>P12 「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」
猫投げるのもすごいがハミガキしぼりきるのは確かにその上をいく怒りだ。
☆ ☆ ☆
>P16 孵るものなしと知ってもほおずきの混沌(カオス)を揉めば暗き海鳴り
これくらい硬派なものが好きかもしれない。ほおずきはたしかに卵のよう。そこから何が生まれてくるか、こないかは知らないから混沌。気配だけがするものを海鳴りと呼んでいるのだろう。
☆ ☆ ☆
>P18 春雷よ「自分で脱ぐ」とふりかぶるシャツの内なる腕の十字
情事前の光景としてたいへん美しく背徳的。
☆ ☆ ☆
>P19 脱走兵鉄条網にからまってむかえる朝の自慰はばら色
この歌集の中で一番好きでした。直接的な性の表現が好きで、それを美しいものに接続した感じがとてもいい。
性についての捉え方は色々あると思うけれども私はその本質を「滑稽」だと思っていて、滑稽であるのにそれを欲望してしまう私達は滑稽で、だからこそ性を美しく描写しようとするものが好き。
☆ ☆ ☆
>29 海にゆく約束ついに破られてミルクで廊下を磨く修道女(シスター)
ふられて尼寺入りをしてしまったか
…気の毒に。ミルクで床を磨くとそのうち臭くなるので、ミルクの白さから連想される清潔さに、反して内包される恨みつらみを感じます。やがて床からくさったにおいがしてくるはず。
☆ ☆ ☆
>P30 前夜(イヴ)のための前戯か頬をうちあえばあかあかと唐辛子の花環(リース)
花環から連想される可憐さと唐辛子の噛み合わなさが良い。言葉選びの妙。
☆ ☆ ☆
>P35 ボールボーイの肩を叩いて教えよう自由の女神のスリーサイズを
忍び込むような性の目覚めを感じます。これまでそんな目で見たことなかったのに
…
☆ ☆ ☆
>P39 歯を磨きながら死にたい 真冬ガソリンスタンドの床に降る雪
歯を磨きながら死にたいなんて思うのは意味がわからない。
のに、それが成立してしまうのが短歌。たいへん短歌らしい特徴の短歌だと思う。
小説とは根本的に成り立ちが違う。
☆ ☆ ☆
>P43 査定0の車に乗って海へゆく誘拐犯と少女のように
スピッツの「スパイダー」であったり、映画「ペーパームーン」や「LEON」を連想させる。
悪い大人の男と少女という組み合わせはたいへんよいものなので。
☆ ☆ ☆
>P58 朝の鳥がさえずる前に胸をひらけシャツのボタンをすべて飛ばして
元気すぎるだろう。
☆ ☆ ☆
>P63 銀幕に目を閉じたまま氷だけ残ったコップを座席(シート)の下に
映画館マナーとしてはおそらくNGなのですが、こういうNGを短歌という形式の中に収めるとその瞬間の心情が伝わってきて、そういうNGをさりげなくしてしまう気持ちが分かる、と思うのは、この歌が詠んでいる情景がこちらに伝わっているということ。短いのに力があるのはどうしてだろう。
☆ ☆ ☆
>P65 天使にはできないことをした後で音を重ねて引くプルリング
「天使にはできないこと」という表現! 秀逸で唸る。
これも短歌的表現だと思う。
小説でこれをやろうと思うと婉曲すぎるし、よっぽどうまくやらないと多分いくらか鼻につくんじゃないかと思うが、短歌でやると美しい。
土俵が違うと表現が変わる好例。
☆ ☆ ☆
>P66 泣きじゃくりながらおまえが俺の金でぐるぐるまわすスロットマシン
財布の中がすっからかんになるまで回さないと気がすまないやつでは。南無三。
☆ ☆ ☆
>P68 スニーカーの踵潰して履く技を作り給いしイエス・キリスト
イエス・キリストは有名だしありがたいお人という通念はあっても、具体的にどうありがたいのかよくわからない日本人的感覚の歌のように思う。多分、偉い人。でもどう偉いのかよくわからない。スニーカーの踵を潰して履く歩き方を見つけたのかもしれないし、コーンスープの缶にコーンが残らないように飲むやり方を見つけたのかもしれないし、携帯のバッテリーを少しだけ長持ちさせる方法を見つけたのかもしれない。とにかくイエス・キリストは偉い人で、なんで偉くてすごいのかよく分からないけれどもきっとそんくらいのことをやってのけたんじゃない?というような軽さがある歌。「軽やか」とは違う「軽さ」がある。
