少し膨らんだ気がした。それと同時にわずかにノックの音がして飛び上がる。本格的に何かやらかしてなくって良かったと思いながら返事した。
「はい?」

「カケル、俺だよ」

 その、どこか強くて凛とした声に。カケルはベッドに両腕をついたまま一瞬返事をするのを忘れた。だって。だってだって、先ほどまで脳裏に浮かべていた人物だったからだ。四つん這いになって顎を上げた。
「あ……
「カケル?」
「あ、はい。開いてます」
 そうだ、鍵はかけていなかった。だのにあんなことをしかけてと思い至って赤面する。遠慮がちに扉が開いて、速水ヒロがそれはもうキラキラとした面もちで立っていた。「ご飯もう終わった?」って待ちきれないように聞いてくる。それでも無遠慮に部屋に入ってこないのが大人だなって感じる。
「あれ? 寝てた? 具合悪い?」
 カケルの顔色に急に気づいたのか、そう言いながら入室してきそうに感じたものだから、「いえ!」と些か大きい声を出したら一歩だけ踏み込んで入っては来なかった。でも、扉に添えられたその美しい指先が、この部屋で自分に向かってのばされたことを急に思いだしてしまった。
 あの指先が、カケルのボタンを全て外した。手のひらを差し入れて、腰の後ろの窪みを撫でてくれた。そのまま手はうえに上がって行って、髪の毛と頬の間に両手を差し入れられた。顔を斜めにして、唇を押しつけられた。
 ますます、立てないくらい体に堪える。部屋の中を、食べたばかりのオムライスのケチャップに混じって、速水ヒロのシャンプーだか、柔軟剤だか、香水の良いにおいが漂っている。あの匂いに包まれたなら、そんな想いを吹き飛ばすように笑顔を作った。
「ちょっち疲れちゃっただけッスよ~」
「そっか」
「ヒロすわんこそどうしたんですか?」
 そう、座り直してから聞き直すと、ヒロは少しホッとしたように再び話し始める。内容をはやく共有したいのか、妙に早口で音も高かった。いつの間にか両脚ともドアの内側に入って来ている。
「なんか最近UFO騒動があったの知ってる?」
「ああ、はい。寮でも少し話題になってましたから。高架下ですよね?」
 まさか、と胸が震える。もしかして同じ『音』を聞いた? 顔に出ていたのだろうか、ヒロが一瞬それを察したように真顔になった。
「カケル、お前もしかして……
 ドアを抑えていた腕を離して、今度こそ速水ヒロが部屋に入って来ようとした瞬間、閉じかける扉の向こう側から「カズオ?」って声がして、黒髪がひょいっと覗き込んできた。
「お前、ユウの音源……、って。ばんは、ヒロさん」
「やぁ! タイガ」
「なんか、すんません……邪魔して」
「いいんだよ。あ、カケル、さっきの件はラインするからさ☆」
「あぁ、はい」
 楽しみに、しています? なんかそんな風に返して、でも速水ヒロはそれで満足だったのか、タイガと入れ違うように部屋から出ていってくれた。タイガは頭を掻きながら入室してきた。カケルは少し脱力して、眼鏡の上から片手で顔を覆った。
「あー……タイガきゅん」
「おぅ」
「ありがとう。曲、僕ちゃんもう聞いてるから明日の朝渡すってユウきゅんに言っといてくんにゃいかな?」
……わかった」
「オバレの三人が来てるんだよん。今食堂行けばきっとカヅキさんに会えるよ」
 そう、顔も見ずに伝えたけれど、部屋から出ていくどころかベッドに向かって歩いて来た。え、ちょっとカヅキさん来てんだよ? って思ったけれど、そのまま右腕を伸ばされて後頭部を捕まれる。ぐいっとタイガの緑色のタンクトップの腹に顔を押しつけられた。
「ぶっ!」
「おめぇ、いっつも」
「なぁーにすんのさ、ちょっと」
「泣くのへったくそだよな」
……っ」
 そのあとだって、きっと涙は出なかったのに。タイガとはそういうんじゃないけれど、寮生にはどこまで分かっているんだろうって思うことが結構な割合であった。きっとユキノジョウやミナトなんかも、何か気づいている気がしている。

