ふるさと さくら
2023-12-12 23:48:35
8861文字
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🧐🎹︎︎ ♀夫婦(未完成)

捏造と注意事項多めの妄想(未完)そのうち書くために仮置き
自らをマリーと偽ってエウリュディケ荘園に嫁ぐ🎹︎︎ ♀の話。
・🎹先天性女体化、それにより生い立ちがだいぶ捻れてる
・マリーと🎹︎︎ ♀が従姉妹
・🎹︎︎ ♀の親族が💩
・エセ捏造マヌス・デ・カペー
・🧐がほぼほぼ出てこない


 荘園に辿り着いた日は、驟雨の降りしきる曇天の空に満ちていた。
「お嬢様、足元にお気をつけください」
 侍女の言葉に頷きながら、赤いドレスを身に纏った女が黒い高級車から姿を現した。美しいプラチナブロンドの髪を下ろし、固く閉ざされた門をじっと見上げる姿には、どことなく儚いばかりではない雰囲気が漂っている。差し出された傘の下で唇を結ぶ彼女は何か意を決したような顔で、胸元に飾られた宝石を握りしめていた。
……行きましょう。荘園の主人がお待ちですから」
 掠れた声が従者たちを促す。ほんの僅かな嫁入り道具をたった数人の付き添いに持たせて、彼女は戸惑いなくエウリュディケ荘園の門を潜り抜けた。
 ────マリー。あなたとの約束は、必ず果たしてみせる。
  
  
  
  
 幼い彼女に親類が望んだことはただひとつ。男として音楽家にすらなれないのであれば、せめて正統なる娘たちの影として生きろ……ただ、それだけだった。
 オーストリアの名家であるクレイバーグ一族は、その血筋を武器にあらゆる分野に侵攻を広げる野心的な貴族であった。稀有な点があるとすれば、男は才覚を証明することで家の強さを世間に誇示し、女は力を欲した他家に『クレイバーグ』として嫁ぐことでじわじわと息のかかった身内を増やしていく、ということだ。芸術面での天啓を受けたクレイバーグの人間は、武力ではなくその天才性で戦う一族だった。血に塗れることを何よりも嫌う貴族たちの中で生き残るには、正当なる家族の一員として自らの有用性を証明するしかなかった。
 だが……彼女は、そもそもの生まれの時点で『間違い』を犯してしまっていた。
 医師が間違えたのか、神が授ける魂を間違えたのか。どんな占い師に占わせても、誰もが口を揃えて男児だと言ってのけたその新しい命は、誰も彼も裏切った身体で生まれてきてしまった。
 母は自らの失態に狂い、父は愛する妻を狂わせた我が子に失望した。既に男として生きる道を用意されていた彼女には、今更正統なるクレイバーグの淑女になることなど許されていなかった。生まれた時点で許嫁の決まっていない者など当家には必要ない。彼女の父親はそう断じて洗礼さえ許さず、我が子の命を絶つことさえ考えたが……それでも正気を失った妻が生まれたばかりの娘を泣いて抱きしめて離さなかったので、彼は邪魔な子女に日陰者としての人生を与えることにした。
 貴重なクレイバーグの娘たちを誘拐や謀殺の魔の手から遠ざけることは、一族の頭を常日頃から悩ませている種だった。せっかくの政略結婚の駒が、変に傷物にされても困る。憂う本家分家の当主たちにここぞとばかりに妙案を投げかけたのは、まさに不幸な彼女の父親だった。
 ────出来損ないにも価値はあります。どうか、我が家の不良品をお嬢様方の影武者に。
 良心的な親としてはあるまじき申し出は、悲しいことに諸家にも受け入れられてしまった。
 そうと決まれば、その哀れな娘を最も重んじるべき淑女の影武者に仕立てよう。
 当時のクレイバーグ家が何よりも大切に慈しんでいたのは、母方より血筋を受け継いだ、名馬と宝石好きの少女。名をマリーという彼女は、いずれアイルランドの貴族出身のマヌス・デ・カペーの結婚相手として花嫁争いに身を投じる運命にあった。未だブリテン島には進出できていないクレイバーグ家にとって、マリーが海峡の向こうに嫁ぐことはこれ以上ない繁栄の足掛かりになるに違いなかった。