☆ ☆ ☆
>P69 お遊戯がおぼえられない君のため瞬くだけでいい星の役
>P69 お遊戯がおぼえられない僕のため嘶くだけでいい馬の役
セットで味わう歌。君には星の役。僕には馬の役。お星さまよりお馬さんの方がちょっとだけ間が抜けているようで、三枚目なようでもあって、そういう役割を与えられた「僕」のちょっとだけ格好がつかない感じが可愛らしい。
お星さまよりお馬さんのほうが配役として「オイシイ」と思うな。
☆ ☆ ☆
>P76 ピーマンの断面きみに見せたくて呼び鈴押しにゆく夏の夜
ピーマンの断面はそのままピーマンの断面でもいい。すぱっと二つに割って、芯に群がるように生える白いつぶつぶの種。緑色の外側の中にある白い芯と小さな多くのつぶつぶ。
ここで示されているのはそのものピーマンの断面でもあるし、ピーマンの断面で示される「何か」でもあって、その「何か」というものはいくらか卑猥で、赤裸々で、もしかすると淫靡でもあるかもしれない。
☆ ☆ ☆
>P78 陽光のなかに夜明けの夢を告ぐ スプリンクラーにとまる黒揚羽
アメリカの郊外の庭付き一戸建て住宅の朝焼けの様子が浮かびます。デイヴィット・ホックニーの絵を連想しました。パリッとした色合いで構成される記号的な風景。
絵として完成されている歌で、ちょっとこれは格好良すぎるなぁとも思う。
☆ ☆ ☆
>P87 「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋
これは、わかる。「にんぎょくさい」つまり「人魚くさい」と、存在しない生き物の生臭さのようなもので表現されているのもよくわかる。何が分かるかと言うと、ミネラルウォーターって時々なんか妙にくさい時があるよねと。なんか別の要因があるんじゃない? って言われそうですが、いやいや確実に水がくさい。でもミネラルウォーターなんだからくさいわけがない。でも確かにくさいんだよなあと。
エビアンって硬水でしたっけ。いま調べたら、フレンチアルプスの水だそうです。フランスで採れた水で、ミネラルなどが色々入っていて日本の水とはちょっと違うから口に合わないのかもしれない。そういう口に合わなさを「にんぎょくさい」という表現で分からせるのは、とても絶妙ですごいことのように思う。
☆ ☆ ☆
P68
>スニーカーの踵つぶして履く技を作り給いしイエス・キリスト
>星座さえ違う昔に馬小屋で生まれたこどもを信じるなんて
「スニーカーの」から始まる歌については先日一度感想を述べたのですが、今ひとつ言いたいことを言い切れなかった感じがしていたのでその後も少し考えてみて、段々考えがまとまってきました。
この二首は、豊かな時代の人物が、貧しく辛い時代の人物たちの切実さをからかった歌なのでは? ということを思いました。
この歌が収録された『ドライドライアイス』が出版されたのは1992年ということで、この時期はちょうどバブル崩壊した頃と重なりますが、バブル崩壊と言っても2024年の現在と比べればまだ日本が豊かだった頃です。
1992年出版の歌集に収録されているので、この歌が詠まれたのはそれより少し前と考えると、日本のバブルの豊かさの頂点で詠まれたものだったかもしれない。
イエス・キリストというのはこの歌が詠まれた時代からおよそ1992年前に生まれていて、その時代は1992年から比べればずっと未開で、貧しく、聖書に書かれる人々は苦しみ悩んでいて、そんな人々を救うためにイエス・キリストという人物が立ち上がっていった。
そういう時代の切実さというものから信仰の対象として成立していったイエス・キリストというものを、1992年の視点から見た時に「なんだかよくわからんけど、偉い人なんでしょ、多分」くらいの距離感と理解で歌った歌がこの二首なのではないかと、そのように思うのです。
貧しさや苦しさからくる切実さによって救世主を求める人々を、豊かな時代の頂点から冷たく笑うような温度感がこの歌には含まれている。豊かな時代にイエス・キリストは必要がなく、馬小屋で生まれた子どもを信じることをあたかも「賢くない」とでも言うような口調で歌にしている。
