山奥の村とはいえ、大手製薬会社の社長、創業者の本宅があった場所だ。哭倉村に麓の人々が足を運ぶことはあまりなかったが、それでも何か物を運んだりする折何らかの縁ができることはあるし、村の異変は地元各村の消防団が総出で対応する事態に陥った。山火事は哭倉村に留まらず、麓や中腹の村にとっても深刻な被害を与える。
トンネル内部に人が入れるようになったのはしばらく経ってからだが、そもそもトンネルまで近づけるようになるまでも日数がかかった。そして入れるようになった後も、焼け落ち、あるいは崩れ落ちた家屋、腐敗した、あるいは白骨化した死体が転がる地獄絵図。加えて中に入った人間が精神を著しく損なう事例が相次いだ。
龍賀製薬は一族が絶えたことで解散を余儀なくされたが、それでもすぐに倒産したわけでもない。一説には表に出せない顧客のつながりから大きく取り沙汰されることがなかったのだともいわれるが、それらはいわゆる雲の上の話というやつだ。
何が起こったのか未だにわからない上に、様々なしがらみから未解決事件として封印されることが決まっている哭倉村の惨劇の中で、たった一人生き残った男がいる。村を訪れていた帝国血液銀行の従業員で、水木という男だ。だが、彼は発見された当時重傷だった上に、記憶の一切をなくしており、今はまだ入院中の身だ。
内田は胸元の煙草に手を伸ばしかけ、なんとなくやめた。そうしてちらりと、とある病院を見上げる。血液銀行とは関わりの深い大きな病院。推定、何らかの事件に巻き込まれたとはいえ、長期の入院を支える血液銀行には、水木という男に何らかの配慮をしなければならない理由があるのでは、と引っかかる物がある。それは内田の刑事としての勘だ。
──刑事内田には娘がいた。生来体の弱い娘を妻が案じていたのはわかっていたはずだったが、追い詰められているとは夢にも思っていなかった。だが、妻は娘を連れて消えた。妻は「哭倉村に行く」と書き残しており、どうも、調べによると水木が村へ向かったのと近しい時に件の村へ向かっていたことがわかった。
これは私情であり、褒められたものではない。だが、内田は知りたかった。半ば諦めてはいるが、水木という男が妻と娘の行方を知っているのではないか、藁にもすがる思いで、そう考えてしまったのである。
水木は記憶を失っていたし、本人の怪我の程度もひどかった(内臓に及ぶ傷も多くあったそうだ)せいか、個室に入っていた。とはいえ帝国血液銀行に奉職する身なら病院関係のコネも、ある程度安定した稼ぎもあったかもしれないが、個室は金がかかる。内田は、水木の病院が個室であることを少々疑わしく感じていた。まったく、ただの勘であるが。
見舞客に紛れて水木の病室へ向かう。実は、彼の取り調べについては、上司がいい顔をしていなかった。正確にいえば、上司のさらに上、もっと上の誰かの意図を忖度して。龍賀の一族が皆死に絶えた―一番若い、先代当主の孫二人に至っては遺体が見つかっていないという―事件は、警察の中でも禁忌に近い扱いになっていた。龍賀の握っていた何かは、内田などは一生関わり合いなることがないようないわゆる上流階級の人々とつながりがあるようで、先日、こそこそ嗅ぎ回るのはやめるよう注意を受けたばかりだ。
何のことです、自分は見舞いに行っただけです──という言い訳を上層部が信じるかどうかは不明だが、内田はそれを突き通すしかないと考えていた。
512号室。
水木の部屋の前で内田は一度立ち止まった。一人で入院しているのだから当たり前だが、やたらと静まりかえっている。今は昼間で、病院の外はうんざりするような暑さと喧噪だというのに、この場所だけが異質だ。
内田は少し薄気味悪く感じながら、ドアをノックした。さて、水木は起きているだろうか。
どうぞ、と返ってきた声はとても静かだった。
内田はできるだけ人の良さそうな顔を作るべく努力しつつ、失礼、と中に入る。窓が開いていて、中庭に面した窓からは夏らしい入道雲が見えた。
水木の髪は一時真っ白になっていた。地元の消防団に救助された時の話だ。今は徐々に色が戻りつつあるが、若々しい顔に白い髪のとりあわせは、異様なものがある。特に水木は、美男で鳴らしている俳優の面影を少しもっており、甘い顔立ちといえないこともない。だから余計に際立つ。さらには右目の上に走る傷と、ちぎれた耳の先。一度見たら忘れられそうにない。
