【ユリレイ】夫婦の日

フラれたおっさんが我慢をやめる日のお話。

 語呂合わせで毎日が記念日になってしまうのだから、世の中はなんともめでたいものだ。夫婦の日特別値引、というのぼり旗を見上げて、レイヴンは苦笑した。めでたいものは大抵において嫌いではないが、自分に縁のないめでたいものというのは距離感が掴めなくてむずむずする。いや、正直に言おう。ダングレストの往来という往来が夫婦、恋人と呼べる(であろう)2人組に溢れていて、8割ほど辟易していた。世界の安寧よ、ここに極まれり。末永く爆発するがいい。
 夫婦の日だろうが猫の日だろうが、レイヴンの仕事がなくなるわけではない。月末の事務処理を終えてやや落ち着いたとはいえ、机の上から零れ落ちんばかりの紙の束が今日も存在を主張してくる。その中に、例年この日だけやや多めの『婚姻届』なる書類が混じっていることをレイヴンは知っている。今日この日を記念日にせんと、こぞって提出してくるのだそうだ。ダングレストは自由の街であり、人と人とが出会ったり別れたりも基本的に個人裁量である。すなわち、結婚したと宣言すれば事実上の婚姻関係が成立する。しかし近年、ユニオン公認の関係(またの名を契約と呼ぶ)を結びたがる2人組が増えている。そうすることでいざ2人の関係に複雑なアレやコレやが生じた際、仲介役として第三者に依頼しやすくなるし、ギルドユニオンとしても、遊びの相手だの生まれちまったガキだの、往々にして面倒なアレやコレやの未然防止策として、ある程度人間関係の云々を把握しておけるのはありがたい。どちらにとっても謂わばWinWinが成り立つ仕組みだ。役所などという殊勝なものがないこのダングレストにおいて、よくここまでありとあらゆる事案を想定し、手続きをまとめあげたものだ。今は亡き大首領と、それを引き継ぐ若者の顔を順に思い出して、レイヴンはふ、と息を吐いた。
(まーいっちょ、がんばりますかね)
 腕まくりひとつ、レイヴンが仕事机に向かおうとしたその時、ノックの音が2回響いた。こつん、こつん。レイヴンは僅か数瞬躊躇ったのちに「はいよ」と応じ、そのまま椅子に腰かけた。誰のノックかなど見ずとも分かる。
「よ」
 ひと月ぶりに見るその顔は、さらりとなびく黒髪を纏って実に端麗で清々しい。よりによって今日この日に会っちまうのか、と密かにレイヴンは唇をまげた。その青年は名をユーリ・ローウェルといい、先月「お前さんがどうやら好きみたい」という酔っ払いの告白を「我慢しろ」と一蹴した相手であった。我慢しろとはどういうことだ。父親かお前は。
「おはよ。何か用? おっさん今お仕事中」
 最低限の挨拶と用件を尋ねる問いと現状報告を一息に済ませて、レイヴンはペンを手にとった。願わくは早々に立ち去ってほしい。想いを寄せた挙句あっさり失恋した相手が見守る中で他人の婚姻を受理するなど、仕事というよりただの罰ゲームである。勘弁してほしかった。しかしこの青年――ユーリは、レイヴンが「勘弁してほしい」と願ったことについて、勘弁してくれたことなどこれまで1度たりともない。そうやってずかずかと踏み込んでくるように見えて、大切な一線は踏み越えずに任せてくれる。これまで見えなかったものを見せてくれる。お前さんのそういうところが俺は、
「何ぼーっとしてんの」
「おわ!?」
 机に頬杖をついたユーリが覗き込んでいることに気が付いて、レイヴンは危うくペンを取り落とす――寸前で受け止めた。インクの染みは馬鹿にならないんだぞ馬鹿。目の前でユーリがけたけたと笑って「寝不足か?」などとのたまっている。誰の所為だ馬鹿。
「まだいたの」
「いや帰るとか言ってねえから」
「じゃあなんのご用事?」
「これ」
 これ、と差し出されたのは1枚の紙きれだった。そこに『婚姻届』などというけしからん文字を認め、レイヴンは立ち上がった。
「お前さん、」
「まあ、そういうことだよ」
「どこの誰ひっかけたの! 嬢ちゃん? リタっち? まさかジュディ」
「あん?」
 驚きと少しの苦しみを誤魔化すために、レイヴンは「住む場所は」「いつから関係を」などなど早口で捲し立てた。あのユーリが身を固めるなど、いや、そもそもそういった相手の存在すらこれまで一切耳に入ってこなかった。水臭いにも程がある。ひと月前に酒の力を借りていい加減な告白をしてしまった意気地なしのことなど、眼中にないわけだ。ある意味納得したレイヴンは、ユーリが手にしていた書面をさらりと受け取ると、ギルドユニオンの公印を一思いに押した。
「しあわせにな~あれっ! と。おめでと青年」
……そりゃどうも」
「いや~まさか青年がね、そうかそうか。おっさん感無量よ」
……そうだな、オレも嬉しいぜ。好きなやつと一緒になれるってのはいいもんだな」
……青年の口からそんな台詞が聞けるとはねえ。今夜おっさん一人で乾杯しちゃう」
「なんで一人なんだよ。今日から二人になるんだよ」
 今なんと?
「幹部がこんなんで大丈夫なのかよ、天を射る矢。書類は確認してから判押せよな?」
 ユーリがとんとん、と指先で叩いた書類は、よく見れば形式も無茶苦茶な上、筆不精なユーリらしいあまり整っているとはいえない文字で、『婚姻届 ユーリ・ローウェル レイヴン』と、ただそれだけが記されていた。
「我慢は終わり。今日からよろしく」
 口をはくはくと開けたり閉めたりするしかないレイヴンは、ユーリが差し出した右手を震える右手で受け取った。