穹の部屋にノックが大きく響いた。何か悪さを働いた訳ではないのだが、音が響いた瞬間に肩が大げさに跳ねる。直後、訪問者の声がドア一枚隔てた向こう側から響いてきて誰が訪ねて来たのかを知った。室内からの返事を待たずに用件を遠慮なく、真っ先に告げてくるのはなのかの声だ。羅浮に買い物へ行くつもりなのだが一緒に行かないかという誘いは普段であれば二つ返事で了承するのだが、今はやることがあるからと言って断るしかない。
彼女には申し訳ないが、穹には部屋を離れられない理由があった。
「丹恒ー。気分はどう?」
なのかと明日以降の約束を取り付けた穹は部屋の奥へと振り返る。穹のベッドの上で横たわり、腹の上で両手を組んでまるで瞑想しているかのような丹恒。彼は穹が声をかけるとゆっくりと視線を合わせてくれた。その眼差しからは普段の冷徹さが抜け落ち、力強く輝いている瞳がやけに柔らかく感じる。
「なんとも言えない。ただ、なんだろうな。――穏やかではある」
「穏やかねぇ……。だるさは? それか体が熱いとか?」
「ない。……不思議と気持ち良さばかりが先に来る」
だろうな、と穹は一人確信する。これは完全に快滴の効果が出ている、と。
丹恒は体調不良や眠気によってベッドに横たわっている訳ではない。喉が渇いたからと飲んだ飲料が快滴で、それが調合の割合を間違えた末に完成したものだったというだけの話だ。ちなみに作ったのは穹である。自分でも飲んでみてすごい体験をしたのだが、処分するのをなんとなく渋っていた。運悪く――穹にとってはある意味運良く――丹恒はそれを飲んだのだ。冷蔵庫にある好きなものを飲んでいいと言ったのは穹だが、決してわざとではない。
特製の快滴が効果を発揮しているだけなのだと分かっているので、一見すると体調不良なのかと思われる丹恒の様子も穹は楽観視して見ていられる。
穹はベッドに片膝を付き、覗き込むような形で一応彼の額に触れてみる。確かに体温が異様に上がっているということはない。そのまま少しだけ親指で肌を撫でてやると丹恒は気持ち良さそうに目を細めた。いつだったか動画サイトで見た猫のようだ。撫でる飼い主の手のひらに自ら頭を押し付けて甘えている姿と今の丹恒が重なる。胸の奥底から湧き上がってくる高揚感も含めて同じだ。
いつもカッコいい丹恒が可愛い。この新感覚に穹は顔がにやけてしまうのを止められなかった。
「撫でられると気持ちいい?」
「……ああ」
「おっ、素直。いいね」
気を良くして撫で続けていると、丹恒は穹の腕を引いた。
「もう少し近くに」
「ん。分かった」
穹が普段使っているベッドはシングルサイズではあるが、丹恒が横たわっていたとしても空いてるスペースはある。しかし丹恒はわざわざ体を起こした。恐らくは空いたところに座れと言うのだろう。
言われてはいないが、分かりやすく指し示された通りにすると丹恒が膝の上に上半身を乗せてきた。居心地の良い場所を探してしばしば身動ぎをし、落ち着いたところで腕を穹の胴に巻き付けてくる。そして腹に額を押し付けて動かなくなった。
いよいよ動画の猫そのものになってきたなと、頭のどこか冷静な部分で思ったが、この体勢により丹恒の側を簡単には離れられなくなった。
快滴のせいで思考がふわふわしている筈なのに策士が過ぎる丹恒の行動に、穹はとりあえず今この状況を写真に納めることにした。ベッドサイドに置かれたままのスマホを手に取り、今この瞬間の丹恒を切り取る。この写真は今後何度も見返すことになるだろう。
「珍しいな。こういうの」
「こうしたい気分なんだ。……嫌か?」
「まさか」
穹の腰に巻き付いて、両腕で体を押さえつけておいて今さら「嫌か?」などと尋ねてくるのはずるい。
乱れた髪を整えて、そのまま彼の頭を撫でる。そうすれば丹恒は再び目を閉じて気持ち良さに身を委ねはじめた。
「いいよ。一緒にゆっくりしようか」
/
「いかがでしたか丹恒殿。俺の甘やかしテクは」
「…………わ、るく、なかった」
「そっかそっか。それは良かった」
素直に言うか言うまいか悩んで、ようやく絞り出すように本音を口にした丹恒は表情の上ではばつが悪そうであるものの、耳は真っ赤である。快滴の効果がまだ完璧に抜けきっていないからだろうが、そのちぐはぐさがまた可愛い。
「迷惑かけたな」
「俺としては問題なし。可愛かったし。飲んだのが少しで良かったな」
可愛い、と言われたところで何か言おうと口を開きかけた丹恒は、穹がその後に続けた言葉に怪訝そうな顔をした。不自然に一拍間を取って問いかける。
「……あれでマシなのか」
「うん。あれ以上飲むと下半身が大変になる」
「…………は?」
以前のことを思い出して自分の腹の、より下の方を撫でる。丹恒はそれを見て概ね理解したのか生唾を飲み込んだ。顔色が赤くなったり青くなったりしている。
穹がうっかりにより作り上げてしまった快滴は「気分が良くなる」程度を軽々と凌駕し、強い快楽を与える媚薬に似た何かに成り果ててしまった。
レシピを手に入れた時、自分が調合した分量が間違っている等とは思いもせずに物は試しだとごくごく飲んでしまった。嘔吐剤ですら間髪いれずに飲み干す穹である。快滴の製品説明文をもう少しちゃんと読んでいれば慎重になれたのかもしれない。
飲んで数分。腹の奥から沸き上がるような熱と、下半身に纏わりつく過剰な刺激に腰が抜けた時はやらかしてしまったと冷や汗をかいた。