「やあ、おかげんはいかがですか。こないだよりちぃとばかしお顔もふっくらされたような」
「…さあ」
曖昧な顔で、ほんの少し水木は首を傾げた。
実際、以前内田が面会した時の水木ときたら幽鬼のごとき気配をにじませていたのだ。今はそのような雰囲気はなく、血色は良い。髪の色も、心なしか真っ白というほどではなく、薄い茶色という風情だ。日本人にしては淡い色であることは確かだが。
「…今日は暑いですね」
元々営業職だという水木は、哭倉村に行った日のあたりを境にしばらく分の記憶を無くしはしても、物腰はやわらかい。額の汗をかるく拭った内田にそう声をかけてきた。表情からは内心が読めない。何かを隠しているというよりは、ぼんやりして感情が薄いように見える。
「ええ、本当に。参っちまいますなあ」
苦笑しつつハンカチを額に当てれば、一瞬水木が目を瞠ったように見えた。
「水木さん?」
「え? ああ、はい。すみません、ぼうっとして…」
苦笑と共に軽く会釈をくれる水木は、しっかりした体つきの男だ。だが、入院生活のせいなのか、すこしやつれても見えた。弱々しいように。それは、どことなく漂う頼りなげな雰囲気のせいかもしれなかったが。
「ところで、どうです。何か思い出されたことはありますか」
「………」
水木は少し考えるようなそぶりで目を伏せた。案外まつげが長い。伏せるとわかる。何かを呟くように唇をわずかに動かしたが、彼の口から音がこぼれることはなかった。ただ、内田の見たところ、まるで誰かの名前を呼んでいるようにも思えた。
「…申し訳ないですが、…なにも」
水木は逡巡を終え、顔を上げた。そうして瞬きもせず内田を見つめ返す。この男の虹彩は青を帯びている―そのことを、内田はいまさらながら強く理解した。
「そうですか…、いやあ、実はね。これは全くの私情なんですが…」
水木は内田の言葉を待っているようだった。
その様子に、何か危うい感情を抱きそうになり、内田は幾分焦った。これは夏の暑さが起こさせる勘違いか、はたまた幻か。
「私の、…女房と子どもが、水木さんと同じ列車に乗っていたそうなんですよ」
「………おいくつですか」
流してしまうかと思われた水木だったが、会話の穂をついでくれる。
「娘は、五歳。私に似ず、利発で…体が弱くて」
内田は思わず目を伏せてしまった。娘はあの村で死んだのかもしれない。覚悟はしている。だが、現場は有毒ガスが出ているとかなんとかで規制され、限られた人間が届けを出して始めて中に入れるようになっていた。それらはみな、水木の取り調べに圧力がかかっていることと無関係ではないはずだ。
「…おつらいですね」
その声は本当にいたわりに満ちているように感じられ、内田は思わずまじまじと水木の顔を見た。けしてお愛想ではない、彼の真心からの言葉に聞えた。少なくともその時の内田には。
「……私が、思い出せれば良いのですが」
水木の声は静かだった。そして、どこか遠い場所、あるいは消えてしまった記憶を見つめるような、そんな目をしていた。
「すみません、刑事さん」
初日に内田が刑事だということは明かしてある。つまり、入院した後の記憶はある。本当に記憶の全てが抜け落ちているといえるのは、三日だか四日だかの失踪をしていた間のことだけ。
──経験豊富な刑事ともあろう者が、一瞬雰囲気に飲まれてしまっていた。内田は内地で終戦を迎えた。だが、水木は違う。それは経歴からとっくにわかっていることだった。今の水木は帝国血液銀行の職員かもしれないが、地獄を見て戻ってきたのは想像に難くない。この奇妙な静けさと落ち着きは、そこに由来するのだろうか。考えても詮無いことではある。
「…い、いえ。あなたも重傷だ。こんなことをしつこく聞きに来て申し訳ないが…」
開け放たれた窓から入ってきた風が、わずかに水木の髪を揺らした。まるで誰かが彼の髪を撫でたような…、無意識に思って、内田は背中がぞっとした。
絶対にこの男には何かがある。それはおそらく、彼が失った記憶とも関係があるはずだ。
