真崎
2023-12-09 21:37:38
11822文字
Public 卓SS
 

とある復讐者のエピローグ①

後からちょこちょこ細部が変わるかも。年内に完成できたらいいな……と思ってたけど間に合わなさそうなので如月兄弟の次の卓までに完結させたい。

 十二月に入り、街はクリスマスが近いなんてそわそわし出して賑やかだ。今日が金曜日だと言うことも、浮き足立つ要因の一つかもしれない。
 お祭り気分になって妙に調子に乗ってしまったんだろうか、いっそつけない方がいいんじゃないか、とまで思えてしまうような安っぽい電飾で飾られた街並みを、入り浸っている探偵事務所から見下ろしながら、俺は、如月奏太は、ぼんやりともの思いに耽っていた。
 ……いつもの友人たちと某商業施設に遊びに行ったあの日から少し時間が経った。あそこに行くのは初めてだったけれど、みんなのお陰で万年文化部なインドア俺も楽しめたと思う。ゲーセンにカラオケに、世代対抗ダブルスもしたし、マナーのなっていないウェイ軍団を真っ向から叩きのめすなんてこともした。全部いい思い出だ。
 楽しかった。それは確かだ。だけど……
 ごく普通の、楽しい思い出たちの中に異物として鎮座するのは、あいつの姿だ。
 泡立つ肉塊。うねる触手。けたけたと笑うその声は、人のものとは思えない悍ましさを孕んでいる。
 シュブ=ニグラス。
 あの日、薫ちゃんが“人であること”と、菫ちゃんの命を軽率に、まるで蟻を踏み潰す子どものように奪い去ったあの女。あの子たちの未来を奪い去った巨悪であり、命に代えても打ち倒すと誓った敵。あいつが、……真なる姿のあいつが、あの場にいた。
 そっと拳に目を落とす。
 これまでの怨讐と、おっさんによる冒涜的技術と、園田さんから教わった技術とを込めた渾身の一撃の感触を、今でも覚えている。確かに俺は、俺たちは、あれを倒した。
 ……でも、あれはあの日あの子たちの命を奪ったあいつだったんだろうか。それとも、違うあれだったんだろうか。……前にもシュブ=ニグラスを地球から追い出したこともある。でもこの世界にあいつがいたということは、あいつが帰って来たんだろうか。それとも、ミ=ゴやショゴスのように、いくつも個体があるんだろうか。
 ……俺の復讐は、終わったんだろうか。それとも、まだ続くんだろうか。……そもそも、俺は何のために復讐をしていたんだっけ。俺は――
 ことん。
 軽い音が、無限の思考を一瞬止めた。
 音の出所は、目の前に置かれたコーヒーカップ。さらにその先を辿ると、控えめにこちらの顔を覗きこむ、翠の瞳と目が合う。事務所の所長、有栖さんだ。
「お疲れ様、奏太くん」
……どうも」
「あの……元気かい?」
「レポート多かったんで、寝不足かもです」
……そうなのかい?」
 首肯すると、彼は何か言いたげだったけれど、「無理は禁物だよ」という一言を残してその場を離れた。
 有栖さんは、俺が嘘をついていることに気づいている。気づいた上で、知りたい気持ちを抑えて一歩引いてくれている。……俺が話せばきっと、全て聞いてくれる。
 でも、その手を取るのは気が引けた。彼が差し伸べてくれた手を幾度も乱暴に振り払った身だ。ここで全てを打ち明け委ねるのは、あまりにも虫が良すぎる。
 一番打ち明けやすいのは……加賀谷さんだ。
「ようよう奏ちゃん! どーしたのよ? 辰巳さんに話してみ?」
 そんな風に気軽に声をかけてくれるあの人がいれば頼れたかもしれないけれど、加賀谷さんはいない。漏れ聞こえた話によると、ここ最近仕事が忙しいのかあまり現れないとか。それにあれだ、この話は“非科学的案件”だ。LINEしてまで話すのは迷惑だろう。