穂村弘はこの歌を詠んだ当時、その豊かさと軽薄さに、果たして自覚的だったのかどうか
…どうなんでしょう。
そして2024年の今現在、更に日本は貧しくなり続けているわけですが、今の時代にこの歌を鑑賞すると、もう今はない、過ぎ去った時代の感覚というものを感じるわけです。
☆ ☆ ☆
>P94 さみしくてたまらぬ春の路上にはやきとりのたれこぼれていたり
きっと近くで屋台が出ていて、花見のお客さんが行き交っていて、そんな中にひとりでいたらたしかに寂しい。桜が綺麗だとより寂しいかもしれない。
屋台の存在とか、人々の往来とか、桜が咲いているであろう様子が「やきとりのたれ」という一言で仄めかされているのがとてもすごい。
☆ ☆ ☆
>P94 窓硝子の陰が散らばる教室に無瑕のユリスモールを想う
これは萩尾望都の『トーマの心臓』のキャラクターのユリスモールのことで間違いないと思いますが、なかなか意地悪いような気がします。
ユリスモールは優等生でいなければならないと自分に課していた少年ですが、その張り詰めた気持ちを不良のサイフリートに見抜かれ、傷を負わされることとなります。
『トーマの心臓』はそのユリスモールの傷を癒やすために身を投げた少年トーマの死の真相をユリスモールが知り、受け入れて癒やされ、次の人生に進んでいくという再生の物語なわけですが、このユリスモールが「無瑕であったならば」という想定はそもそもこの物語を否定することにもなるし、ユリスモールというキャラクターの否定にもなる。
何を思ってユリスモールの傷を無かったことにしたいのかね?!ということをこの歌を鑑賞した時に思ったわけですが、この歌のそもそもの狙いはそういう風に『トーマの心臓』ファンが「なんだと」といきり立つ、その感情の動きにあるのかもしれない
…と思ったり、いや実は穂村弘はなんとなくこの歌を詠んだだけなんじゃないか
…というような気もしなくもなかったり。
☆メモ☆
モー娘。の「LOVEマシーン』を今聴くと「なんかすごい
…明るい
…パワーがある
…不景気だって言ってた時代に発表された歌なのに今聴くとすごい明るい
…」みたいな印象を持つのですが、
穂村弘の『ラインマーカーズ』を読むとそのモー娘。の昔の曲を聴いたときと同じように時代の感覚というものをすごく感じる。『ラインマーカーズ』の場合は時代の豊かさと、「なんとなく」「ふわっと」でやっていけるというような見通しの楽観さみたいなものと、センチメンタルをあえて見つけようとするような姿勢と、それとやっぱり豊かだからこその軽薄さみたいなものがありますね。時代の感覚というものを的確に表現していた歌人なんだろうな
…という感じ。
穂村弘の最新作を読んでみたいですね。今の時代の感覚も的確に表現しているのだろうか。
☆ ☆ ☆
>P96 ねだられて人魚に渡す襟章はとどろく春の潮騒のなか
とてもいい歌だなと。この一首に物語と、そしてその物語で描かれている感情の凄みが含まれているように感じます。
人魚との邂逅と交流、襟章をつけるような何らかの組織に所属している人間の折り目正しさと、そういった人物が人魚と逢瀬するという淫靡さ、そしてその人物の身分を示す襟章を人魚が欲しがるという、示唆的な状況。その状況を取り巻くのは「とどろく春の潮騒」
この完成度!! すばらしい一首。
☆ ☆ ☆
>P97 アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜
批判
…というところまで行かないのでこれは批評の枠の中で話をしたいのですが、ここまで『ラインマーカーズ』を読んで全体的に「軽い」と思うその軽さが、この一首にも如実に出ていると思うんです。
「アトミック・ボム」つまり原子爆弾についての歌なのですが、日本は原子爆弾を落とされて相当の被害が発生した歴史がある国ですので、日本人が原爆を語ることには相応の重みというものが発生するし、重みが発生することを多分引き受けなければいけない。それを引き受けることができないのであれば語らないのが最適だと私は思うんですよ。
自分が引き受けることができないことについて語ることを避けるというのは、ともすれば卑怯である。と同時に、それは節度でもある。