 ゆえに、物心のついた少女はいつ何時もマリーの側で過ごすことを命じられた。明るく活発なマリーとは違い、少女の表情はいつも憂いに満ちていた。そうした対比が影武者らしくないと、余計に近親者の怒りを買って彼女は要らぬ折檻を受けることもしばしばあった。
 ナイフの使い方がマリーらしくない。
 マリーはピアノよりも服飾が好きなのだから好みを合わせろ。
 お前の自我は必要ない。お前は常にマリーであれ。
 何度も何度も叱られるうちに、行き過ぎた教育は少女に固い鎧を纏わせた。もはや誰にも心を開かない、感情の削ぎ落された手駒と化した彼女は、さらに熾烈な自衛手段も習わされていった。
 年頃の少女が持つにはあまりに武骨で暴力的な銃器の練習。すぐに死なれても困ると肉体に直接叩き込まれた体術の会得の過程で、少女の身体には皮膚病じみた怪我の痕がいくつも刻み付けられた。
 こんな程度で死ぬな。
 お前は慈悲深いお父様に命を助けてもらったのだ。
 出来損ないの譜面のように、破り捨てられなかっただけマシだと思え。
 大人たちの容赦ない指導は、とっくに少女を限界まで追い詰めていた。昼は作法を過敏に注意され、夜は足蹴すら身に受ける毎日。ここで生きていくには仕方のないことだとはいえ、大切にされない心はいつひび割れてもおかしくない状況だった。
 けれども、彼女には折れることのできない理由があった。
「フレちゃん。ごめんね、わたくしが代わってあげられたらどんなに……
 自らの光として、花のように生きているマリー。美しい淑女は、度の過ぎた指導を受けて帰ってくる少女をいつも抱きしめては、その宝石のように青い瞳から涙を流してくれた。そうしてひとしきり泣いた後、泥まみれになった少女の手を引き、本来マリーのためだけに用意されたバスルームをこっそり開放して、絡まったプラチナブロンドの髪を優しく洗い流してくれるのだ。地獄のような日々と一族に当然の恨みを抱いていた少女は、唯一マリーと過ごすこの時間だけは好きだった。自分が彼女の影になるために必要なこととはいえ、温かな浴槽に浸かりながらマリーが体験したお茶会の話を聞くのはとても楽しかったのである。そうして不思議に思ったことを質問しては友達のように笑い合ったり、湯船から抜け出してひっそりとマリーと一緒のベッドで語らうのは、まさに少女のささやかな幸福だった。ただひとり自分に笑いかけてくれる彼女のためならば、いくらでも怖い目に遭ってやろうと決意できるほどに、マリーの存在は少女の中では必要不可欠だったのである。
 やがて少女は成長し、クレイバーグ家の淑女を名乗っても遜色ないマナーを身に着けた。あれほど恐れていた体術の指導役すらも時には凌駕できるほどになった彼女は、名実ともに虐げられるばかりの人間ではなくなった。芸術家の家に生まれておいて、野蛮な技術の才に恵まれるなんて……そう噂する者も少なくはなかったが、そうした良くも悪くもない評判は、ある日彼女の父親の耳にも届いた。
「よくやっているようじゃないか、フレデリック。あぁ……お前をこう呼ぶのは初めてだったかもしれないな。何せ私は、お前が私の嫡男として生まれてくるとばかり思っていたのだから……
 久方ぶりの実父との再会は、全く感動的ではなかった。むしろ冷え切った親子関係は、未だに幻想の中に囚われる妻であり母である女性を巡って対立するばかりであった。
「ご用命がないのであれば失礼します。私には、マリー……お嬢様の盾となる使命がありますので」
「見ないうちに随分と目が据わったようだが、まぁそう急ぐな。今日はお前に関わる大事な話があったから呼びつけたのだよ」
 見た目ばかりは音楽家に相応しい柔和な雰囲気を持つ父親であったが、その目には野心家らしい炎がギラギラと渦巻いている。あの放任主義の父が、用事だって? 彼を訝しむ自らの気持ちに疑いを向けたかつての少女フレデリックは、すぐにその危機察知が間違っていなかったことを思い知った。
「昨日マリーとマヌスの婚姻が決まった。お前の役目ももう終わりだということだ」
 終わり?