「最近推しの顔が良くてね……いや、この言い方は語弊があるよね前から良かったのよ。でもここ最近ますます魅力が増してるっていうか。天元突破しそうっていうか。最近テレビに出演が増えたのもその影響かなって思うしそれにね」
「水前寺さん、楽しそうですね」
「おしかつ、ってやつ、はかどってんだねー」
 ……この三人は平和すぎて巻き込まない方が良さそうだ。俺のことは何も知らないし。話したところで困惑させたり怖がらせたりする未来が見えている。
 手元の黒い水面には、虚ろにこちらを見つめる俺の姿が映る。いつも通りの活気と、呑気とも呼べるほどの平和さに満ちたここで、一人ぐるぐる考え込んで陰鬱にしている俺は明らかな異物だった。
 だから、一息で飲み干し空にしたマグカップと、「もう帰ります」の一言を残して、俺はその空間を出る。後ろから誰かが声をかけてきたような気がするけれど、返事も振り返りもしない。そんな心の余裕はなかった。
 建物を出、真に一人になった俺へ追い討ちをかける師走の風が、先のコーヒーのささやかな温もりを奪い去っていく。トドメとばかりに、尽きかけの気力も削っていく。この後は授業がまだあるけど、それまでかなり時間があるし、こんな調子で出席したところで上の空なのは確定だ。
「サボろ」
 それがいい。俺の足はまっすぐ、駅の方へと向かっていく。
 帰路へ続く大通りは赤信号だ。交通量の多いこの道路は信号が変わるまでにかなり時間が長いので、ぼんやり待つことにする。
 信号が変わるのを待っているうちに、俺と同じく駅へ向かうのであろう学生たちが信号待ちのため群れ始める。……同じくらいの歳のころで、同じ場所で過ごして。ここにいるのは俺と同じ記号を持った人間ばかりだ。でも、俺の状況なんか誰も知らない。誰も興味がない。俺は一人だ。
 そんな事実を咀嚼し、至極当たり前だろうと自嘲したところで――視界が、不意に黒に覆われた。
「へへへ、だーれだ?」
 問うたのはお気楽な声。……よそ行きのテンションになったとしても、姿が見えずとも、物心つく前から聞いていたその声の主を俺は違えない。
「皇先輩でしょ」
 視界を防ぐ両手をそっと外し、振り返る。
 目に飛び込んできたのは、木枯らしに揺れる濃紺のドレッシーなワンピースと、ボブ丈の青い髪。これだけ見れば、パーティに向かう女性に見えるかもしれない。……装いの調和とバランスをすべて無に帰す目隠しさえなければ。
「じゃじゃーん! エトだよぅ!」
 俺の予想通り、“芸術家”を全身で五月蝿いくらいに主張するそいつが――皇エトが、そこにいた。
……じゃじゃんも何も、正解でしょ。『だいせいかーい』とかの方が回答者としては嬉しいっす」
「貴重な意見だー! じゃあ、理人たちにやる時にはそうするよ!」
「まだやる気なんすか、こんなしょーもないこと」
「友達に『だーれだ?』するの、夢だったからさ。ちなみにハズレの時は? 『おおはずれー』?」
「どうでもいい」
「いやいや、せっかくなんだから万全にしないと……って、やばっ、信号!」
「あ」
 言われて見やると、いつのまにやら点滅する青信号と、無理やり渡り切ろうとする人群れ。走ったら……いや、いい。そんな気分にはならない。
 信号を見限って視線を後方へ向けると、皇エトはまだそばにいた。俺の信号逃しに責任を感じているのか、それともまだだる絡みをしたいのか。いつもならいいんだけど、ちょっと今日は付き合ってられない。
「戸田も向井先輩も有栖さんとこにいますよ。すぐ行けば会えるんじゃないですか? ほら、行ってらっしゃい」
「キミは行かないの?」
「俺が駅行こうとしてるのわかんないんすか。今日はもう帰るんです」
「一緒に帰ろうか?」