でも穂村弘のこの歌からは、その節度という感覚がすぽーんと抜けているように感じるんですね。
なんとなく、「アトミック・ボム」という言葉を使ってみたかったから、とか。その言葉のイメージを持ってきたかったから。くらいの軽さで詠んだ歌なのではないかな? ということを、私はこれを見て思いました。私が読み切れていないだけかもしれないけれども。もしそうだとしたら私の技量不足ということで切り捨ててもらっても構わないのですが。
ただやっぱり、この歌はあんまり良くない。良くないというのは道義的にあんまり良くない。その道義的に良くないというところを、「別になんにも怖くないよ〜」なんて言いながら渡ってしまうような感じが「軽い」。
先日
>スニーカーの踵つぶして履く技を作り給いしイエス・キリスト
>星座さえ違う昔に馬小屋で生まれたこどもを信じるなんて
の二首について、「豊かな時代の頂点から、貧しさや苦しさからくる切実さによって救世主を求める人々を、冷たく笑うような温度感がこの歌には含まれている」と書きましたが、
それと同じような温度感を、この「アトミック・ボム」の歌からも感じます。
本当はもっと重く真剣に取り扱うべきものを、安全な場所から弄ぶような感覚。
人の痛みや苦しみを取り扱わずにキャッチーでセンセーショナルな単語を引用すること。
「アトミック・ボム」について深く考えることもなく、「はだかで石鹸剥いている夜」というような、なんとなくのエモい雰囲気の状況描写で終わらせてしまうこと。
これはあんまり良くないのではないかな? と、私は思います。
でもこれがこの歌が詠まれた時代の感覚だとすれば、たしかにそれもさもありなんという気がするわけです。
☆ ☆ ☆
>P98 日の丸の円周率のうつくしい産医師異国で血に染まりおり
これはいい歌。であると同時に、やっぱりこれもなんだか「軽い」と読んでしまうのはちょっと先入観が強くなってきているかな、と。自分の読み方を振り返ってみたりしてしまいますが。
きっと海外協力隊とか、そういう活動をしている医師について歌った歌なのでしょう。日の丸の腕章やワッペンなんかをつけて、人道のために活動する医師の姿。
「日の丸の円周率のうつくしい」と、円のまるさのうつくしさを、その産医師の姿のうつくしさとしてイメージをスライドさせていくやり方は本当に上手。
そしてその産医師が「血に染まり」という苛烈な状況にあることも描写することで、その産医師の在り方のうつくしさがより際立つように描かれている。これはすごい。
それはそうと、やっぱりなんというか、これは海外で人のために活動する産医師の姿を感動的に描いているのですが、その感動を巧みに描けてしまう穂村弘の技量と、それを自分の作品として発表してしまえるということの割り切りの方に目が行ってしまいます。
「海外で活動する産医師について」までは書いているけれども、
「海外で活動する産医師について思う俺」というところまで入ってこない所が巧いし、ちょっとずるいかなとも思います。
☆ ☆ ☆
>P100 やわらかいスリッパならばなべつかみになると発熱おんなは云えり
とてもいい歌だと思います。穂村弘、社会問題とか歴史に足を突っ込むのはちょっと危ういような気がする人かもしれないと思うのですが、こういう半径3メートルくらいのニュアンスを拾うことについてはとても素晴らしいのでは? というのが、今のところの私の実感です。もしかすると最近の作品を読んでみればまた違う印象を持つのかもしれませんが。
やわらかいスリッパならばたしかになべつかみになるだろうという納得があります。形状が頭に浮かぶ。それはそうとスリッパはスリッパで床を歩くものなのでなべつかみにするにはちょっと衛生的にどうかと思う。けれどもそれを言うのは発熱おんななので、そうか、熱でちょっとおかしくなっちゃってるんだな、という把握ができる。そのおかしくなりかたのニュアンスの程度が「スリッパをなべつかみに」というのが、なかなか絶妙でおもしろいわけです。
☆ ☆ ☆
>P101 眼鏡型渦巻きストロー駆け回るミルク 死ぬまで騙しておくれ
これもとてもいい歌。こういう渦巻きストロー、最近は見ないですね。百均とかで探せば見つかるかな?