 突然の知らせに、フレデリックは言葉を失った。耳で聞いた言葉が信じられないと言わんばかりにゆるゆると首を振るも、彼女の父親は言い聞かせるように重苦しいセリフを奏でる。
「お前の働きにより、マリーは無事に嫁ぐことが決まったと言ったのだ。よかったじゃないかフレデリック、これでお前は晴れて誰かの影として生きずとも良くなるのだから」
「ま……待ってください。それは、つまり』
 徐々に事実に気づきつつあったフレデリックの心細げな問いかけに、恐ろしいクレイバーグ家の当主は穏やかに笑いかけた。
「そうだ、もはやお前にマリーの影としての価値はない。かといって傷物のお前を貰ってくれる名士もそうそういないだろう。私も身内に武器を扱える暗殺者紛いが潜んでいては、おちおち眠れもしないからな。だから────」
 ……そこからどうやって、マリーの邸宅に逃げ帰ったのかは正直よく覚えていない。記憶にあるのは、腕や足に銃撃を受けてもなお走り続け、父に雇われた幾人もの刺客を握り慣れた拳銃で撃ち抜いたことだけだった。
 人殺し、化け物。
 そう詰る声が、今も鼓膜に焼き付いている。
 窓を破る感覚と、月明りのない夜道を息を切らしながら走る姿は、幸運なことに誰にも見られることはなかった。フレデリックの記憶にすら残らなかった逃走の果てに、ようやく自らを受け入れてくれる彼女の屋敷に飛び込んでみれば、父の言うことが真実だったと思い知らされた。
「フレちゃん! よかった、お別れが言えないかもしれないから、心配で……どうしたの、その恰好」
 既に美しいドレスを纏って旅立ちの準備を整えていたマリーの声に、今更ながら膝が震え始める。生家よりも温かい彼女の家において、フレデリックはもはや従僕たちにも密かに慕われる存在となっていた。ようやく張り詰めていた緊張が解けて、呆然と座り込んだフレデリックにメイドたちが咄嗟に駆け寄る。執事が肩にかけてくれたタオルをがたがたと握りしめながら事の顛末を何とか話し伝えてみれば、マリーとその従者たちはたちまち唖然とした表情に成り果てた。
「何なの、それは」
 マリーの声色に、聞いたこともない棘が滲む。散々虐げておいて、今更一人娘にそんな仕打ちをするなんて。彼女の怒りはごもっともだったが、落ち着いて状況を整理しつつあったフレデリックの思考はとうにその怒りの域を超えていた。もう、ここで憤慨していてもしょうがない。今は、何としてでも生き延びる方法を見つけなければ。
 でも。生まれたときからクレイバーグ家に仕えてきた自分が、他の世界で生きていくことは果たしてできるのだろうか?
 否。そんなのは、どう足掻いても────そう思ってしまえば、足先から絶望が這い上がってくる感覚がした。
「フレちゃん」
 マリーの声に、ぼんやりと顔を上げる。光すら失ったフレデリックの灰色の瞳には、何かを決意したらしい淑女の姿が映し出されていた。
 あぁ、どうして。どうして彼女はこんな時でも、こんなに眩く美しくいられるのだろう。
「諦めないで、フレデリック。今度はわたくしが、あなたのことを助けてあげる」
 フレデリックは、そのときのことを忘れることはないだろうと今でも思い続けている。
 夜の邸宅に光る刃物。侍女の手に握られることしかなかった小さなハサミが、輝かしい彼女の手で舞い上がり────次の瞬間には、マリーの美しい髪を乱雑に切り離す。
 はらっ、と床に落ちていく星色の糸。薄い雨の中で微笑む従姉に、フレデリックは愕然として立ち上がらざるを得なくなった。
「ま……マリー、あなたは、なんてことを……!」
「いいの、フレちゃん。マヌスは短い髪でも好きだと言ってくれたことがあるから」
「そうじゃない、そうじゃないでしょう……
 私が言いたいのはそういうことではない、とマリーの手を握りしめるも、彼女は相変わらず美しく微笑むばかりだ。
「この髪を、あなたとして扱うわ」
「え?」
「いいこと、フレデリック。あなたはわたくしの家に逃げ込んだけれど、その暴虐さを見限られて執事の猟銃に撃たれて死んだわ。そういうことにするの」
 私がフレデリック様を? 執事は心底困惑してメイドに助けを求めていたが、マリーはかまわず続けた。
「死体は炉に放り込んだから残っていない。でも、この髪があなたを始末したという証になる。わたくしがそう取り繕っているうちに、あなたはこの国から出るのよ」
「でも。どこへ……
 目を伏せるフレデリックを落ち着かせるように、マリーは黙ってフレデリックの手を握り返した。その手にはやや重い固さが秘められており、それとなく小さな塊がフレデリックへと押し付けられる。