「は?」
 思わぬ提案に、顔を覗き込む。顔の半分を隠しているせいでその表情も発言の意図もよく見えない。でも、怯むくらいにまっすぐな、真剣な面持ちでこちらを見つめる、あいつの強い視線を確かに感じた。
「心配だもん。オレ、そーちゃんについてくよ」
「何言ってんですか、“皇先輩”」
「あ…………
 俺の遠回しな指摘に、彼の射る視線が泳いだのがわかった。……一つ、咳払いをすると「“如月後輩”さぁ」と“皇エト”は新しく言葉を紡ぐ。
「顔色最悪なんだよ、ずっと思ってたけど。具合悪いんじゃない?」
 目隠し付きの視界不良でもわかるほどの顔色なのか。確かに、有栖さんにも指摘された。朝に鏡は見ていると思うけれどわからない。……覚えてない。
「俺は元気っす。顔色悪いとしたら、誰かさんのおかげで信号逃して萎えてるせいじゃないっすか?」
「嘘だ。エト、お家まで送るよ」
「結構です」
「いや、すごく心配なんだけど」
「俺のことはいいです。あんたは『だーれだ?』で戸田に盛大に外されて気まずくなった時の心配でもしててください」
……ちゃんと、言うんだよ。いつでも聞くからさ」
「気が向いたら」
 そんなやりとりをしている間に、信号が再び青に変わる。
「じゃ、俺は行きます。お疲れ様です」
 横断歩道へと踏み出す。長いそれを渡りきり、振り返る。
 三たび目の往来が始まる道路の向こうで、皇エトはまだこちらを見ていた。しっしと手を振り、俺は駅への歩みを進める。
『いつでも聞くからさ』
『気が向いたら』
 最後のやりとりを反芻すると、乾いた笑いが出た。俺の薄っぺらかつ不誠実な言葉への嘲笑だ。
「気が向くことなんて、あるわけねーだろ」
 何があろうと、天地がひっくり返っても。言わなきゃ俺が死ぬとしても。
 絶対にお前には言わない。だって、どんな振る舞いをして、どんな姿をしていようと、お前は皇絵留俺のいとこだから。



 ふと、時計を見る。……もうすぐ夜十時。
 俺は自宅で机に向かい、ひとり佇んでいた。机の上には執筆やレポートに使うパソコンやノートもなく、片付いて綺麗だ。ふと窓を見やると、開けっぱなしのカーテンの先、夜の空が見えていた。
 あの後、夕方ごろに家に着いたはずだ。……多分、それからずっと、何もせずにぼうっとしていた。寝ることもせず、ただ無意識に、時間だけを虚無の中で浪費して。……今こうして振り返ると、最近寝た記憶があまりない。家では毎日こんな感じの気がする。何もせず、ぼんやり息をしている。
 虚無でいても、何もしていなくても、生きている以上腹は減る。台所を物色するけれど、目ぼしいものはない。コンビニで調達するのが早いか。
 適当な上着を羽織り、サンダルをつっかけ玄関を出る。思ったより寒い。身体中の血液が、じんわり外側から冷たいものへと置き換わっていくのを感じつつ、俺は自宅を後にする。
…………
 シュブ=ニグラスは倒した。俺たちの力で。
…………
 菫ちゃんと薫ちゃんのための敵討ちは、終わった。俺の悲願は叶った。
…………
 あれを倒すことを願っていた俺は、如月奏太は、そもそもどんな人間だったんだっけ。
…………
 復讐に取り憑かれるまで、何を夢見て、何をしていたんだろう。
…………
 思い出せない。何も浮かばない。
…………
 かつての俺は怒りに塗りつぶされてしまったのか。
…………
 それとも、それ以前の俺なんて最初からなかったのか。
…………
 物語における“復讐譚”は、復讐の遂行がクライマックスだ。
…………
 読者もその描写を望んでいる。その後を気にするのは、少数だ。
…………
 じゃあ、この世界では? 物語とはまた違う、終わりのないこの世界ではどうだ?