こういうパーティグッズのような、ちょっと言い方は悪いですが、子供騙しの感じとか、くだらなさとか、けれどもそういうちゃちい面白さみたいなものに救われたり、そういうもので生きながらえたり、繋がっていったりする、みたいなものって確実にあるよね。みたいな。
切実さだけで人は生きていなくって、こういうチープな面白さで騙し騙しその日その日を切り抜けて、みたいな、綱渡りみたいな感覚が描かれていて、それがとても良くって面白いなと思います。
☆ ☆ ☆
>P101 手づかみのシリアル頒つ扇風機の羽根柔らかくひかる朝(あした)を
分かる歌だけではなくて、ちょっとむずかしいですねこれは
…という歌も取り上げてみようかと思ってこちらをピックアップ。
さて、こちら、一度目を通しただけではどういう歌なのか良く分かりません。多分、夏の朝なのかな
…? というくらいしか読み取ることができない。
夏の朝、と思う根拠は、「扇風機」ですね。
そして「シリアル」
扇風機の出番はおおよそ夏でしょうし、
シリアルという食べ物も、つめたい牛乳をかけてサクサク食べる軽い食べ物と思えば、こちらもまた夏の食べ物であるような気がします。(私は牛乳をあたためてシリアルをふやかして食べるのも好きですが、ここではそれは多分想定されていない食べ方な気がします。)
朝である根拠は「朝」という字が使われているから、そして「シリアル」を食べるのはおおよそ朝であろうということで。
というわけで、これは多分夏の朝の光景なのだろうと思われます。
が、それにしては不可解過ぎる。
まずは出だし。「手づかみのシリアル」とありますが、シリアルを手づかみで食べる気のようです。スプーンを使わずに、おそらく牛乳も何もかかっていない。スナック感覚で食べるのは私も分かりますが、その後に来るのが「頒つ」という言葉。
「頒」という言葉は、①分ける、分け与える、広く行き渡らせる ②まだら という意味合いで、ここでは順当に①の意味が使われているだろうと思われますが、
じゃあ「手づかみのシリアル頒つ」というのはどういう状況なのでしょう。
手づかみで、シリアルを
……それぞれのボウルに分け入れている光景?
箱に入ったシリアルの袋、上のほうをがばっと切って開けてしまったために、横にして流し入れようとすると全部出てきちゃうから、手を突っ込んで出してボウルに移しているとか、そういう状況でしょうかね。
シリアルを手づかみでむしゃむしゃ食べていると考えてもいいと思いますが、「頒つ」という言葉を考えると、これから食べるシリアルを分け入れていると考えるほうが筋が通っているかな。
そしてその後、「扇風機」が出てきますが、この扇風機の「羽根柔らかく」ときて、羽根がやわらかい
…???と、扇風機の羽根がぐにゃぐにゃと曲がる様子を想像しますがたぶんこれは後の言葉にもかかっているんですね。「羽根柔らかく光る」というところまで通して読む方がもしかすると納得しやすいかもしれない。つまり柔らかいのは扇風機の羽根ではなく、きっと窓から差し込んでくる光のこと。そしてその光が扇風機の羽根にあたって、その光景が「柔らかくひかる」と表現されている。
と同時に、扇風機の羽根がやわらかいという印象も持たせることによって、この歌で描かれている空間の雰囲気の独特さ、ちょっと夢の中にいるような感じも演出されているような気がします。
そしてこの歌は最後まで気が抜けないのですが、「朝」と書いて「あした」と読ませている。
「朝」なのに「あした」??????