「その宝石と共に、海を渡るのよ。私の代わりに、あなたがエウリュディケ荘園に嫁ぐの」
 一瞬、耳を疑った。マリーが嘘をつくことはないと分かってはいても、あまりの大胆な作戦過ぎると思ったのだ。フレデリックは開いた手の中に託された青いダイヤモンドを見るなり、呆然と首を振ってしまった。
「む、無茶ですマリー。そんなの、できるわけがない。あなたを残して、私だけ逃げ延びろと? いつ何時もあなたの犠牲となるために生きてきた私が? 無理です、私には。少なくとも、あなたを一族の疑いの目に晒すなんて」
「心配しないで。あなたが発ったらすぐにマヌスへ手紙を送るわ。あの人はきっとわたくしの言葉を信じてくれるはず。そのブルーホープがきっと、あなたの身分の証明につながる」
 だからね、とマリーは続けた。
「もういいのよ、わたくしのために生きなくても。大丈夫、一族にあなたの死亡を報告したらわたくしもイギリスに渡るから。そうすればこの国にわたくしとあなたの痕跡はなくなる。亡命さえしてしまえば、誰もわたくしたちを咎めたりなんてしないわ」
 そうだろうか。
 そこまでして、生きてもいいのだろうか。
 フレデリックの心に僅かな躊躇が生まれる。それは長年積み重ねてきた自己犠牲による遠慮とも言うべき邪魔者だった。何の罪も犯していないマリーは、そこまでして自らを危険なトリックの中に投じなくてもいいはずなのに。そこまでのことを彼女にさせるだけの価値が、自分にあるのかも分からないのに……どうして。
「そんなの決まってるじゃない。わたくしが、あなたに幸せになってほしいからよ。フレちゃん」
 ────かくして。マリーから赤いドレスを譲渡されたフレデリックは、その日の深夜に僅かな従者たちと共に旅立った。その身に偽りの花嫁としての身分を携え、最後の影武者の仕事を果たすために彼女は未踏のブリテン島を目指す。
 だが、この時のフレデリックは知らなかった。此度の旅立ちが、運命に出会うための序章に過ぎないのだということを。
  
  
「夜分に失礼致しました、マリーお嬢様。おやすみなさいませ」
 やや真っ当ではない雰囲気の黒づくめの男たちが扉を閉めた後、マリーは緊張のあまりため息をついてしまった。お喋りは好きだけれど、こういう策謀じみたことは基本的には得意ではないのだ。しかしフレデリックをあの音楽家の父親から守るためには、何としてでも彼女が生きているという事実は隠し通さねばならなかった。
「マリーお嬢様……
 心労を気遣ってか、執事が心配そうにこちらを窺っている。先程フレデリックの父親の手先の前で迫真の殺人懺悔(もちろん芝居だが)をしてみせたというのに、己の緊張よりも主人を案じることができるというのは、本当によくできた使用人だと感心してしまうほどだ。
「大丈夫よ、ありがとう。それよりすぐにエウリュディケ荘園に手紙を送って。宛先はマヌスへ、内容はさっき話したから分かるわね」
「承知致しました」
 足早に去っていく執事の背中を見送りながら、マリーは握りしめていた自らの髪束をおもむろに手放した。もうこれは必要ない。随分とすっきりしてしまった襟足に触れてみれば、首元もつられて寒気を覚えてしまうような気がした。
「フレちゃん……
 無事にイギリスまで渡ってくれればよいのだが。膨らむばかりの杞憂に、マリーは頭痛さえも覚える感覚を味わってしまう。いけない、こんなことでは……そう思うマリーだったが、突如として飛び込んできた電話の呼び鈴に思わず肩を上げざるを得なかった。
「ちょっと、こんな時間に何?」
「お嬢様、マヌス様よりお電話でございます」
「マヌス? もう、なんてタイミングがいいの!」
 手紙で伝えるよりも早いではないか。電話機が故障したと聞いていたが、やっと直ったのかと思いつつマリーは受話器をメイドから受け取る。耳を寄せてみれば、何度か受話器越しに話した好青年の声がケーブル越しに伝わって来た。
「マヌス? どうしたのこんな時間に。声を聴くのも随分久しぶりだわ」
『あぁ、愛しのマリー! 君こそ相変わらずカナリアのように美しい声だね。長らく連絡ができなくてごめんよ』
「もう、何言ってるの。声が聴けなくても、わたくしたち文通でしばらくやり取りしていたじゃない」
 すると、どうしたことだろうか。深夜だというのに朗らかだったマヌスの声は一転して怪訝なものに変わってしまったのだ。
『え……何言ってるんだマリー。僕と文通? 誰かと間違えていないかい』