…………
 俺はこれからどうなるのか。どこに行くのか。
…………
 何を目指すのか。何のために生きるのか。
…………
 一つの物語のように、終わるべきなんだろうか。
…………
 立ち止まる。
 あてのない思考をして、あてもなく歩いて……いや、目的はあったはずなんだけれど、気がつけばあてを無くして、自宅から外れた住宅街にいた。
 知らない場所、ではないけれど、馴染みのない場所にぽつんと一人。俺の知らない誰かの住む家々からは、温かな光が漏れる。平和で、無垢で、何も知らない世界は、とてもとても遠くて、俺はどこまでも一人だった。
 昼間ぶりの自嘲の声が、冷たく静かな街に吸い込まれていく。とても静かで、一人だけの――

――奏太」

 不意に背後から聞こえた俺の名前が、夜のしじまを、一人だけの世界を、優しく、それでいて確かに引き裂いた。
 最後に聞いてからずいぶん時間が経っていても、姿が見えずとも、物心つく前から聞いていたその声の主を俺は違えない。
 でも、そんなことあるはずない。大学そばでカイトが声をかけて来たあの時とは、状況が全然違う。俺が想像しているのは、三文小説みたいな、あんまりにも都合のいい話だ。
 理性はそんなはずないと叫び否定するけれど、振り向く身体を、口をつく呼びかけを止めることはできなかった。
「兄……ちゃん……?」
 月明かりに照らされるのは、明るい色の髪と白い外套。それらは俺にとってあまり馴染みのないものだったけれど……こちらを見つめるその顔は、紛れもなくあいつだった。
「久しぶり。急に、ごめんね」
 如月執兄ちゃんが、いる。目の前に。
 自分の目で、自分の耳で、そして自分の脳で、その事実をはっきりと知覚したところで――
「って、ちょ、ちょっと!? 奏太!」
 空腹と眠気、そして情報の濁流に耐えかねて、俺の意識は、ここで途切れる。



……ふんふん。……うん、わかった」
 声がする。兄貴の声だ。俺は一人、暖かな場所で、それをぼんやりと聞いている。……布団にくるまっているようだ。カーテンからは明るい光が溢れる。昼に近い時刻なのかもしれない。
「あ、ええと…………そ、そう! そうだよ! 患者さんにあげたくて! 本当に美味しかったからさ」
 少し、身体が怠い。風邪をひきかけている感がある。昨日着ていたコートが良くなかったみたいだ。思い返すと足元はサンダルだったし。冷えたな。
「玲くんみたいに上手にできるかわかんないけど、頑張ってみるよ。……そう? えへへ、ありがとう、またね」
 それを最後に声は止む。それと入れ違いに聞こえてきたのは、トントンという軽快な音だ。……包丁の音、だろうか。料理しているらしい。患者さんとやらは俺か。
 なんというか、ほんとうに、呆れるくらい都合のいい展開だ。虚無になって寝不足と空腹でふらふらした挙句風邪引いたら、なぜか兄貴が家にいて、どうやら看病がてら料理を振る舞おうとしてるっぽい、と。
「流石に夢だな、これ」
 今自分の置かれているこの状況を、そう結論づけることにする。夢の中で寝てるのは妙だけれど、そこさえ目を瞑れば一番現実的だ。これは、俺の独りよがりの夢、うん、そうだ。
 ……でも、夢っつっても、どこからが夢だ? シュブ=ニグラスを倒したことさえ夢かもしれない。こちとら、ただ無為に日常を送っているだけなのに、周りの展開が早すぎる。目に映るもの全てが信用できない。
「あ、ああー! やっちゃったー!」
 絶叫が聞こえる。ずいぶんと喧しい。
 布団から這い出て、声の出どころの方に向かう。……やはりというかなんというか、兄貴がいた。俺がよくラーメン作る時に使う小鍋を片手にジタバタしている。
 四年間、ありえないと思っていた……否、想像しようとさえしなかったその光景が、当たり前の日常の一コマのようにそこにある。なんか一周回って、驚きとか感傷とかそういう感情は消えて面白くなってしまった。シュールすぎて乾いた笑いが漏れる。
 俺の気配に気づいたようだ。あいつがこちらを向く。
「あ、おはよう奏太!」
「おはよう。何騒いでんの?」
「うるさかったね、ごめんね。えっと、君に朝ごはん……微熱あるし身体弱ってるみたいだから、僕、おじやでも作ろうと……
 おじやか。いつだか夜久が作ってくれたのを思い出す。あれは美味かったなぁ、なんて思いつつ鍋の中を覗ーーい、て……