……どうして朝のことをあしたと書いているのか。これは妄想の読み解きになりますが。
「朝」を「あさ」と読ませると、それは今日の朝のことを表しているように読めると思うんですよ。
では「朝」を「あした」と読ませるとどうなるのかというと、それは現在でもありながら、未来の時間までをも含むようなニュアンスを帯びることになる。
今朝ではない。けれども過去でもない。未来のいつかに経験するそういう朝の光景。
というニュアンスを含ませるために「朝」を「あした」と読ませているのではないかな。と思いました。
「朝」がもし「あした」ではく「いつか」であったら、ここにはノスタルジーが含まれてくると思いますが、「あした」とすることでノスタルジーの気配を排して、未来にそういう穏やかな朝がきっと存在するであろうという、確信が発生するような感じがします。
というわけでこの歌は、未来にいつか経験するはずの穏やかな朝の光景を歌ったものである。と私は読みましたが、さて、実際はどうなのでしょうか
……。
シリアルを手づかみで食べているのか、それともボウルに分け入れているのか
……。
☆ ☆ ☆
>P103 都庁窓拭き人がこぼしたコンタクトレンズで首は切断された
面白い一首だなと思いました。都庁というのはつまり東京都庁で、あの二つのビルが魔城のようにそびえ立つ様子がぱっと思い浮かびます。
そんな都庁の窓拭き人が、コンタクトレンズを落としたんですね。東京都庁は、今調べたところ48階建てだそうです。高さ243メートル。高い建物ですね。
そんな高さから窓拭き人がコンタクトレンズを「こぼした」そう。ここで秀逸なのは「おとした」ではなく「こぼした」という表現です。
目から、ぽろっと落ちたんですよ。それを表現するのに、「おとした」はいくらか適当ではない。「おとした」という表現は暗黙的に(手から)という一言が付くような感触がある気がします。
目から落とす、ではなく、目からは「こぼれる」なんですよね。涙も「こぼれる」ようにコンタクトレンズも「こぼれる」なんです。
というわけで、窓拭き人はコンタクトレンズを「こぼした」わけで、落ちたコンタクトレンズは通行人の首を切断した様子。
48階建て、243メートルの高さからコンタクトレンズを落とせば、そりゃ首も切断されるであろうというような、その高さと勢いの表現として首が切断される描写を入れるというのは、とてもすさまじく、とにかく巧いわけです。
☆ ☆ ☆
>P103 生まれたての仔猫の青い目のなかでぴちぴち跳ねている寄生虫
ちょっとぎょっとする歌ですけれども、けれども同時になぜかその状況を許容できてしまうような気持ちにもなります。
かわいい〜♥ と覗き込んだ仔猫ちゃんの綺麗な青い目の中にうにょうにょぴちぴち、新鮮な寄生虫が跳ねているわけです。一瞬ウッて思う。と同時に、病院行かなきゃね〜♥ 虫さん駆除してもらおうね〜♥ となるのが私ですが、この歌の視点である人物は多分もうちょっとドライに「あ、虫いる」って思っていて、その様子をどこか突き放したように見ている感じもします。
「仔猫? うん、かわいいね。虫
……きもいけど、まあ、いるだろうね。ピンセットで取っちゃう? 取れるかな、わかんないけど。病院、行く?」くらいの距離感で仔猫の目の中の寄生虫を眺めている姿がこの歌には描かれている気がします。この温度感の表現が面白い。
☆ ☆ ☆
>P104 俺の眼を覗く警察官の腰回りに黒いものがいろいろ
多分これ職質されていますね笑
ちょっと素性が明らかではない雰囲気があったとか、そういう感じだったんだろうなという気がします。
この人物の視点から見ると、警察官の腰回りの装備が「黒いものがいろいろ」に見える。この時の「黒いものがいろいろ」という解像度の表現によって、この人物が職質されるようなぼやっとした様子の人物なのだろうなということを連想させて面白いです。
☆ ☆ ☆
>P105 死んでしまった仔猫のような黒電話抱えて歩む星空の下
また仔猫、というわけでピックアップ。
前の歌は仔猫の可愛らしさと、その目の中に住む寄生虫の気味の悪さという落差が表現されていましたが、今度は「死んでしまった仔猫」という表現によって、痛ましさが表されている感じがします。可愛い、いたいけな仔猫が死んでしまったとしたら悲しい。とても悲しくいたましい。
けれども仔猫は実際には死んでおらず、その痛ましさのイメージがふりかけられているのは「黒電話」です。
死んでしまった仔猫を抱える時はきっと大切に抱えていくことだろうと思います。そのように黒電話を抱えてみる。
可愛い、いたいけな、もう鳴ることはない黒電話。
「黒電話」というものがもつ古い道具の印象、それが役目を終えて、もしくは未だ活躍できるのに引退せざるを得なくなった。その黒電話への愛着を抱いて美しい夜を歩くという、そういった状況のイメージは、たしかにエモーショナルだなと納得するところです。