だが、急に室内が暗くなったような、何か息苦しいような感じがして、内田は立ち上がった。今日も特に収穫はなかったが、今まで幾度も内田を助けてきた―作動しないこともあったが―勘がここを立ち去れと告げていた。
「また来ます。これ、置いていきます。よかったら」
「そんな、悪いですよ」
「いいんです、いけなかったら看護婦さん達に分けてください」
見舞いの果物カゴを置いて、内田はそそくさと512号室を後にした。
すぐ帰るつもりだった内田だが、なんとなく消化不良の気持ちがあり、病院の中庭に立ち寄った。そこにはベンチがあるのを知っていた彼は、ゆっくり腰をおろしながら長く細い息を吐いた。
「……?」
そして不意に見上げた先の病室の、少し開けられた窓が目に飛び込んでくる。五階の…、と頭が認識すればすぐに、それが水木の部屋ではないか、ということに気づく。
そして、次の瞬間驚いて飛び跳ねる羽目になる。
──誰かが窓の近くに立っている。
水木では、ない。
断言できた。なぜなら、髪の色は漆黒で、とても長かったからだ。それにおそらく、窓との対比を考えて水木より小柄だろうし…、着物の色が、水木の入院着とは全くもって異なっている。鮮やかな…牡丹のような色。
女だ。肩のやわらかな線といい。内田は混乱した。内田が出て行ってすぐに入ってきたのか? 誰が? 水木は妻帯していないし、特別に深い仲にある女性もいない、はずだった。調べでは。
「……!」
内田の熱心な視線にまるで気づいたように、窓際の女が振り返るような動きを見せた。そのことに例えようのない恐怖を感じ、内田はぐん、と顔をそらし、水木の病室から目を背けた。絶対に目を合わせてはいけない。本能がそう告げている。
耳のそばに心臓があるのではと思うくらい激しい動悸が続く。だらだらと汗をかいている。立ち上がって、すぐに立ち去るべきだ。それなのに立ち上がれない。腰が抜けてしまったように。
「──あんた、大丈夫かね」
その時不意に、近くから男の声がした。まるで金縛りにあったようだった体が急に楽になり、ふっと息を吹き返す。
「え、ええ…」
ベンチに座っていたのは内田一人だったはずだが、と思いながら、声のした方に顔を上げる。そこには、入院患者とも見舞い患者とも思えない、着流し姿の男が立っていた。縹色の着物はよく見ると裾が荒れている。
──答えて良かったのか?
内田の頭を疑問がよぎる。男は、老人のように真っ白い髪をしていた。それはさっきまで面会していた男を思い出すものだったが、もっと完全な白だ。これで相手が老人だったならわかる。しかし、髪で隠れていない部分の肌には張りがあり、さほど年をとっているようには見えない。
内田の心臓が早鐘を打ち出す。この男は、誰だ。
男の奇妙な程大きく丸い目は随分と白目の面積が広く、真ん中で点のような赤い目が、…内田は悲鳴を上げそうになった。真っ赤な虹彩なんて日本人ではありえないだろう。何らかの病気でそうなる可能性はあるかもしれないが、一般的には、ない。
「あんた、見舞いかね」
「え? ええ、はい、まあ…」
そうかい、と男は軽く相づちを打ち、それから億劫そうにベンチから立ち上がった。…見上げるほどに背が高い。もしかして外国人だろうか、とちらりと思う。…ないだろうが。
「わしもよ。友が、ここに入院しておってな」
「…そう、ですか」
当たり障りのない答えをしながら、この男はまだ話を続ける気があるのだろうか、と全身で警戒する。最初は、気分が悪いのかと心配されたのだと思った。だが、こうなっては違うような気もする。内田は気を引き締めた。
「ご友人は、どのような…」
「ん? 大怪我をしての」
「怪我を…」
病院だから、水木以外にも怪我をして入院している人間はいるだろう。当然だ。だが、内田の中で緊張が高まる。どうしても水木のこととしか思えない。ただの勘だが、今は間違っていない気がした。
男は、す、と人差し指を上げた。色は白いし一見線が細い印象だが、持ち上げた手の筋は男らしい無骨さに彩られていた。
「あんたが、さっきまで見舞っていた男のことよ」
赤い目が炯々と光り──
内田は、思わず悲鳴を上げて走り出していた。
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