宇宙ステーションで目覚めたあの日以前の記憶がない穹ではあるが、困る場面というのは意外と少なくすんでいる。穹が失った記憶というのは思い出や体験に関することで、例えばスマホの使い方だとか、戦い方だとか、体に染み付いているらしい基本的な動作には支障をきたさなかったからだ。
自分がいわゆる記憶喪失であることを忘れてしまえる程度には、なんの支障もなく日々を過ごすことが出来ている。
「……ん」
だからか、意識しない場面に自分の知識の中にはないことに出くわすと心がざわつく。元々知らないことなのか。記憶と共に消えてしまったことなのか。霞がかった部分が自分の中に確かにあるのだと改めて自覚してしまえば、どうしたって気にかかってしまう。
一時的に忘れられたとしてもなかったことにはならない。考えても仕方がないのだと理解していても、穹は眉間を押さえて深くため息をついた。
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穹が資料室を訪れるのは旅先で得た資料や小説などの書物を丹恒にまとめてもらう為というのが主な理由だが、自分の記憶では心許ない場合に知識の穴埋めをする、というのもその一つだった。
いくつかの書物をお土産に資料室を穹は尋ねた。ノックをして入室許可のお伺いを立てれば、そう間を置かずにどうぞと返ってくる。扉を開けてるとそこには丹恒の姿があった。ラベリング作業をしていたのだろう丹恒は穹の姿を一瞥したかと思うと、視線は再び手元の資料と端末へ戻っていく。その様子に相変わらずだなぁと笑ってしまうが、その冷静さこそ丹恒だろう。冷徹な蒼龍は伊達ではない。
そもそも資料室は星穹列車の中でも公共に解放されている部屋なのだから無遠慮に入ってしまってもいいのだろうが、ノックは丹恒がいる確率があまりにも高いので習慣として身に付いてしまった。
ここは彼の私室ではないのだか、どういう訳か彼は資料室を第二の部屋として完全に居着いており、しかも泊まれるように寝床まで持ってきている。
初めは資料室の一角にやたらと生活感があるスペースがあるなと不思議に思っていたのだが、今では自室よりも資料室を尋ねる方が早いと理解しているので何も思わなくなった。
丹恒の自室は資料室であるとしばしば言われる理由である。
「どうした。依頼が入ったとかで今朝早く出ていっただろう」
手元から視線を外さずに言葉だけをかけて来る丹恒のすぐ傍まで、穹は歩み寄った。
「思ったより簡単に終わったからさっさと帰ってきた。はい。多分アーカイブにないやつ」
「……ああ、新しい資料だな。分かった。未処理の棚に入れておいてくれ」
色んな星を渡り歩く中で、その星特有の書物を得る事がある。目ぼしいものがあればなんとなく収集して、こうして丹恒の元へと持って帰ってくるのだ。彼はそれを面倒だなんて言わずに受け取り、アーカイブとして電子化、記録してくれる。
几帳面にラベリングされたそれらが目に見えて増えていく行程が穹は好きだった。資料だけではなく、失った記憶さえも埋めてしまう程に色濃く増えていく星穹列車での記録。その全てが楽しい記録だったとは言い難いが、それらを眺めていると自分がここにいる気がしてちょっとした安堵感を得られた。
また、作業をしてくれているのが丹恒だと思うとより一層愛着が湧く。
「一段落出来そうか?」
丹恒は未だ作業中で、穹からは横顔しか見えない。だが、真剣な表情で端末を認める眼差しは穹にとって好ましく映る。追加の資料を持ってきた身で言える立場ではないが、この様子だとまだ終わらないだろうなとは思った。
「いや、まだ時間がかかる」
「だよな。分かった」
実にあっさりと言ってのけられ、想像通りだと苦笑した。
丹恒は暇さえあれば資料の整理をしている。だから彼にとっては必要な作業なのだろう。穹がゴミ箱に抗えない魅力を感じるのと同じ様に。
時々眠りもせず資料と向き合っている事もあるので適度に息抜きさせる事も必要なのだが、彼の目の下に隈が出来ていないので今はまだ必要そうではない。たまには丹恒とゆっくり過ごせたらと思ったのだが、無理矢理時間を作ってもらうのは不本意だった。開拓の精神を持つナナシビト達の探求心は強く、そう易々とねじ曲げられるものでもないし、ねじ曲げていいものでもない。