「なにこれ」
「お、おじや……
「嘘つけ」
 黒くて四角くてカチカチした何かがそこには鎮座していた。白くて不定形でとろとろの本来のそれとは対極の存在だ。
「備長炭の間違いだろ」
「ほんとうに米とネギと卵だったんだよ……切るのも味付けも会心の出来だったのに……焦がしちゃった……
 これは焦がしたと言うレベルの代物ではない。食材たちにジャンピング土下座しろ。
「あのさ」
「うん」
……闇医者とはいえ、医者であるお前のためを思ってはっきり言うけど」
「う、うん」
「こんなの作るのはまあまあヤバいし、これを患者に食わせようとしてるとしたら相当ヤバい」
「わ、わかってる! これはお兄ちゃんが食べます!」
「食べなくていいよ、こんなんなったら。食う奴もヤバいって」
「八方塞がりじゃないか……
「ごめんなさいして捨てな」
「ううう、とにかくもっかい! もっかいチャンスちょうだい!」
 俺の返事を待たず、兄貴は野菜室からネギを取り出す。わたわたと準備する様と、焦げついておじゃんになった料理を見つめ、思う。
 ……ここが俺の思い描いた都合のいい夢の中だとしたら、さっきは完璧な飯が出てくる場面だ。食べられない飯なんか出てこない。変なの。
「ここまでリアルにしなくていいのに……
「え、何のこと?」
「お前のそういうとこ」
 兄貴がつまんでいる、蛇腹になったネギを指差し答える。この夢、こいつのドジへの解像度が高すぎる。
「いやいやいや、ここは慢心したけど、ネギって煮込めば柔らかくなるから……!」
「そんでもってまた焦がして炭にするんだろう、知ってる」
「もうしないよ! ええと、煮る、煮る……あ、さっきの鍋、洗わなきゃ」
「や、ちょっと待て」
 束子に手を伸ばした兄貴を制する。ここは夢の中だ。だとしたら、そんな面倒なことはせず、あれをすればいい、時間節約だ。
 小鍋は黒焦げでいつもの様相とは違っているけれど、よく使っている道具だし、小さいものだから容易いはず。ーー俺は目を瞑り、そこに在れと想い願う夢見を使う
 ……鍋は、現れない。
……うまくいかないな、夢見」
……夢見……って、奏太――
「いつもの状態が思い出せないんだろうな……悪い、やっぱ洗ってくれる?」
……うん」
 なぜだか表情を曇らせたまま、兄貴は束子を手に取った。
 鍋を洗ってからのその後の工程は、流石に二回目だからだろうか、とんとん拍子に進んだ。ふわり香る匂いに釣られたのだろう、腹の虫は喚き、苦しいくらい腹が痛む。
「お待たせ。召し上がれ」
 手渡された器とレンゲを受け取り一口。……じんわりと、身体が芯から温まるのを感じる。
「美味い」
「ほんと? ああ、よかった!」
「家で出てたのと同じ味……か?」
「奏太がそう思ってくれたなら大成功! 母さんが作ってた味、目指してみたんだ!」
 兄貴は屈託なく、能天気に、料理の成功を喜んでいる。……これを作ってくれたこいつはきっと、実家の料理を食うことは二度とないんだよな、なんてことをぼんやりと思った。
 食欲の赴くままに二回のお代わりをすると、小鍋の中身は空っぽになる。
「ご馳走様でした。美味かった」
「えへへ、どういたしまして。全部食べてくれて嬉しいなぁ」
 兄貴は俺の平らげた鍋をニコニコと嬉しそうに見つめていた……が、「あのね、奏太」と、真面目な顔でこちらを見やる。
「今日の日中はじっくり休んで。ドクターストップだよ」
「俺、サークル行きたいんだけど」
「だめ。ここ数日ろくに休んでないでしょ、疲労を溜めすぎ。こんな調子で外出たらどうなるかわかったもんじゃない」
 そう言い切られ、口を噤む。……まあ、サークルに行ったところで昨日の探偵事務所と同じことになりそうだし、この夢の展開に乗っかった方が有意義に過ごせるかもしれない。
 俺の首肯を見届けると、兄貴は満足そうに頷きそして、
「そうだ。僕、今日と明日は奏太といることにしたから」
 そんな宣言をしてくる。
「なんで」
「なんでって、僕がそう決めてきたから」
「俺の意見は聞かねぇの?」
「うん、聞かない」
「勝手すぎるだろ」
「そら勝手に決まってるよ。なんせ闇医者、犯罪者だからね」
 快活に言い切られたその言葉に、なんだそら、と心内でツッコミつつも、ちくりと胸が痛んだ。訣別の間際、俺がぶつけた台詞がまさにそれだった。