「あなたこそ何を言ってるの。ついこの間まで手紙を寄越していたでしょう。あなたがエウリュディケ荘園に招く準備ができたというから、わたくしは今日オーストリアを発つつもりだったのよ?」
『ええっと……ちょっと言っていることが分からないけれど。ともかく連絡が間に合ったならまぁいいんだ』
「言っていることが分からないのはこっちのセリフよ。あなた、何を言いたいの?」
 クレイバーグ家の淑女というのは、存外芯が強いものらしい。電話相手がたじろいでいるのが目に浮かぶような顔で使用人たちが見守る中、腰に手を当てたマリーは婚約者への追及を強めていく。
「マヌス?」
『ごめんごめん。許してくれ、愛しのマリー。実は早急に伝えたいことがあってね。僕たちの新居、つまるところエウリュディケ荘園の件なのだけれど……
「早くして」
『すまない。端的に言えば、荘園を落札できなかったんだ』
「えっ……?」
 耳を疑う言葉に、マリーは硬直した。
『荘園の持ち主が、どうしても愛着があるからやはり手放せないと言ってきてね。ほら、新居で競馬場を作る話があっただろう? 君のために建設しようと思っていたあの競馬場さ……その敷地が欲しかったから、何とかならないかと交渉はしたんだけれどね。僕の今の住居の近くの土地を代わりに買い与えるから妥協してくれと言われてしまって、その、つまり。君の新居は少しばかり辺鄙なアイルランドになってしまうというわけなんだが……
「マヌス!」
『わっ、何だい急に』
 婚約者のつらつらとした言い訳は今は心底どうでもいい。受話器に食ってかかる勢いで身を乗り出したマリーは、ものすごい剣幕で違和感を羅列し始めた。
「じゃあ、わたくしに荘園に来いと言ってきた手紙の送り主は誰だというの!? わたくし、わたくしは、誰とも知らない者の元へあの子を……おまけに手紙の手配まで……あぁ、なんてこと。もう、どうすればいいの……あぁ……
「え……ええっと。マリー、ごめんよ。僕の方からも何か一通送ればよかったのかもしれない。何があったのかは知らないけれど……すまない、すまなかった」
 正直なところ、突然そんな風に詰め寄られた上に泣かれても哀れなマヌス・デ・カペーには弁解の余地もなかったのだが、あいにく深夜の電話に対応できる敏腕従者というのはこの場で起きているマリーの味方しかおらず、部外者の彼にできることは、失意の底で狼狽する彼女に寄り添うことだけだった。
……呆れた。わたくし、すっかり騙されていたのね」
『マリー……
「取り乱してごめんなさい。ありがとう、夜遅くにわたくしを案じてくれて。おかげで早くに事態の重さに気が付けたわ」
『なら、いいんだけれど』
「あ、待ってちょうだいマヌス。おやすみの挨拶の前にひとつだけ聞かせて」
 ん? と婚約者がマリーの声に相槌を打つ。動揺の末に知っておくべき情報が何なのか探り当てていた彼女は、逸る鼓動を必死で抑えようと息を深く吸う。なるべく落ち着いた声でと吐き出した言葉は、想定以上に神妙な響きになってしまったが。
「その、エウリュディケ荘園の持ち主というのは。一体誰なの」
『あぁ、それはね────』
  
  
  
  
「デロス……?」
 窓の向こうで雷鳴が轟く。稲光が窓辺を照らせば、通された書斎の中が薄ぼんやりと一瞬だけ明るくなる。淡い照明に照らされたことで、本の巣窟の主の姿がより鮮明に浮かび上がった。
 フレデリックの呟きに対し、僅かに上がる口の端。知的な眼光を湛えた視線は真っすぐに花嫁としてやって来たはずの淑女に向けられており、奥底にはとめどない好奇心が波飛沫を上げているような気がした。真新しいモーニングコートは汚れのない白で統一されているけれど、無実というよりは白々しい雰囲気の漂う出で立ちにも思えた。
「えぇ、今まで偽りの手紙を送っていたことは謝罪しましょう、クレイバーグさん。私はあなたの婚約者ではありません。私は……
 モノクル越しの瞳が猛禽のようにフレデリックを射抜く。それだけで心臓が鷲掴みにされるような感覚に陥る理由を、彼女は未だに突き止められずにいる。
「私はデロスの家名を継ぐ者。公的にはデロス男爵で通していますが、花嫁たるあなたにはもうひとつの名前をお教えしましょう」
 デロス、と名乗った男が立ち上がる。この人物がマリーの言う優しいマヌスでないことはとうに分かりきっていた。だが、ひとつだけ確かなのは。
「オルフェウス、と申します。どうぞよろしくお願いします」
 少なくともこのオルフェウスという男に────自らがマリーでないと悟られてはいけない、ということだ。