 きっともうあなたとはあわないでしょうというわけにもいかない。苦しい、さもしい。

* * *

【HIRO SIDE 2】

 結局あまり話ができなかった気がする。部屋をすれ違いで入るタイガの緑の瞳に、なぜだか責められているような錯覚を受けたせいかもしれない。
 もしかしてエーデルローズの寮生たちは、ヒロがカケルにしてきたことをみんな知ってるのかもしれないなって思ってちょっとだけ震えた。
 暗闇の中で、久しぶりの寮の天井を堪能していると。あの時の歌声が聞こえてくる気がして目を閉じる。泣きそうなような、切ないような、でもこれは男の人の声だ。
 ……何を訴えているんだろうか。どこから呼びかけているのだろうか。オバレの三人の中で、自分だけが聞こえるというのも何か運命的に感じた。
 少し拙くて、震えるような。情事の時のカケルのような。そこまで考えて、同じ屋根の下にいる後輩を想う。ヒロより色が白くて、意外に内側は柔らかかった。
 身体のことよりも、何よりヒロにとても優しかったのだカケルは。細かい吐息、むせ返るような甘ったるい体臭なんかを思い出して、少しだけ体がもぞもぞした。
 自分に手を伸ばそうかと思ったが止めた(ヒロは大概こういうことに関して淡白なはずだった)。もう、彼を想ってそういうことはしないって決めてた。
 だから応援だけしようって、そう思ったのだろうが。先ほど、ベッドの上で自分の体を抱きしめるようにしていたカケルの姿を思い出して、体がじわりと汗ばむようだった。

 ヒロは暗闇の中大急ぎで体を起こすと、置いてあったトレーニング用のジャージに着替えて寮をこっそり抜け出した。走れば十分くらいで件の高架下にたどり着ける。
 トレーニングにもちょうど良いし、今度は録音できないかとスマショを持ってきていた。雨上がりの夜は暗くて、星なんて見えないのが少しだけ残念だった。
 はぁはぁと正しいフォームで走る、段々と曇り空が晴れて月が出てきた。その光を見ていたら、あの夏の終わり。ただ逢いたくて国道脇を走ったことが思い出される。
 あの時の気持ちに似ている。今はどうなんだろ。本人は寮にいるというのに……。あの歌声がまるで去年のカケルみたく感じてるのかもしれない。
「どうかしてる」
 でも……
「聴けるかな……
 思わず言葉が滑り降りる。
「歌えるかな、俺も、一緒に」
って純粋に思った。ヒロは本当のところ、あのオレンジ色の後輩と一緒に、飛びたかっただけかもしれない。
 大きく水たまりを飛び越えると、高架下に辿り着いた。ヒロはやっと速度を緩めて、呼吸を整えながらその暗がりへと歩いて行く。
 ちょうど、上の道路の真ん中付近まで歩いて見上げた時に、あの歌声が裏切らず落ちて来て、ヒロは思わず落涙してしまった。だから、「ああ三回目」ってこっそり思った。

* * *

【KAKERU SIDE 2】

 あの日。ヒロがカケルに逢いに来てしまった日。車を一台呼んで、先に速水ヒロを乗せる。十王院カケルの方は朝、少し子会社の朝礼に顔を出す必要があった。車をもう一台呼ぼうと部下に言われるが、部下達は本社に用があったのでヒロと一緒に帰すことにした。
「え、何このVIP待遇」
 強靭な男たちに挟まれたヒロは、細さをより際立たせている。事態の異様さを少し面白がって、キョロキョロと両側の男たちを無遠慮に見上げている。
「別にオバレだってこういう送迎されることあるっスよね」
「さーれないよ、俺なんて徒歩で会場行く時もあるのに。コウジもカヅキも電車乗るよ?」
「まぁ、ちょっと我慢して、寝て起きたらもう東京ですから」
「寝れるかなー」
と不安そうに言うヒロが、夜通し歩いて来たことをカケルは知っている。まるで買い物に子供を一人で向かわせるみたいな心配の気持ちになって笑える。オレンジ色の髪の毛がバサバサとメガネの上を覆って、笑って細めた瞳は相手には見えなかったかもしれないけれど(風の強い朝だ)。
「それでは、専務」
「はい、ちゃんと送り届けてください」
「カケル、東京でね」
「ヒロすわん、いい子にしててくださいよ?」
 それじゃあ。袖を少し抑えて、ヒロに向かって短く手を振った。ヒロはやっと背を後部座席に沈めると、二本指をカケルにかざしてウィンクして見せた。
 黒塗りの車を見送って、自分はホームへ向かう。こんな駅にヒロは降りたのか、と驚くくらいの小さい駅だった。駅員はいるが、たった一人きりだった。
 ホームに出るが、まだ誰もいない。座り込んで、電車を待つ間、ウトウトと瞳を閉じた。あんなに時間がなかったというのにそれでも肌を重ねた、最期とばかりにそれを強請った自分を恥ずかしく思う。
 そういうの、自分たちはもっと上手にできるって頭のどこかで信じていたのにな。なんとなくぼうっとしていたら、いつの間にか眠ってしまっていたのか、電車を何本か乗り過ごしてしまったようだった(周りに人が増えて並んでいる)。
……はぁ」
 頭を抱えてため息を吐く。……この次はいつだろう。思ったらどうしようもなく哀しくなって涙がぼろっと零れ落ちた。この次なんて、ないに限る。彼のためになくさなきゃいけない。
 スマショにいくつも着信があったが、カケルは体調のせいにして、すっかり日が上がってしまってから、ようやく電車に乗り込んだ。

<続く>