資料を箱に納めてやることがなくなった穹は、先程感じた足りない知識の事を思い出す。せっかく資料室に来たのだから、それも補ってしまおうと棚へ向かって踵を返せばぐんっと後ろに引かれた。穹の左腕を丹穹の右手が掴んだのだ。
「終わらないが、もう少ししたら休憩する。だから……」
腕を掴んできた本人だというのに視線を反らすその様子が、まるで怒られると思い込んでいる子供のようで思わず笑ってしまう。ヤリーロⅥの下層部で逞しく暮らしていた子供達がまさにそうだった。
鳩尾の辺りがくすぐったくてあたたかくなっていくような、そんな心地。いじらしいという感覚に近いのかも知れない。
「調べものするつもりだったんだ。ここにいるよ」
きっと穹が部屋を出ていくと思ったのだろう。とはいえ、終わらないと言ったのは丹恒自身である。眉を顰めてじっと穹の出方を伺わなくてもいいのに。
腕を掴む丹恒の右手をそのままに向き直り、いつものすまし顔を崩している丹恒の目蓋に唇を寄せた。触れるだけのキスをして額を突き合わせる。すると先程のまでのいじらしさはどこへ行ってしまったのか、瑪瑙にも似た鈍色の瞳が冷めたように穹を見つめた。
理由は良く分からないがこれはちょっと苛立ってるな、と直感的に穹は判断する。
「……わざとか?」
「何が?」
「疑問に疑問で返すな」
「あは、唇にした方が良かった?」
至近距離で身を寄せあっていれば、手を繋ぐだけでは足りないと次第に位置を変えて互いの体に絡みつかせた。そうしてとも、そうしたいとも言った訳ではないのだが、丹恒の両腕は穹の腰を引き寄せ、穹の両腕は丹恒の首にすがり付くように回した。
一般的な友人関係では収まりきらない関係になったのはいつの頃だったか。思い返せば手が届く範囲にお互いが居て、そういう時はとても居心地が良く落ち着く。そういった些細な事の積み重ねがきっかけなのは覚えている。
「そういうことを言っているんじゃない」
「じゃあどういう意味だよ」
「……あんな顔されたら誰だって引き留める」
何か苦言でも言われるのではないかと一瞬身構えた穹だが、すっかり普段の丹恒に戻っている。言葉選びから少し冷徹さを感じるものの、穹の表情を見て慌てて引き留めたのだと思えば愛おしさが勝った。
「あんな顔ってどんな。そんな変な顔してた?」
「ああ。強いて言うなら親に置いていかれそうな子供のような顔だった」
「……嘘だ。そんな顔してないし、しない」
「こんなことで嘘をつく趣味はないが」
穹の腰に回っていた丹恒の両腕のうち、右手がするすると背中を撫でる。上へ下へ。ゆっくりと往復していく動きは上着越しであっても安心感を与えてくれる。
それにしても、お互いがお互いに子供のようだと思っていたなんて。同時に居たたまれなくなって、穹はこれ幸いと丹恒の肩口に心なしか熱くなった顔を埋めた。
「俺がお前を鬱陶しく思うことはない。だから、して欲しい事があるならちゃんと言え」
「……まだ終わらないんだろ」
「資料の整理は俺の職務だが急ぎじゃない。時間ならいくらでもある」
背中を撫でていた手のひらが今度は子供をあやすようにとん、とんと一定のリズムを刻む。このまま寝かしつけられてしまいそうだ。
「それとも、お前には俺が時間にだらしないように見えてるのか?」
「いや、全然。寧ろそういうのは要領がいい方だと思ってるけど」
穹の中での丹恒とは、いつだって要領の良い冷静な男だ。知識量も豊富で、それにともない先をある程度予測する力もある。おおよそ出たとこ勝負になってしまう穹とは大違いだ。
遠慮するなと言ったのは丹恒自身なのだから、穹がそれに対して遠慮することはないのかもしれない。
「……じゃあさ、今度は丹恒からキスして」
伏せていた顔を上げて「今度は唇ね」と自分の唇をとんと指差せば、丹恒は何でもないように短く了承し、間髪入れずに穹が所望した唇へ噛みついてきた。
丹恒にしては随分荒々しいキスに驚いたが、穹もそれに答える。手持ち無沙汰になった両腕は再び丹恒の首に回した。
優しく背中を撫でていたのと同じ手のひらが、いつの間にか穹の後頭部を押さえている。まるで逃げることを許さないと言うように。
「んぅ、……ふ。んんっ」
丹恒の舌が中に入ってくる瞬間はいつも眩暈がする。自分から迎え入れているのに、粘膜が絡み合った瞬間に気が遠くなって、意識がどこか遠い場所に飛びそうになってしまうような、そんな気がするのだ。
