取り調べが終わって、帰宅する。食事して、シャワーを終え、寝支度を整え、ベッドに横たわる。手足を投げ出して、ひたすら天井を眺める。すっかり伸びた前髪が視界を遮って、見たくない現実から私を必死に隠そうとする。この盲目を続けてしまえたなら、きっと今まで通りのクズで在れるだろう。それがどれだけ楽な道なのか、私はよく知っている。駆けて逃げた父や目を逸らした母が選んだ道と同じ道だから。
回想する。最年少の後輩、その言葉を思い出す。
彼は私に、「なぜ笑っているのか」と問いかけた。そこで初めて私は、口角が上がっていたことに気が付く。何故笑っている? それは私も不可解だった。嬉しいのか? 哀しいのか? 悔しいのか? 苦しいのか? 理解できない回答不能の質問に、ただ曖昧な笑いを返すしかできない。
彼は私に、「そんな中途半端な動機で警察を続けるな」と告げた。それはそうだ。こんな私情塗れのキッカケで権力を欲したのは、私のような屑だけ。正義を信じていた彼からすれば、ただ『初恋の人に会いたいから』なんて理由で正義の真似事をする自分はさぞ不気味に写ることだろう。申し訳なくて、また視界が揺らぐ。しかし、あの時のように涙を零すことは無い。
立ち上がる。電気を点けないまま机の引き出しを探れば、目当てのものが見つかる。つい最近買い換えたばかりな新品のハサミだ。読み終えた新聞紙を適当に掴み、洗面所へ歩く。暗黒の中だが慣れ親しんだ自宅を迷う理由など無く、あっさり辿り着く。
酷い顔の私が、鏡の向こうからこちらを見つめている。前髪を少し端に寄せれば、母の刻んだ傷が私の額でいつまでも存在している。これが消えることはない。もし完全に治癒したとしても、それは表面から隠れただけだ。本当の意味でこの刻印を失うには、それでこそ世界を作り直すでもしなければならない。そして、私がそれを望むことは永遠にない。
これまでずっとずっと、静かに痛むこの刻印が嫌いだった。だから隠していた。私から現実を隠すように、現実から私を隠していた。けれどもう、盲目を続けるのは終わりだ。あの恋は失われ、この愛は間違いだった。罪人から罪を取り上げてしまえば、何が残ると言うのだろう。
初恋の彼は、自分をなんとも思っていない。自分を助けたのだって、道端で倒れる小動物が可哀想だったから程度の感情だろう。彼の最愛は妹であり、自分が彼の気を引くことは断じて無い。私が世界中のあらゆる言語と行動で愛を示したとて、彼は決して私を愛することはない。初めての恋は、当然のように失われた。
「(…失恋したのも、彼が初めてだ)」
そう気が付いて、苦笑いする。そもそもこんな醜い執着を恋と呼んでいいのかも曖昧だが、私にとってこの現象を初恋以外に言い表すのは難しいのだ。ただでさえ、人との関わりを続けるのは苦手だと言うのに。
このまま初恋を続けて、盲目に縋り続ける選択肢もあるだろう。初恋を永遠にすることはあまりにも容易い。ここで首を深く掻っ切りでもすれば、私は満足したまま終われるだろう。
洗面器に新聞紙を敷く。左手で長い前髪を掴む。右手で開いたハサミに、前髪を挟む。そしてそのまま、一切の躊躇なくハサミを閉ざす。金属の擦れる音と共に、偽りの視界が失われる。長く付き合ってきた盲目の断末魔は案外小さくて、また呆気ないものだった。
私はずっと、空を飛べない鳥だった。地上を歩けない猿だった。海を泳げない魚で、大地で咲かない花で、一人で立てない柱だった。そしてそれらは全て、私の妄想であることを知っていた。
恋に目を灼かれたと思い込む私はもういない。世界の様相がこんなにもよく見える。救済されたという真実がこんなにも身を蝕む。ああ、なんという苦痛。なんという大罪。世界の極彩が、闇に馴染んでいた瞳を眩く染めていく。
ふと、ガラス窓から外を見る。そこには、太陽がその身を覗かせ夜を奪っていく景色があった。昨日が終わり、今日が始まる。拐われた夜はもう二度と戻っては来ず、また訪れた朝と再び顔を合わせることはない。世界に付き添う理の一つだ。私はそれからずっと、目を逸らしていた。だから私はこう呟いたのだ。
「……きれい」
【盲目を失っただけの朝】
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