一回じゃおさまらなくて二回、三回と回数を重ね、四回目でやっと一息つけた時には心のそこから安堵した。安堵した直後、気絶しそうになるのを我慢してシャワーを浴びたのは後にも先にもアレだけだ。
これは流石に飲めないと蓋にバツ印をつけたのだが、それがなんの運命か日の目を見てしまったのである。
「というと、その……。つまり……」
言い淀む丹恒の頬は少しだけ赤く染まっている。
「シたくなっちゃって」
「お前はどうしてそう迂闊なんだ……」
「でも三回くらい。いや、四回? まぁ抜いたらおさまったし」
「っ、――おさまったからいいというものでもない……!」
ベッドの上で唸る丹恒は珍しくて面白いが、本人はいたって真面目に悶絶しているのだから言葉にしてはいけない気がした。
「もしかして想像した?」
「……まぁ」
「お、おぉ。そう素直にされるとなんか照れるな」
恋人関係にある穹と丹恒である。今した以上のスキンシップなども当たり前のようにしてはいるが、丹恒の反応と言えば淡白なことが多い。だからこそ今しがた見せたような、ふとした瞬間の素直さに穹は弱かった。
少しだけ飛び上がった心臓を穹は押さえる。顔も少し暑い。
「……失敗した快滴なんだけどさ。勿体ないから次する時にでも全部飲んじゃおうかなって――」
「馬鹿」
ペチン、とやる気のない音が穹の頬を撫でるように叩いた。丹恒が手を伸ばして穹の頬に触れたのだ。対して痛くもないが、反射的に「あいたっ」なんて声に出てしまう。
「そういう無茶はしなくていい」
「じゃあ半々で飲む?」
「ちゃんと破棄してくれ」
「たまにはトんじゃうくらいのも良いと思うんだけど。マンネリ防止的な?」
ちょっとした気恥ずかしさを散らそうと思って穹からそんな話を振った。そこには他意もなければ下心もない。言葉の通りである。
失敗作をうっかり飲ませてしまったことを申し訳なく思うが、丹恒が少量を飲んでくれた事によって、飲む量によって効力をある程度調節できることが分かった。失敗してしまった快滴は確かに捨てた方が良いのだろうが、一口飲むくらいなら通常の快滴と変わらない効果が得られるだろう。ならば今すぐ捨てる程ではないなと穹は思い始めていた。素材もタダではないのだ。
「はぁ……」
呆れたような丹恒のため息は聞き慣れたものだ。だから穹も油断していた。特になんの前置きもなく手を伸ばした丹恒は穹を巻き込んで体をベッドに沈めてくるのを、なんの抵抗も出来なかった。
ベッドに押し倒された穹が何か言う前に言葉を飲み込まれてしまう。唇を唇で塞がれて、僅かに開いたそのあわいから丹恒の舌が入り込んで中を深く蹂躙し始める。
あまりにも性急過ぎる口付けに対応できない。良いように翻弄される穹は、合間に呼吸を忘れないようにすることで精一杯だった。互いの唾液を交換するような荒々しいこれは丹恒のちょっとした仕返しなんだろうなと、舌を絡ませ合いながら思う。とはいってもほとんど丹恒の好きにされていて、絡ませ合うというよりは引きずり回されているような気分だ。
丹恒の気が済んで解放される頃には、穹の思考は軽度の酸欠も手伝ってすっかり溶かされていた。ゼロ距離から離れていく彼の顔をぼんやりと視線で追うしか出来ない。二人の間を繋いでいた銀糸がぷつりと途切れた。
「……これ以上煽るなら今ここで襲う。快滴が必要ない程気持ち良くしてやるが、終わった後の事は考えてやれない」
「こ、れは……、冗談じゃ、すまないやつ……。はーっ……。……ごめんなさい大人しくします」
「ああ。大人しく抱き枕役に徹してくれ」
その言葉通り、丹恒は仰向けになっている穹の胸に耳を傾けるような形で抱きついてきた。暫くはごそごそと動いていたが、居心地の良い場所を見つけたらしく大人しくなる。穹からは丹恒の顔は見えないが、抱き付いてくる腕は力強い。
少し癖のある黒髪をすいて撫でる。穹もそれ以上何か言うこともなく、同じ様にベッドに身を任せた。正直に言うと先程のキスで色々とモヤモヤしているのだが、丹恒はあくまでも気分が良い状態で留めるつもりらしい。
素直に甘えてくる丹恒というのは願ったり叶ったりではあるが、煽るだけ煽っておあずけとはこんなにももどかしいものだっただろうか。穹としてはそのまましても良かったのだが、わざとではなかったとはいえ快滴を飲ませてしまった負い目がある以上、丹恒の意思を尊重するしかなかった。
「寝る? それともなんか話そうか」
「……寝る」
「そっか」
「お前は、体温が高くて、温かくて……。いい抱き枕だ」
「だろ? こんな高級な枕は滅多にないぞ」
話そうとする言葉が途切れ途切れになっているところを見ると、本当に眠いのだと分かる。
寝息が聞こえて来た頃に小さく声をかけてみたが返事はなかった。普通にベッドで眠った方が寝やすいのではないかと思うのだが、丹恒は全く気にしていないらしい。
快滴がいつになったら丹恒の体から完全に抜けるのかは分からないが、直接肌に触れなくても互いの体温を交換している今この瞬間にも満たされるものが確かにあって、これはこれでもいいかと穹は満足しはじめていた。
次に丹恒が目覚めた時、第一声は何を言うだろうか。その時はどんな顔をするだろうか。そんな事を考えているだけで、穹の心は幸福で満たされるのだから。
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