……さ、ご飯も食べたしもう寝なね」
「まだ昼だろ」
「いいから昼寝しなって。君にはまだ休息が足りないんだって……ば!」
「うわ!?」
 生まれてから二十一年間ずっと、でかいやら重いやら言われ続けていた身体がふわりと浮き上がる。それが兄貴に抱えられたからだとようやくわかったのは、ベッドにその身を横たえられた時だった。夢とはいえ身体が浮くとビビる。
「八十キロあんだぞ俺……!?」
「弟くらい抱っこできるよ! 僕、お兄ちゃんだから!」
 全く論理的でない台詞を吐いた脳筋は、涼しい顔をして布団をかけてくる。暖かく優しい重力に包まれると、鈍い眠気が襲ってくる。夢でも眠くなるもんなのか。
 ……一つ、急な不安が浮かんできて、「あのさ」と呼びかける。
「なあに?」
「寝てる間に、いなくなったり、しない?」
 俺の問いに、彼は優しく、それでいて力強く断言する。
「しないよ。言ったでしょ、今日明日はここにいるって」
「ほんと?」
「本当だよ。君が寝てる間も、ずっとここにいるよ」
「そっ……か」
 その言葉に安心した、のかもしれない。目蓋がどんどん重くなっていく。
「ねえ、にいちゃん」
「うん。なあに、奏太」
 溶け出しそうな眠気の中、さらに一つ、問いかける。
「どうして来てくれたの、俺なんかのところに」
 問いかけた途端、急に強くなる眠気。そのせいで、
「奏太と話したかったし、それに――
 その先の言葉は、微睡の中に溶け、わからなかった。
 


 茜色の光の眩さに目を覚ます。もう夕方らしい。かなり寝ていた。
「おはよう、奏太」
 そんな言葉と、ぱたん、と本の閉じる音。枕元にいた兄貴によるものだ。こちらが何か言うより先に、ほっとしたように微笑む。
「ずいぶん顔色がよくなったね。身体も楽になったんじゃない? いい免疫を持ってるね」
 問われて頷く。昼に感じた倦怠感とか、昨日までの気力のなさとかその辺がだいぶ薄まった気がする。睡眠の強制が功を奏したみたいだ。思考もだいぶクリアになった。
 ……それはいいんだけれど、頭がすっきりしたせいで、一つの疑問が浮かぶ。
 これ、本当に夢なんだろうか。
 全ての感覚がリアル、というか現実と何一つ変わらない。兄貴がいるということ以外、夢のような突飛なことも起こらない。
 本当に、兄ちゃんがいる? 俺の家に?
 浮かんだ思考に対して、即座にかぶりを振った。そんなわけがない、あるわけない。あいつは闇医者として生きることを決めたんだ。俺はあいつにあんな言葉をぶつけて拒絶して別れたんだ。だから、わざわざあいつが何の用もなく俺の元に来るなんてことは、ない。
 じゃあ、この状況はどういうことなのか。夢じゃなくて、現実の世界で、あいつが俺の家にいる、そんな状況が起こりえることは――
「ははは……
 あった。見つけた。
 一つの可能性に、辿り着く。あまりにも虚しいし、とてつもなく気持ち悪くて怖い答えだ。でも、きっとそうなんだ。
「そっか……そうなんだ……
「奏太?」
「あーあ、夢の方がマシだった……
「夢? マシって、何が?」
 俺の方へ近づく“目の前の男”から飛びのく。不思議そうに、どこか寂しそうにこちらを見つめている彼に、夢と均衡を壊す問いかけを投げる。
「貴方は、どなたですか」
 彼は、しばし俺の言葉を反芻するように固まっていたが、やがて
…………え、ええええ!?」
 素っ頓狂な叫び声を上げ、一気にまくしたてる。 
「いやいやいや、なんでさ! 僕だよ、執! ずっと一緒にいたじゃない!」
「こういうこと、何度かあったんですよ」
 困惑する何某の言葉を制し、俺は辿り着いた答えを告げる。
「錯乱して、まったくの別人を兄だと誤解してしまったことが」
 夢じゃなければ、世界が狂っていないのならば、おかしいのは俺だ。
 そう、俺が狂っているんだ。いつの間にか狂ってしまって、目の前の知らない誰かを、兄と誤認している。
 何度か錯乱状態になったときに、神話生物や園田さんを兄貴と違えてしまった覚えがある。だからきっと、今回もそうだ。道端で出会ったこの人を、俺は都合よく現れた兄だと勘違いし、この人はそれに乗っかって家までついてきた、と。多分、これが真相だ。
「俺についてくるってことは、叶出朋のファンの方とか……ですか? たまたまおかしくなってる俺を見つけて、家がわかって入ってきちゃったと」