きっとこれが気持ちいいという感覚なのだろう。漠然としたものだが嫌ではないし、なんならもっとして欲しいと思ってしまうのでそういうことにしている。
「はっ……、ん」
もっと、もっとと欲しくなって、口付けはどんどん深くなっていく。最早どちらのものかも分からない唾液が互いの唇を濡らし、溢れたものは口の端を伝って首を伝い落ちていく。
キスを起点に気持ちよさが段々と全身を巡り始め、しびれるのと同時に体の芯から熱くなっていくような気がした。そして、下腹部の違和感に気付いた頃には息も絶え絶えで、後戻り出来なくなっていた。
「たん、こ……。下、……当たってる」
「お前もな」
裸ではないにしろ隙間なく体を密着させて抱き締めあっていれば、お互いの変化は感じ取れる。それに穹と丹恒は背丈があまり変わらないのもあって、主張し始めた熱を服越しに擦り合わせるような体勢になっていた。
このままお互いに腰を揺らしたりしたら……。そんな事を考えそうになる自分の思考にいやいや流石にそれはと呆れ、穹は一人唸る。
「これ以上はどうする? ……やめとく?」
「ここまで来て我慢する方が辛いだろ」
それはそうなのだが、そんなつもりで資料室を訪れたのではないのだ。資料を預けて、調べものをして、あわよくば丹恒が暇なら共に過ごしたいと思っていただけなのだが、どうにも体の方は欲望に正直だった。まさかキスだけでこうなってしまうなんて。
「したくないなら無理強いはしないが……。これはどうするつもりだ」
「っ、あ! んぐ、こら丹恒……!」
穹の腰に回されたままになっていた腕を突然丹恒がぐっと引いた。勃ちかけた陰茎にごりゅ、と圧がかかって思わず呻く。たった一瞬のことだが口付ける以上の快楽が痺れとなって腰から背中へ這い上がっていくようだった。
「一人でさせるぐらいなら今ここで襲うが」
「やけに強引だな! ……でもまぁ、うーん」
穹はここでスマホを取り出し時間を確認する。宇宙空間を旅する都合上、昼夜の分かりやすい指標がない星穹列車ではキッチリとタイムスケジュールが組まれている。特に起床と就寝。そして、食堂車が開いている時間。食堂車は毎食二時間程度開いているが、それを逃せば自力で何か調達するか、次に食堂車が開く時間まで待たねばならない。
朝早くに出て昼前に返ってきた穹としては、昼食を食べ逃すのは望ましくなかった。
「んん〜。じゃあ抜くだけ。昼飯食べ損ねそうだから本番はなしで」
「…………分かった」
「え、なんか不服そう」
「そうでもない。仮にそう思うならここ暫くの自分の行動を振り返るんだな」
「ここ暫くって、今日とそんな変わらな――」
穹の言葉を飲み込んだ丹恒はそのまま口内を蹂躙していく。これ以上何も言わせないするように舌を絡ませ、穹の思考までをも麻痺させていった。先程よりもずっと荒々しい口付けからは、そこはかとない丹恒の苛立ちを感じたような気がして、うまく回らなくなりはじめた思考回路をなんとか動かして考える。
いつ、自分は丹恒を怒らせるようなことをしたのか。何が彼にとっての不服となったのか。
「そうだ。今日と変わらない」
足から力が抜けた穹が体を大きく傾けた。それを丹恒が支え、ゆっくりと床に座らせる。グッとその身を寄せて来た丹恒は穹の胸を撫でた。その手つきはとても優しい。
「椅子にでも縛りつけてそこらに置いてやろうかと、考える時がある」
「何それ物騒」
思いもよらない台詞に穹は顔を引き攣らせた。背後は壁でもはや逃げ場などはない。それでも逃げた方がいいだろうかと穹から見て右側にある資料室の扉に視線を向けたが、その瞬間に丹恒の腕に視界を遮られた。
「縛られるのが物騒なら、足腰立たなくさせられる方がまだマシか?」
丹恒の美しい顔がすぐ近くにあるのに、今はその顔でとんでもないことを口走っている。自覚があるのかないのかそのままブツブツと考え始めてしまった。
「た、丹恒……?」
恐る恐る名前を呼べば丹恒の眼差しがより一層強くなった気がして小さく悲鳴をあげる。その瞳で見つめられた瞬間、縫い止められたように動けなくなって、ただ大人しくしていることしかできない。
「昼食は諦めろ、穹。始めたら止められそうにない」
それはほとんど処刑宣告に等しい宣言だった。
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