☆ ☆ ☆
>P105 セロテープで直した眼鏡を掛け続けクラスメートを愛するタイプ
これはきっと博愛を歌った歌なのだろうなと思いました。
たまにいますよね。眼鏡のつるのぶぶんを折ったり、もしくは金具の部分を壊して、テープをぐるぐるまきにした人。私も過去二人ほど見かけたことがあります。新しいものに買い替えることなくセロテープで補修して使い続けるひと。多分、お金がないわけではない。そうして自分のことは適当に済ませてクラスメートのことを愛するという、そういったかたちで自らのことよりも他者のことをきにかけるひとの有り様というものが、その眼鏡の一件でたしかに伝わってくるわけです。
☆ ☆ ☆
>P108 賛美歌を絶叫しつつゆらゆらとスーパーマンが空をあゆめり
穂村弘のスタンスというものがこの一首にも表れているように思います。
賛美歌、というものは、神を称える歌。
それを「絶叫しつつ」「ゆらゆらと」と続けるのは、決していいイメージではない言い回しですね。
その光景を端から見て「うるっさいな
…」とでもいうような、厄介な、ともすればだいぶ怪しい人を見るときの目つきと言い回し。それが「絶叫しつつ」「ゆらゆらと」という言葉に表れている。
更に続くのが「スーパーマン」というのが強烈で、
多くの人を助ける、正義の味方、強くたくましい人物、
というものの、例えば信仰のあり方であるとか、
その正義のあり方というものを、
かなり白けた様子で眺めているのがこの歌ではないでしょうか。
私は個人的にはこういう冷笑ともいえるようなスタンスは好きではありませんが、
この短い文字数の中でこれだけの情報量とニュアンスを盛り込めるその言葉の選定のセンスは間違いなく一級のものだと思わざるを得ません。
☆ ☆ ☆
>P106 まぼろしの父を想いて羚羊の純白の胸にむけるリモコン
難解な歌で、読解は果たしてできるのでしょうか。ちょっとチャレンジしてみたいと想います。
まずはこの歌の中で、私が分からなかった単語が「羚羊」だったので「羚」の漢字から調べたら、この字はカモシカを表しているそうですね。そして「羊」の字を足して「羚羊」と書いて読みは「レイヨウ」意味は「カモシカ」ということで、つまり羚羊とはカモシカのことを示している。
羚羊と検索すると浄土宗のお釈迦様のエピソードが出てきました。
https://jodo.or.jp/newspaper/special/6492/
お釈迦様をカモシカに例える表現があるそう。
ということは、穂村弘のこの歌で歌われている羚羊とはお釈迦様のことを表しているとも捉えられないかな、と。
「まぼろしの父」という言い回しも、それがお釈迦様を宗教的、内的、信仰的に父とみなしたものを言い換えた言い回しだとしたら筋が通るのではないかと。
ではその胸にリモコンを向けるとはどういうことかなと。
リモコンはエアコンの電源をオンオフにしたり電気をつけたり消したり、テレビのチャンネルを切り替えたりという操作をするアイテムのことですが、
つまりリモコンを持っているということは、その対象に向けるスイッチを「私」の側が持っているということと思えないでしょうか。
まぼろしの父であるお釈迦様を象徴するカモシカの清廉な姿にリモコンを向けて、それをいつでも切り替えたり、スイッチすることができる主導権は「私」にあるという。
ここでも、なにか宗教的なもの、大きなもの、父なるものに対する穂村弘の距離を取った、なんなら「私」という個人にこそ主体があるのだと主張するような、そんなスタンスを感じるのです。
☆ ☆ ☆
> P109 「血液に型があるの?」と焼きたてのししゃもみたいな事故車の前で
大丈夫かな
…と心配になる歌ですね。この発言している人物がもしかして血をダラダラ流しながらそう言っていたのだとしたらだいぶ恐ろしい状況だなということを思います。
この歌で秀逸な部分は「事故車」を「焼きたてのししゃも」と表現している部分。焼けて焦げてねじれている表現としてこんなにぱっとその有り様が思い浮かぶたとえは他にないのではないかということを思います。これはすごい
…
そしてそんなやばい事故から助け出されて(多分助け出されたひとが血液型を尋ねられて返した言葉だと思います)、血液の型という概念を初めて知ったとでもいうようなこの発言
…果たしてこれはそれくらいケロッとしていて大丈夫ということなのか、それとも朦朧としていてわけのわからないことを言っているのか
…どちらなんでしょうね。どちらとも取れるのが面白く、また恐ろしく。
☆ ☆ ☆
>P111 こんなめにきみをあわせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ
ふふ
…と思いました。なにかオタク的な情緒をくすぐるものがこの歌にはありますね。ふふ
…うふふ
…
☆ ☆ ☆
最終更新 2024/06/11
このあとも順次追加していきます。