「違うよ奏太。僕は」
「今すぐ出ていってくださるなら、俺の家に入ってきたことは咎めません。非は俺の方にありますし、それに、」
「ねえ、話を聞いて」
「少しの間とはいえ、良い夢を見させてくれたので」
「奏太ッ!」
 両肩に置かれた手。深く黒い、兄の姿をした何かの瞳がすぐ近くに見える。心臓がひとつ、跳ねる。
「落ち着いて、深呼吸」
 狭まった視野では、指示されたことをする以外の選択肢は見つからなかった。
 目を瞑り、呼吸へ意識を向ける。気が付けば不規則になっていた息を、少しずつ、少しずつ、大きく吐いて、吸って。
「ごめんね。君に会わなきゃって一心で来てしまったから、驚かせたよね」
 誰かは、俺の下手くそな呼吸を気遣いながら、少しずつ言葉を紡いでいる。
「僕ね、奏太のことを助けるために来たんだ。ずいぶん、遅くなったけど」
 吸って、吐いて、吸って、吐いて。
「きちんと、正真正銘の僕だよ。奏太は顔も見たくないかもしれないけれど、君に会うために来たんだ。……如月執は、ここにいるよ」
 心が凪いでいく。頭の靄の、最後のひとひらが霧散し、消えていくのがわかる。
 目を開ける。……如月執は、そこにいた。誰かに変わることも、靄とともに消えることもなく、ただ、そこに。
「大丈夫? 落ち着いた?」
……兄ちゃん、なの?」
「うん! うん、そうだよ!」
 彼はほっとしたような笑顔と頷きで肯定してくる。
「夢でも……俺の気の迷いの存在でもない?」
「うん。僕はここにいるよ。ほら」
 言いながら、彼は俺の手を取る。俺より小さいけれど分厚い、温かな手だ。
「本当の本当に、兄ちゃん……?」
「本当の本当だよ。本物の僕だよ。お兄ちゃんだよ」
 心底嬉しそうに、彼は――如月執は、大きく頷く。
「奏太に会いに来たんだ。自分の意思で、こうすることを選んで」
 兄ちゃんが、ここにいる。夢でも、気の迷いでもなく、本当に、ここに。
 俺に、会いに来てくれた。本当に、兄ちゃんが。
 また会えたことが嬉しくて。夢だとか、偽物の別人だとか信じて喚いたことが申し訳なさすぎて。昨日の時点でちゃんと出会っていたのに、きちんと挨拶できてなかったなぁと思い出して。でも今更挨拶するのは照れ臭くて。それから、最後の別れを思い出して、何を言えばいいのかわからなくなって……その他、諸々の混沌とした感情や思考が溢れてしまったせいで、
…………ひさし、ぶり……
 そう、絞り出すのがやっとだった。
「うん、久しぶり。こうしてきちんと会えるのは、本当に久しぶりだね」
……そうだな」
 一度だけ、おかしな夢を見た時に顔を合わせたことはあるけれど、あの時は元の場所に帰るために必死すぎて、落ち着いて話をする余裕なんて皆無だった。平和な現実の世界でこうして顔を合わせるのは、あの訣別の日以来だ。
「いや、でも本当に何しに来たの……しかも今になって」
「ごめんね」
「なんでずっと謝ってんだよ」
 思い返すと、昨晩出会った時から謝ってたな兄貴。
「僕なんかが会いに来るのは、きっと迷惑だと思って。あの時が今生の別れだと思ってたから」
「そんな……ことは」
『顔を見せるな、犯罪者』
 それが、俺が兄に最後にかけた言葉だった。……やっぱり、あの言葉は兄の中でも大きな傷として残ってしまったんだろう。
 気まずい空気を払拭するように、「それはそうと!」と兄貴は手を叩く。
「さっきも言ったけど、僕、奏太のことを助けに来たんだ」
「助けに……
 そういえば、そんなことを言っていたような気がする。でも、意図がわからない。
「助けるってどういうこと? ……あ、具合悪かったことを言ってる?」
「ううん、そうじゃなくて……ええとね……
 さっきの勢いはどこへやら、兄貴はまた言い淀む。暫し待ってみるけれど、答えは返ってこない。
 しびれを切らして、「とりあえず、飯でも食いながら話しない?」なんて提案をするよりほんの一瞬早く、兄貴が口を開く。
「少し、ドライブでもしない? 外で話、したいかも」
「ん? まあ、別に……いいけど」
「ありがとう。……じゃ、僕、車を取りに行ってくるね。すぐ戻るから、待ってて」
 そんな一言を残し、兄貴は一足先へ玄関へと向かう。
 ……兄貴の微笑みが、なんだかひどく不器用で無理やりなものに見えたのは、俺の気のせいだろうか。